安土桃山時代

水野勝成・戦国最強の武将で傾奇者【ドラマ化されないのが不思議な武将】

水野勝成とは

水野勝成とは

※水野勝成像(賢忠寺所蔵)

水野勝成(みずのかつなり)という武将のことを知っていますか?

水野勝成は徳川家康の従弟でありながら「戦国最強の武将」「戦国一の傾奇者」「戦国一の自由人」「戦国一の猛将」「戦国一の親不孝者」「鬼日向」などと評された人物だがなぜかあまり知られてはいない。

戦国最強の武将と言えば有名なのは、武田信玄上杉謙信立花宗茂真田信繁(幸村)
戦国時代一の傾奇者と言えば、前田慶次
戦国一の猛将と言えば柴田勝家・前田利家後藤又兵衛などである。

水野勝成は上記の武将に比べても引けを取らないほど、その暴れん坊振りが全国的に知れ渡り、流浪した国々でも高い禄高で名だたる大名に懇願された。

数々の有名大名に召し抱えられるも問題を起こしては放浪を繰り返し、傾奇者として名を馳せ、大坂の陣では大将なのに先陣を切って一番槍をあげ家康に怒られる。

その後、大名となりすばらしい治世で領民に愛され、余りの強さゆえ75歳を過ぎても戦に呼ばれたという、戦国一破天荒で面白すぎる人生を歩んだ水野勝成について解説する。

水野勝成の生い立ち

水野勝成とは

父、水野忠重。徳川二十将の一人

水野勝成は永禄7年(1564年)8月15日鷲塚城主・水野忠重の長男として三河国刈谷に生まれる。
生まれた場所は岡崎で生まれたという説と、鷲塚で生まれたという説もある。

勝成の父・忠重は徳川家康の母・於大の方の弟なので家康と勝成は従弟同志である。

父・忠重は最初は織田信長に仕えていたが、後に一緒に仕えていた兄と仲互いして岡崎城主の家康に仕え、鷲塚城を賜る。
その後、忠重は三河一向一揆の鎮圧で戦功を挙げ、徳川二十将の一人に数えられた。

勝成は幼少の頃から剣術に励み、16歳の時の天正7年(1579年)武田勝頼との高天神城の戦いで初陣を果たす。

天正8年(11580年)父・忠重は、織田信長の家臣・佐久間信盛の追放後に刈谷城を与えられ、刈谷3万石の大名となる。

勝成は奥田城や細目城を任され、同年からの第2次高天神城攻めで兜首15を挙げ、織田信長から感状と刀を与えられた。

水野勝成の暴れん坊振り

天正10年(1582年)本能寺の変の時には、勝成は父と共に京の二条城におり、東福寺に3日隠れるなどして難を逃れ刈谷城に戻る。

父・忠重は織田信雄に仕えたが、勝成は父に許しを得て家康の家臣となった。

この後、勝成は家康の下で天正壬午の乱で甲斐に出陣し、黒駒の戦いで北条氏忠の陣を攻める。

戦力的には圧倒的な不利の中で、勝成率いる水野勢は約300の首を挙げている。

水野勝成とは

長久手古戦場 wiki(C)Bariston

天正12年(1584年)家康vs秀吉の小牧・長久手の戦いでは父・忠重の陣に加わり、目が痛いという理由で兜をかぶらず鉢巻きで一番首を取り、家康に届けた。

以後は家康と共に戦い、この戦いで勝成は井伊直政と武勇を競い武功を挙げる。
勝成はこの後の蟹江城の戦いでも伊賀忍者と共に九鬼船二艘を乗っ取り、大将格の首を挙げる。

父の部下を斬り殺し勘当される

しかし、伊勢の桑名城での陣中で、父・忠重の部下から素行の悪さを報告された為にその部下を切り殺してしまった。そしてこれに激怒した父から奉公構(他家への仕官禁止)とされて勘当されてしまう。この時、勝成は21歳であった。

勝成は虚無僧や姫谷焼の器職人となって清州城近くの寺にこもるが、父の探索が入り親戚を頼って美濃・尾張と流れた後に京に入る。

京でも虚無僧や器職人をしながら南禅寺の山門に寝泊まりして生活するも、荒っぽい気性は変わらず多くの喧嘩をして何人も殺してしまうのだ。

秀吉陣営に仕えるも知行を捨て逃亡

その後、織田信雄のつてで羽柴秀吉から摂津豊島郡の神田728石を与えられ、勝成は秀吉の家臣になる。

秀吉の下では紀州の雑賀攻め・四国征伐において武功を挙げ、秀吉の家臣・仙石秀久の家中に加わり知行も授かったが、その後、知行を捨てて中国地方に逃亡し「六左衛門」という偽名を名乗るようになる。

はっきりした理由は不明だがこの時、勝成には秀吉から刺客が放たれたとされる。何かをやらかしたことは間違いない。ちなみにこの時期には父・忠重も秀吉の家臣となっていた(仕えていた織田信雄が秀吉と講和し臣下となったため)

この頃、勝成は暴れん坊の無頼漢だけではなく書画・能・謡などにも堪能さを見せ「傾奇者」としても名を馳せる。

佐々成政に召し抱えられる

水野勝成とは

※佐々成政

天正15年(1587年)勝成は肥後隈本(熊本)城主・佐々成政に1000石で召し抱えられると、肥後国人一揆で一番槍を挙げ、その後も数々の武功を挙げる。

戦国最強の武将とも言われた立花宗茂の軍を助けたこともある。

黒田家に使えるも出奔

水野勝成とは

※黒田孝高(官兵衛)

佐々成政の代わりに入った小西行長が肥後を領すると、勝成は豊前領主・黒田官兵衛に仕え、武勇で知られる後藤又兵衛と殿(しんがり)を担うなどの働きをする。

戦国一の猛将二人が、後の大阪の陣で雌雄を決することになるとはつゆ知らずに。

官兵衛が隠居すると息子の黒田長政に仕えて大坂城に一緒に行くが、途中の船旅で勝成は鞆の浦で突然下船し、姿をくらました。

この時、勝成は大坂城で秀吉に会うと殺されると思って出奔したという説と、長政から水夫の手伝いをせよと言われて腹が立ったからだという説がある。

小西行長、加藤清正、立花宗茂に仕えるも出奔

天正18年(1588年)には小西行長に1000石で仕え、天草五人衆の反乱では副将を務めて数々の武功を挙げる。

その後は、加藤清正立花宗茂へと仕官先を変えるも、いずれも出奔してしまうのだ。

勝成は出奔前の織田信長・徳川家康の後から、豊臣秀吉・千石秀久・佐々成政・黒田官兵衛・黒田長政・小西行長・加藤清正・立花宗重と、天下に知られた大名8名に召し抱えられたことになる。

放浪→食客→出奔→食客

その後、約6年近く浪人として暮らし備中の鶴首城主・三村親成の食客となるが、茶坊主の態度が無礼だと切り殺して出奔する。
しかし、翌年には三村親成の食客として復帰する。

この時に勝成の世話をしてくれた於登久(おとく)との間に嫡男となる水野勝俊が生まれる。

父と和解

慶長3年(1598年)秀吉が亡くなると勝成は妻子を残して京に出て、家康と謁見して家臣となり、家康のとりなしで父・忠重と14年振りに会い和解する。

家康の家臣としては勝成の妹・かな姫が家康の養女となって加藤清正と結婚し、加藤家とも親戚となるほど家康の信頼を得る。

父、忠重の死

慶長5年(1600年)の会津征伐に家康と共に向かうと石田三成が挙兵し、父・忠重が加賀井重望から西軍に誘われるが拒否をすると口論となり、忠重は殺害されてしまう。加賀井重望もその場ですぐに討たれた。

その知らせを聞いた勝成は刈谷城に戻り、三河国刈谷3万石の家督を継ぐ。

鬼日向

※水野勝成が大垣城攻めで奪った日向正宗

関ヶ原の戦いでは、勝成は家康の命で大垣城の備えとされたために本戦には参加していないが、大垣城を降伏させて開城させるという武功を挙げる。

慶長6年(1601年)勝成は従五位下・日向守に叙任されるが「日向守」は謀反人・明智光秀が付けていた官名だったので誰もが嫌がった。

しかし、勝成は「そんなのは馬鹿な縁起かつぎだ」と笑い飛ばして受けたためにその後、勝成のことを人は「鬼日向」と称した。

慶長13年(1608年)勝成は備中から妻子を呼び寄せ、嫡男・勝俊は徳川秀忠に仕える。

慶長19年(1614年)の大阪冬の陣では、勝成は勝俊と共に参陣するも目立った戦いの機会が無かった。

大将のくせに一番槍

翌年の慶長20年(1615年)大阪夏の陣では大和口の先鋒大将に任じられる。

勝成の性格を良く知る家康から「大将たる者自ら先頭を切って戦ってはならない」と釘を刺されていた。

2万の軍勢を率いた勝成の前に大坂方の軍勢が立ちはだかるが、その軍を指揮するのはかつて黒田家で一緒に殿を務めた後藤又兵衛だった。

血がたぎった勝成は家康の忠告を無視して、自ら一番槍をつけて後藤軍と戦う。

水野軍は激闘の末に後藤軍をせん滅させ、後から援軍に来た大坂方の軍も打ち破る。

翌日の天王寺口の戦いでは、真田幸村軍が家康の本陣に突撃すると勝成は真田軍の退路を断つ。

松平忠直軍が明石掃部軍の猛攻で総崩れになると、勝成は松平軍を𠮟咤激励しながら明石軍を撃退し、大坂城桜門に一番旗を掲げた。

暴れん坊から名君に

大坂夏の陣の活躍で戦功第二位とされた勝成は、3万石を加増されて大和郡山6万石に移封となる。

しかし、勝成は敵の首97をあげたのに評価が低いと腹を立てる。周りも同様に過小評価と考えていたようだ。これは勝成自身が一番槍をあげるなどで家康の機嫌を損ねたのが原因とも言われる。

勝成はもっと多くの知行を期待していたが、2代将軍・秀忠から「父、家康が隠居した後に10万石にする」と諭されている。

元和5年(1619年)福島正則が改易した後に、勝成は4万石を加増され10万石となって備後福山に移封となる。

福山城再建天守 wiki(c)663highland 

福山城の工事を始めて天守5層・3重櫓7基もある巨大な城を建築した。

これは当時の武家諸法度で新城建築が禁じられていた中で、異例の措置であったようだ。それだけ幕府にとっても重要な人物として特別に扱われていたことが伺える。

三村親成に恩返し

その後、勝成は浪人中にお世話になった三村親成を高禄で家老に迎え恩を返す。三村親成はこの当時は没落していたが、勝成が放浪中に2度も面倒を見てくれ嫁も娶らせてくれた恩人である。自分が出世した後にきっちり恩を返したのだ。

勝成は浪人時代の人脈を生かして、他にもお世話になった在地領主や郷士らを積極的に登用した。

優れた治世

荒れていた神社・仏閣の修理や再建を行いながら、新田開発、産業振興、城下町の建設、上水道綱の整備、瀬戸内海の海上交通の発達などを行った。

また、家臣たちからは誓詞も取らずに法度もなく、目付を配置して監視をするなどもしなかったが、なぜか家中には不思議と問題が起きなかった。

長い放浪の生活によって庶民の気持ちや家臣の気持ちが理解できたために、農民一揆なども一度も起こらずに名君と呼ばれた

岡山藩主の池田光政も勝成を「良将の中の良将」と称えたほどである。

島原の乱

寛永15年(1638年)勝成75歳の時に島原の乱が起こる。

勝成は鎮圧に幕府からの要請を受け、九州以外の大名では唯一の出陣命令が下る。これは勝成の戦歴と経験が請われたからである。

すぐに6000の兵を率いて到着した勝成は、大将の松平信綱に軍議で原城への総攻撃を勧める。壮絶な戦いの末3日後に水野勢は原城本丸を攻略した。

しかし島原の乱での活躍を幕府に余り評価されなかったことに不満を持った勝成は、翌年家督を嫡男・勝俊に譲って隠居した。

隠居料として与えられた1万石を勝成は自分のために使わず、領内のために使ったとされる。

隠居して禅の修行

寛永20年(1643年)に勝成は京の大徳寺で1年間禅の修行をする。

その後、勝成は87歳になった時でも鉄砲を的に的中させるなど周囲を驚かすが、慶安4年(1651年)3月15日、88歳で死去した。

ドラマで扱われないのが不思議な人物

水野勝成は若い時から気性が荒く、喧嘩早くてすぐに刀を抜き、高禄で召し抱えられてもすぐに出奔。

そんな勝成は「倫魁不羈(りんかいふき)余りに凄すぎて誰にも縛りつけることはできない」とまで称された。

一方では文化人として美人画・文学・俳諧・和歌・連歌・能楽・笛などを好み、本当の傾奇者と言われる。

初代福山藩主になると産業を発展させ、10万石の土地を実質30万石クラスの豊かさにした名君として領民や家臣から愛される。

天下に武勇が知られた猛将であり、生き様もバラエティーに富み破天荒で、最後はハッピーエンドという、まさにエンタメの主人公にピッタリな人生を送っているのに、なぜかドラマや時代劇などでは取り扱ってはもらえない人物が水野勝成なのだ。

 

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