幕末明治

幕末、徳川の女性たちはどのように生きたのか【篤姫、和宮、一条美賀子】

徳川の女性たち

幕末期、それまで200年にわたり政権を握ってきた徳川家は、変わりゆく時代の波に翻弄され、大きな混乱とともにあったと言っても過言ではないだろう。

歴代の将軍たちや御家人たちにスポットが当たりがちな歴史談であるが、表舞台には姿を出さずとも、徳川の女性たち大政奉還の裏でどのように動き、徳川家の一員としての人生を過ごしていたのだろうか。

この記事では、幕末の世の中で、徳川の女性たちがどのように生きたのかを追ってみた。

徳川の女としての生涯を生き抜いた 天璋院篤姫

徳川の女性たち

※第13代将軍 徳川家定御台所となった篤姫 wiki public domain

幕末の徳川家の女性を語る上で、まず外せないのは、13代将軍・徳川家定の妻、篤姫(あつひめ : 1836~1883)であろう。

彼女は薩摩藩の出身であり、薩摩藩の強い意向により、薩摩藩藩主・島津斉彬の養女となり、そのまま徳川家へと輿入れしたのだった。

将軍家定は病弱であり、また後世の世には長く“愚将軍”としてのレッテルを貼られていたものの、篤姫と家定の結婚生活は幸せであったと、後年の作品では描かれることが多い。

その幸せな結婚生活は長く続かず、結婚してわずか1年9か月後の1858(安政5)年に、家定は急死してしまう。死因ははやり病のコレラであると言われているが、真相は謎である。

家定の死後、篤姫は薩摩藩に戻ることなく落飾(出家すること)し、天璋院(てんしょういん)として生きていくことを決めた。

家定亡きあとも、積極的に政治に関わり続け、将軍家の跡継ぎ問題や、徳川慶喜大奥改革にも尽力した。

また、薩摩藩主・斉彬に目をかけられ、養女になるほどの進歩的な考えを持った女性でもあり、ペリーが日本に送ったとされるミシンを、上手に使いこなしたというエピソードもある。

御台所(みだいどころ※将軍の正妻)でありながら、さばけた性格で、就寝前には酒もたしなみ、時には女中らと酒を飲んで酔っ払う、ということもあったのだそうだ。

やがて、大政奉還が行われ、明治政府が確立された後も、篤姫は薩摩の援助を一切受けず、東京で暮らし続けたという。

徳川の女性たち

※青年期の徳川家達

徳川慶喜の息子で、16代目の当主となるはずの徳川家達(とくがわいえさと)の教育を行い、家達には海外留学をさせていた。

また、元大奥関係者の就職や縁組にも奔走しており、なんと自身の財産を切り崩して、それらの世話を行ったという。

そのため、自身の元にはわずかな金銭しか残らず、生活には苦しんでいたようである。

そして、天璋院は、47歳という短い生涯を“徳川の女”として全うしたのである。

京都から降嫁した皇女 和宮

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※和宮親子内親王

和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう : 1846~1877)は、仁孝天皇の第8皇女であり、14代将軍・徳川家茂の正室である。

家茂の死後には落飾し、静寛院宮と名乗った。

幕末を描いた歴史作品では、必ずと言っていいほど取り上げられる和宮であるが、彼女はどのような人生を送ったのであろうか。

そもそも、和宮は本来、当時の天皇であった孝明天皇の命により、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約していた。

しかし、当時は朝廷と幕府の関係がかなり悪化しており、和宮が江戸城へ降嫁することにより、親和をはかろうと画策が行われた。

和宮はこの婚姻を拒否し、自ら宮中へあがり縁組を辞退したものの、朝廷側は譲らず、不本意な中で将軍・家茂への輿入れが決まってしまった。

しかし、結婚生活は思いのほかうまくいったようだ。

家茂は十代半ばの若者であったが、温厚で思慮深く、和宮の他に側室を持つことがなかったという。
和宮も心を許し、2人は仲の良い夫婦として結婚生活を楽しんでいた。

そんな幸福な結婚生活は短く、和宮が降嫁したわずか4年後、家茂は病気のため亡くなってしまう。わずか20歳という若さであった。
同じ年には兄を、前年には母を亡くした和宮は、度重なる大切な人々の死に、心を痛めたという。

しかし、家茂の死後、姑である天璋院と力を合わせ、大政奉還の際の無血開城に力を尽くした。

江戸城が開城された時、城内は塵一つ落ちていないほどぴかぴかに磨き上げられていたそうだ。

和宮はその後、わずか32歳という若さでこの世を去るが、その死後は愛する夫・家茂の隣に葬られている。

最後の将軍の妻 一条美賀子

※一条美賀子 『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』

徳川慶喜の妻として迎えられたのが、当時の関白である一条忠香の養女・一条美賀子(1835~1894)である。

当初、慶喜は一条忠香の娘である千代君と婚約していたが、婚儀直前に疱瘡(天然痘のこと)に罹患してしまう。
そのため、急遽、千代君の義姉であった美賀子に白羽の矢が立ち、慶喜と結婚することになったのである。

1858年には、2人の間に女の子が生まれるも、その子は生後わずかで夭折してしまう。
以降2人の間に子供が生まれることはなく、その頃から夫婦仲はぎくしゃくし、長い別居生活に突入してしまうのだった。

※慶応3年(1867年)大阪での慶喜

1868年、徳川慶喜は将軍職を返上すると、朝廷への恭順を示すために謹慎生活を余儀なくされた。謹慎場所は上野の寛永寺や水戸など、複数の地域であったと言われている。

この謹慎生活の際にも、慶喜と美賀子は面会が許されず、美賀子は夫と対面することができなかったと言われている。

また、美賀子は徳川家将軍の正室でありながら、一度も江戸城に入ることのなかった女性だった。

その理由として、結婚した当時には慶喜が将軍職に就いていなかったこと、将軍に就任しても京にいたことなどが挙げられるが、慶喜は江戸城の大奥制度に反対しており、そのこともあって美賀子には江戸城に入る機会がなかったと言われている。

1869年、慶喜の謹慎が解かれると、2人は静岡県で一緒に暮らすようになった。

美賀子は1894年、病気のために東京に戻り手術を受けるも、術後の経過が悪く、まもなく死亡した。

女性たちの力

この記事では、幕末期、徳川の女性たちはどのように生きたのかを調べてみた。

激動の時代に翻弄されながらも、将軍の妻たちは“徳川の女性”であることにプライドを持ち、凛とした姿勢で新しい時代に挑んでいたことがわかる。

歴史の表舞台に出ることは少ない徳川の女性たちであるが、江戸城の無血開城や、大政奉還後の幕府関係者の人生は、まぎれもなく彼女らの力があってこその出来事であった。

 

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歴史小説が好きで、月に数冊読んでおります。
日本史、アジア史、西洋史問わず愛読しております。

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コメント

  1. アバター
    • 通りすがり
    • 2020年 3月 09日

    内容は幕末がちょっと好きな人なら知ってる話。それより誤字が多くて、気が散りました。

    仁考天皇→仁孝天皇
    余技なく→余儀なく
    性質→正室

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