安土桃山時代

一人の個人として強かった戦国武将は誰なのか?【最強武将】

一人の個人として強かった武将とは誰なのか?

戦国最強の武将」は?と聞かれれば、上杉謙信・武田信玄・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・真田幸村など何人かの武将が思い浮かぶはずだ。
しかし、一人の個人として強かった武将とは誰なのか?ということについては1対1の直接対決はさすがに無いので、部門別に逸話や戦歴などに個人的見解も交えて紹介する。

剣豪・太刀部門:北畠具教

一人の個人として強かった戦国武将

※北畠具教の肖像

剣豪大名として有名な人物は2人がエントリーされるが、1人は関東で一番多く鉄砲を持っていた剣の達人大名・佐竹義重が挙げられる。
「愛刀の「八文字長義」で兜ごと真っ二つに斬った」「7人の敵を一度に切り倒した」「家臣の刀の手入れを確認して手入れを怠った者を叱った」など多くのエピソードがある。

しかし、佐竹義重を凌駕する剣豪大名が、今回紹介する北畠具教(きたばたけとものり)である。

北畠具教は伊勢の国主でありながら幼少より剣術を好み、剣術を磨いて名前を挙げようとする兵法者を庇護(保護や援助)する館を建てている。

この館には日本全国から腕に覚えのある兵法者が集まり、剣術の稽古や指南など情報交換の場所となった。

北畠具教はそこに剣聖と呼ばれる鹿島新當流の開祖・塚原卜伝を呼び寄せ剣術と兵法を学び、鹿島新當流の奥義「一の太刀」を伝授されている。

塚原卜伝は将軍・足利義輝細川藤孝にも「一の太刀」を授けているが、門人たちに「奥義の一の太刀を伝授したのは北畠具教唯一人」と言ったほどの腕前であった。

そして、もう一人の剣聖・新陰流の上泉信綱を招いて剣術を学び、親交のあった宝蔵院胤栄柳生石舟斎に上泉信綱を紹介している。

襲撃された時には太刀を手に敵兵19人を切り殺し100人以上に手傷を負わせて、最期は石垣に飛び上がりケガをしていないことを確認して自害している。

太刀を持って1対1で向き合ったらきっと一番強かった武将である。

槍部門:可児才蔵

一人の個人として強かった戦国武将

※可児才蔵 (関ヶ原合戦図屏風より)

戦国時代の合戦では花形の武器は刀(太刀)ではなくであった。

織田信長の家臣・柴田勝家は「槍の権六」と称され、前田利家は「槍の又左」と称されている。

TVドラマなどの合戦シーンを思い浮かべて見ると、最初に槍を持った足軽たち、その後ろからは馬に乗った武将の片腕には槍を持っているはずだ。
その槍で何人かの敵を倒した後に、ようやく太刀の出番となっていることが多い。

賤ヶ岳の七本槍」という武功を挙げた者を称した言葉もあったほどだ。

可児才蔵(かにさいぞう)は幼少期に十字の鎌槍を使う宝蔵院流槍術の開祖・宝蔵院胤栄から直に槍を学ぶ。

槍を自在に操れるまでに修練した可児才蔵は斎藤義龍、柴田勝家、明智光秀、森長可、前田利家、織田信孝、豊臣秀次に仕える。

森長可に仕えた甲州征伐では、敵の首16を捕るも持てないので「首が多すぎて捨てた、その首の口に笹を含ませた」と豪語した。
調べてみると本当に13の首には笹が含ませてあった、そのエピソードから「笹の才蔵」と呼ばれるようになった。

笹には酒と同じ意味合いがあり、笹を口に含ませるのは酒を口に含ませるのと同じ意味で、討ち取った者への礼儀を忘れない人物だと言える。

小牧・長久手の戦いの最中に主君の豊臣秀次と喧嘩をして浪人となるも、功名によってすぐに福島正則に仕える。

小田原攻めでは攻めている敵将から「あの剛勇な武将は誰か」と感嘆されたという逸話が伝わっている。

関ヶ原の戦いでは敵の首20を捕り、徳川家康から一番手柄と称賛されている槍の使い手であった。

素手部門:竹内久盛

少年漫画の「修羅の刻」の主人公で一子相伝の柔術・陸奥圓明流のモデルになった人物が竹内久盛(たけのうちひさもり)だ。

美作国13,000石の一ノ瀬城の城主でありながら、戦国時代ゆえ若い時から戦に明け暮れる生活を送る。

約150cmと小兵だったために剣術の稽古を怠らなかった修業中のある日、身の丈七尺(約210cm)の老山伏が突然現れて竹内久盛を組み敷いた。

何度戦っても勝てずにいると老山伏は木刀をへし折って、小太刀による武術と縄を使った「武者搦めの術」を伝授した。

この武者搦の術を25か条の小具足組討ちの技としてまとめ「腰之廻(こしのまわり)」と名付けて一族郎党に伝授する。

この技を身に付けた竹内一族は「一騎当千の強者揃い」と周囲から恐れられる。

腰の小太刀だけで、相手の太刀などの武器に徒手空拳で立ち向かい、敵を倒すと素早く縄で縛って捕縛する。

戦国時代の荒波の中、戦に負けて国を追われた竹内久盛は一族に「これからは農業を生業とし子々孫々に至るまでこの技を伝え仕官などするな」と命じる。竹内一族の技を欲する戦国武将に仕官しては命が幾つあっても足りないから、子孫にだけ伝えるようにと家訓を残した。

竹内一族の技は柔術諸流派の源流となり、その技は現在も継承されている。

暴れん坊部門:水野勝成

※水野勝成像(賢忠寺所蔵)

徳川家康の従弟でありながら、数々の有名大名に召し抱えられるも問題を起こして放浪を繰り返し、父から勘当されて豊臣秀吉に命を狙われ徳川家康に怒られるという破天荒な男が水野勝成(みずのかつなり)である。

16歳の初陣で兜首15を捕り織田信長から称賛され、その後、徳川家康に仕えて北条氏との戦いでは少数を率いて敵の首300を捕っている。
家康のもとで数々の戦で武功を挙げると、父の重臣を切り殺してしまい勘当されてしまう。

豊臣秀吉の家臣として紀州の雑賀攻めや四国征伐で武功を挙げ、秀吉の家臣・仙石秀久に仕えるが突然「六左衛門」という偽名を使って中国地方に逃亡する。その理由は秀吉から命を狙われて刺客を放たれたからだ。

その後は佐々成政・黒田官兵衛・黒田長政・小西行長・加藤清正・立花宗茂と主君を変える。
いずれの仕官先でも武功を挙げるが、何かやらかして出奔してしまう。

浪人生活を6年した後に三村親成の食客となり、秀吉が亡くなると家康の仲介で父から勘当を解かれる。
家康に再び再び仕えることになり、その後、三河国刈谷3万石の大名となる。

大坂の陣では剣豪の宮本武蔵を客将として呼び、夏の陣では家康から先鋒大将に任じられる。

その時、家康から「お前は大将なのだから自ら先陣を切るようなことはしては駄目だ」と釘を刺される。
しかし、合戦が始まると家康の忠告を無視して自ら先陣を切って一番槍になっている。

大阪夏の陣では戦功第二位と武功を挙げ3万石を加増されるが「これでは少な過ぎる」と家康に喰ってかかる。
2代将軍・秀忠に「家康が死んだら10万石にしてやる」となだめられて怒りを抑えた。

島原の乱が起きた時には75歳になっていたにも関わらず、九州以外の大名としては唯一出陣命令が下る。

88歳で死去するまで首を幾つ捕ったか分からないほどの武将であったが、福山藩10万石の大名となると家臣に慕われ、領国を潤おわせて領民から名君と慕われた人物でもあった。

豪傑部門:後藤又兵衛

一人の個人として強かった戦国武将

虎退治や亀甲車なる装甲車を操って敵の城壁を破るなど、豪傑振りが日本全国に知れ渡り、彼を巡って大名同士の争いにまで発展した武将が後藤又兵衛である。

大坂の陣では「大坂五人衆」の一人となるも、戦う前に徳川家康から「大阪方の武将で怖いのは後藤又兵衛」と警戒され、播磨一国をやるから寝返れと打診をされたほどの男である。

後藤又兵衛は黒田官兵衛の家で幼少時代を育つが、叔父が敵対勢力に味方したために黒田家から追放されてしまう。

仙石秀久のもとに仕えて初陣を飾った後藤又兵衛は、黒田長政によって黒田家への帰参が許されると九州征伐・朝鮮出兵・関ヶ原の戦いなどで数々の武功を挙げて「黒田二十四騎」の一人として大活躍をする。

主君の黒田長政と不仲になると、黒田家と犬猿の仲の隣国の細川家から高い俸禄で召し抱えられそうになり、黒田長政は「後藤又兵衛を引き渡せ」と要求し細川家との抗争に発展する。

その後も福島正則・結城秀康・前田利長・藤堂高虎など有力大名から高い俸禄で仕官の話が舞い込むが、黒田長政は召し抱えを禁ずる「奉公構」を出して仕官を許さなかった。

池田忠継に仕えることになると黒田家と池田家の中が険悪になり戦になりかける、徳川家康が仲裁に入ってようやく両家の争いは収まった。

大坂の陣では前述したとおり、徳川家康から「後藤又兵衛と御宿政友の二人のみが警戒される名望家」と恐れられ、播磨国をやるから味方になれと打診されるもそれを断った。

大坂城の弱点を城の南側だと主張し、ここに砦を作れと最初に言ったのは後藤又兵衛で真田幸村はそこに真田丸を造った。

大坂冬の陣・夏の陣と大活躍したが、味方の援軍が来ない中で8時間も孤軍奮闘し、銃弾を浴びせられた後に自害するという壮絶な最期であった。

前述の水野勝成とは、黒田家に仕えていた頃に劣勢な戦いで共に殿(しんがり)を務めている。この両者の軍は大坂夏の陣で直接対決をして水野勝成軍が勝っている。

黒田長政に対しては当時の武士としては考えられない反抗的な態度を取り、戦の責任を取って頭を丸めた長政に「負けの度に髪の毛を剃っては毛が揃わない」と言い放った。他にも、黒田長政が川で敵と戦っている時に助けにいかず「この程度の敵に討たれるようなら我が殿ではない」と高見の見物を続けたなどの話が伝わっている。

黒田家から16,000石の大名に取り立てながら主君と仲たがいをし出奔するなど、当時では考えられない振舞いをしている。

大坂の陣を生き残り、松山の道後温泉に浸かっている時に殺された」「豊臣秀頼と密かに大坂城から抜け出して九州に渡った」など数々の伝説や逸話に溢れている人物である。

戦歴部門:馬場信春

※馬場美濃守の最期 (歌川豊宣画)

馬場信春(ばばのぶはる)は武田信玄の「武田二十四将」の中でも「名人」という尊称で呼ばれた武将である。

17歳の時に初陣を飾ると山本勘助から城取の奥義を伝授されて、小幡虎盛から戦場の駆け引きと部隊の指揮を学んだ。

武田信虎・信玄・勝頼3代に仕え、長篠の戦いで戦死するまで、生涯70回に及ぶ戦いに出陣してかすり傷一つも負わなかったのだ。

徳川四天王の一人で同じくかすり傷一つも負わなかった本多忠勝は生涯57回の戦いに出陣しているが、数では馬場信春が完全に上回っている。

その戦いぶりに「不死身の鬼美濃」という異名がついたほどだ。

戦死した長篠の戦では、武田勝頼のために殿(しんがり)を務め、追撃してきた織田軍を食い止めて戦死した。
その戦いぶりに信長が「その働き比類なし」と称したほどであった。

もし、殿を務めなかったらもっと戦歴は増えていたはずだ。

おわりに

戦国武将で個人として強かったと思われる武将を太刀・槍・素手・暴れん坊・豪傑・戦歴の6部門で、筆者の個人的独断を交えて紹介させていただいた。
この他にも個人的に強かった武将はきっといるであろうが、後世に残る記述や逸話・伝説などを加味して選ばせていただきました。

 

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コメント

  1. アバター
    • 名無しのガンダム好き
    • 2020年 3月 23日

    暴れ牛の角をひっ捕まえてぶん投げた逸話を持つ細川藤孝もなかなか。剣も相当強かったらしいし、子孫からは総理大臣出してるし

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