戦国時代

伊賀、甲賀、風魔忍者の違いについて調べてみた

伊賀、甲賀、風魔忍者の違いについて調べてみた

※忍者 北斎漫画 wikiより

お子様からご年配の方まで幅広い年齢層の方に忍者の話は好まれています。

時代劇やアニメで忍者関連の作品が放送されると、テレビやアニメにくぎ付けになり格好良すぎてファンになりますね。皆さん忍者の中でも色々な流派があるのはご存知でしょうか。伊賀、甲賀、風磨など、まだまだたくさんの流派があります。

観光スポットでもある伊賀の里、甲賀の里は人気ですね。今回は伊賀、甲賀、風磨忍者の違いについて詳しく紹介していきます。

伊賀忍者とは

※服部正成(通称 服部半蔵)の肖像画

伊賀忍者の本拠地は伊賀の国です。現在の地域では三重県西部の伊賀・名張市にあたります。
有名な名前でいえば服部半蔵です。皆さん一度は必ず聞いたことがある名前だと思います。

特に徳川家康に仕えていたことは有名です。伊賀は当時「伊賀上忍三家」といわれ「服部家」「百地家」「藤原家」がありその中でもリーダーは服部家でした。余談ですが人気アニメの忍者ハットリくんの名前も服部半蔵です。

忍術や戦闘力に長けており依頼があれば忍者を常に派遣していました。伊賀忍者は主人を支えることで信頼されていましたので、たとえ同じ流派であっても雇い主同士が敵対していた場合でも争わなければいけなかったのです。いくら主人の為であっても同じ流派同士で争うのであれば最初から依頼を受けなければ良いのにと思いますよね。

そんな伊賀流の訓練方法は独特で顔の半分を紙で隠し、落とさず里を走りぬくといったものがあり訓練はとても厳しく幼少期から行っていました。
厳しい訓練を行っているときにある事件が起きました。「天正伊賀の乱」です。

織田家と伊賀は関係が悪化し争いが繰り返される中、信長の次男織田信雄が伊賀に1万人の大軍を送り進行していきます。信雄の独断で行われましたが何と数百の伊賀忍者が1万の大軍に勝利してしまったのです。これは後に「第一次天正伊賀の乱」と呼ばれます。

織田信長は当然激怒します。1年後に約5万人の大軍を率いて再度伊賀に侵攻します。これが「第二次天正伊賀の乱」です。伊賀の忍者は1万人ほどで圧倒的に戦力が違いますのでなすすべなく全壊しました。

実は信長を内倒すことで有名な「本能寺の変」ですがもう一つ伊賀忍者にかかわるエピソードがあります。徳川家康の伊賀越えです。

当時徳川家康も京都に招待されていましたが兵を率いていなかったため孤立無援状態でした。家康が本拠地の三河に脱出を計画しますが三河まで護衛をしていたのが伊賀忍者、服部家の末裔の服部半蔵正成です。服部半蔵は甲賀に協力要請し無事脱出。脱出成功以来家康は伊賀、甲賀忍者を信頼し積極的に忍者を雇うようになりました。人情味がある伊賀忍者はとても頼りになる存在だったのです。

甲賀忍者とは

甲賀忍者は伊賀忍者と全く異なるスタンスです。普段は農業や行商人として各地を回り情報収集を積極的にしており、上から命令があると現場に向かい工作活動を行いました。甲賀は六角氏の傘下に属していましたが甲賀の全ての取り決めは多数決で決めていました。傭兵というよりは1つの大名の下で働くことが多かったのです。伊賀と違い厳しくありませんでしたので抜け忍になるのも自由でした。甲賀は織田氏に仕え、そのあと豊臣、徳川と当時の権力者の下に仕えています。
伊賀の忍術は「呪術や火術」でしたが甲賀は「毒薬」を使った術が得意です。

甲賀忍者は行商として普段は活動しているので薬売りが多かったようです。その名残から今でも甲賀市は製薬会社がたくさんあるのです。
先ほどの天正伊賀の乱も伊賀は壊滅的でしたが甲賀は何もなく織田信長と関係は深まるばかりでした。

風磨忍者とは

風磨忍者は風魔小太郎を頭目とする北条氏を支えた忍者集団です。
風磨小太郎の風貌はとても恐ろしかったと言われていますが、実在した人物かはまだ分かっていません。

その姿は、身長2m16cmで筋骨隆々の大男で、身体のいたるところにむら瘤があり、眼は吊り上がり、髭を伸ばした口は広く裂けて四本の牙が生え、その頭は福禄寿のように長く、鼻は高く突き出し、高く声を出せば五キロ以上届き、低く出せば、波のように響きわたり不気味だったと伝えられています。

豊臣秀吉の進軍により北条氏が滅亡し徳川家康が天下を取った後、五代目風魔小太郎を捕らえ処刑したことにより風磨一族は滅亡しました。

松尾芭蕉の正体は伊賀忍者か

※松尾芭蕉像(葛飾北斎画)

歴史上の人物で有名な松尾芭蕉ですが実は伊賀忍者だったのではと疑惑が浮かびあがっています。

松尾芭蕉は伊賀の国の生まれで当時姓を名乗れたのは武士や一部の農民だけでしたが、松尾芭蕉の生まれは百姓で本来ならば姓を名乗ることはできないはず。姓を名乗れるのは上忍や中忍の一部しか許されていませんでしたので忍者なのではと言われています。

有名な「奥の細道」も今でいう他県は他国ですので身分証が必ず必要のはずで、もし百姓の身分なら到底無理なことや移動距離を尋常な速さで歩いていたことからも忍者だったのではと噂が出てきています。

奥の細道は約2400キロで移動距離は1日16キロから50キロと歩いたと考えても、今のような舗装された道路ではない事と松尾芭蕉の年齢が45歳であったことを考えると不思議な話です。

まとめ

忍者のイメージは手裏剣や刀をもって素早く動き回るイメージですが甲賀忍者のように周りに溶け込んで生活していたのかもしれません。現在忍者の活動は聞きませんがもしかしたら世界中でスパイ活動は続いているのかもしれません。

 

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コメント

    • 余人
    • 2018年 10月 02日

    忍者ハットリくんの名前は、「服部半蔵」ではなくて「ハットリ カンゾウ」ですよ😃

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