幕末明治

資本主義の父・渋沢栄一について調べてみた

渋沢栄一

近代日本において、この人物ほど様々な役職を持ち、国家の繁栄に尽力したものはいないだろう。

私自身もおおまかな経歴こそ知ってはいたが、具体的なことは知らなかった。

そこで、今回は「日本資本主義の父」ともいわれる渋沢栄一について調べてみた。
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官僚までの道

天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に生まれる。後に反目しあう岩崎弥太郎の誕生から5年後のことだった。
渋沢家は農家でありながら、原料の買い入れや販売なども行う商店のような一面もあったため、栄一においても経済を学ぶ下地は出来ていた。

青年期には尊皇攘夷の思想に染まることがあり、父によって、なかば勘当される形で京都に移る。京都では知人の推挙により一橋慶喜に仕えることとなった。後の徳川家第15代目にして最後の征夷大将軍となった徳川慶喜である。

主君が将軍職につくことで渋沢も幕臣となり、パリで行われた万国博覧会(1867年)に徳川家の随員としてフランスへ渡った。その後は、ヨーロッパ各地を視察するが、このときに渋沢は先進的な産業や軍備、社会構造を見て感銘を受ける。

その直後に大政奉還に伴う帰国命令が新政府より出されたため帰国するが、帰国後は大隈重信に説得されて大蔵省に入省することになった。明治2年(1869年)10月のことである。

2.大蔵省から実業家へ

大蔵官僚としての渋沢は、度量衡(長さや重さなどの単位)の制定や国立銀行条例制定に携わる。しかし、予算の編成を巡って大久保利通大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に大蔵省を退官した。

その直後には官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現みずほ銀行)の頭取に就任、これにより渋沢は実業家としての第一歩を踏み出した。それまで日本には存在しなかった初の「銀行」を立ち上げただけではなく、多くの地方銀行設立を指導した。


※第一銀行

そこからの渋沢の活動には目を見張るものがある。

第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東京急行電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。

さらには、時事通信社共同通信社の起源となる通信社も設立している。

3.岩崎弥太郎との確執

実業家としてその地位を確固たるものとした渋沢であったが、同時期に実業家として成功していた岩崎弥太郎とは根本から考えが違っていた。

岩崎弥太郎のことは三菱財閥初代総帥として、大河ドラマ「竜馬伝」の主要な登場人物として知っている人も多いだろう。

その岩崎が「会社というものは社長の独裁により企業としての活力を得るもの」という考えだったのに対して、渋沢は「たとえその事業が微々たるものであろうと、自分の利益は少額であろうと、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんで仕事にあたることができる」という言葉を残すほどに「会社は社会のためにある」という意識を忘れなかった。

そのため、岩崎ら他の明治の財閥創始者と異なり「渋沢財閥」を作ることはしなかった。つまり、一族による独占的な経営形態を否定したのである。

4.岩崎との直接対決

考え方の食い違いはあったものの、同じ財界に生きる人間として、渋沢と岩崎が向島の料亭で酒を酌み交わしたことがある。国家について論じているうちは和気藹々だったが、こと話が会社の経営体制に及ぶと雰囲気は一気にしらけてしまった。

それほどのライバルだったということだろう。

その2人の会社がついに直接対決をするときがやってくる。
岩崎は政府の助成を受け郵便汽船三菱会社により日本の海運業を独占していた。それが社会の利益にならないと判断した渋沢は、三井を中心に共同運輸を設立する。これにより、2年半にわたるビジネス戦争が勃発したが、最後は共倒れ必至となり、両社合併して日本郵船になったのだった。

それでもなお、お互いに一目置き、財界人としての活動では協力し合うことの多い二人だった。渋沢の言葉に「交わってためになる友を近づけ、損になる友を遠ざけ、かりそめにも己にへつらう者を友としてはならない」というものがあるが、この言葉からも決して岩崎憎しで争ったわけではないことを思わせる。

4.社会活動

実業家のなかでももっとも社会活動に熱心だった渋沢は、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。

そのような折、帝都・東京を未曾有の災害が襲う。

関東大震災」である。

東京で仕事をしていた渋沢は難を逃れるも、東京の街は酷い有様だった。そこで比較的被害の軽かった自宅を拠点に埼玉県から米を取り寄せ、滝野川町に炊き出しを斡旋(あっせん)した。当時83歳のことである。

それからは、政府の要請により災害復興に関する様々な役職を歴任し、 内外の実業家に寄付を呼び掛け、積極的に資金を集めることもした。帝都復興審議会においては国務大臣待遇での委員就任の要請を受けたが、政治に関係しないという主義を伝えて一度はこれを断わる。しかし、首相の熱意に折れて最後には委員となった。


震災復興委員会 ※左が渋沢

審議会では予算案などの問題で紛糾することが多かったが、それでも渋沢は、国民の生活と国家の繁栄のために必要な港湾整備が重要であるという立場をとる。老いてなお、国家と社会のことだけを考えていた。

最後に

私が渋沢栄一の名を初めて知ったのは荒俣宏による小説「帝都物語」であったと思う。明治末期を舞台にしていたため、それ以前の渋沢の活動については断片的に知るだけだった。

しかし、調べてみてこの言葉に彼の生き様が繁栄されているように思えるのである。

「余はいかなる事業を起こすにあたっても、利益を本位に考えることはせぬ。この事業は起こさねばならず、かの事業は盛んにせねばならずと思えば、それを起こし、関与し、あるいはその株式を所有することにする」

1931年(昭和6年)11月11日没。満91歳であった。

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