戦国時代

明智光秀が「本能寺の変」に至った理由を考察

明智光秀が「本能寺の変」に至った理由を考察

明智光秀という武将に関しては、織田の家臣になって以後の活躍は明らかになっている。
しかしそれ以前は、あまり知られる事もなく史述も少ない人物である。

彼は性格的には「真面目で温厚であり、慎重派」計画をしっかりと立てる事にたけていた人物である。

その明智光秀が、本能寺に至るまでの苦悩・謀反とも言える行動や信長の言動については「惟任退治記」の記述で詳しく知られる様になった。なぜ明智光秀が「本能寺の変」に至ったのか、それにはいくつかの要因が考察できる。

信長の残虐性と光秀の神経症発病

永禄 6 1563年・4 明智光秀、美濃に至り信長に拝謁、美濃・安八郡に4500貫の地を拝領する(光秀・39歳)
永禄13 1570年・1 信長、将軍・義昭の実権を奪う為「五か条の条書」を送付役とし光秀に託す(光秀・43歳)
1570年・6 「姉川の戦い」参戦
元亀2 1571年・9 「比叡山焼き討ち」参戦。(秀光・44歳)
1571年・12 光秀、近江・坂本城の築城を開始する。
元亀3 1572年・9 信長、将軍・義昭に失政を責める「異見十七条」を送付役とし、光秀に託す(光秀・45歳)
1572年・12 「三方ケ原の戦い」織田軍・武田騎馬隊に惨敗
元亀4 1573年・7 将軍・義昭。織田軍に対し挙兵。信長、義昭捕縛し若江城に追い出した為、関係が不仲になる。仲介役に光秀を使わす。(光秀・46歳)
1573年・8 「小谷城焼き討ち」朝倉義景を自刃させる。光秀参戦。
天正2 1574年・1 元旦の祝宴で信長「朝倉義景のどくろの盃、回し飲みとの命令。
1574年・3 将軍・義昭を擁護していた三好義継を自刃させ、義昭を紀伊・興国寺に放逐した。仲介役に光秀を使わす
1574年・3 「正倉院」蘭じや待、一寸八分を切り取り持ち去る。
1574年・7 「伊勢・長島での大量虐殺約4000人」餓死・約2万人焼死させる。光秀参戦(光秀・47歳)
天正3 1575年・2 丹波平定の為、光秀亀山城へ赴く(光秀・48歳)
1575年・5 「三河・長篠の戦い」鉄砲の威力を持って武田騎馬隊を破る。
1575年・7 光秀・信長と通し「惟任の姓と「日向守」を受領する。
1575年・8 越前の「一向宗徒」掃討に出陣。
1575年・10 光秀「荻野直正」の丹波・黒井城への攻撃開始。
天正4 1576年・1 光秀「黒井城攻略失敗」坂本へ帰陣(光秀・49歳)
1576年・4 本願寺攻めを命じられる。光秀発病する。

1573年「小谷城焼き討ち」に見る信長の残虐性

浅井久政長政親子については、その生首を京都に送った。そして越前から届けらえた朝倉義景の生首とともに、荷車の台に並べて街中を引き回し、その後六条の河原で獄門。
浅井久政夫人・小野殿を捕らえ、数日かけて十本の指を少しずつ斬り落としながら殺させた。

天正二年の正月、三杯の大きな盃・外側には梅の模様が描かれ、内側に銀色の漆が施されていた。三杯の盃は柴田勝家・丹羽長秀・明智光秀の所に差し出された。触れてみて何となく手触りが柔らかく、わずかながら生臭い臭いがした。最初に飲んだ勝家が、首をかしげながら訪ねると「これは奴らの髑髏で作らせた盃である。遠慮はいらぬ、もっと飲め」といかにも楽し気に髑髏の盃を回させた。

「越前一向宗掃討」での残忍性

門徒衆の降伏を許さず「皆殺し」を実施、この月半ばのわずか五日間だけで1万2千余人に達し、他に降伏して捕らえた者、3~4万人いたが彼らも手足を縛ったうえで、生きたまま焼き殺した。

天正四年、一月半ば「安土城築城」の為、現場にて満足そうに見上げる信長は、光秀の敗報を聞き「直ちに安土へくる様に伝えよ」とこの頃から、信長は柴田勝家に対して「ひげくじら」羽柴秀吉の事を「はげざる」光秀の事を「きんかん頭」と言い出した。勝家や秀吉は「信頼の証」と受け取っていたが、生真面目な光秀にとっては、多分に侮辱的な呼び名だった。「そうか、信長殿にとって、それがしはキンカン頭であるか」
光秀は、重臣達の前で不快感を露わにした。

光秀神経症発病する

黒井城攻略に失敗した光秀は深く悩み、主君・信長が耳にすれば激怒する、もしかしたら丹波平定の任務を解かれるばかりか、近江・坂本の城と領地も召し上げられてしまう。
「惟任日向守」は滅びた九州の名族の事をさしていた為、光秀は自分がいずれ、九州の果てにまで行かせて働かされるのではないかという不安もあった。また「髑髏の盃」の件で光秀は、信長の『極めて特異な人格と性癖』に、鬱屈した思いも多分にあった。

1576年4月、「石山本願寺攻めの為、兵の過半を割って与力せよ」との信長の命が下った。丹波平定の最中に、一年半も天王寺砦への攻撃をせざるを得なかった。そんな光秀を京に呼び寄せた信長は「大和一国を采配せよ」と言うのである。固辞した光秀は「筒井順慶」を勧めると、信長はその伝達と仕切りを命じ、光秀は直ちに兵を率いて奈良に赴き、数日かけて大和の仕置きを終えると、その足で「天王寺砦」へ帰るという過密なスケジュールをこなしていた。光秀49歳の時である。

光秀は「天王寺砦」で突如、激しい目眩と肩が抜ける様な疲れを感じ倒れた。「先がよく見えない、手足も言う事をきかぬ・・」意識が朦朧とし、胸から腹にかけて絞る様な痛みが奔った。微熱・悪寒・嘔吐が治まらず、当初の坂本城から京へ行く先を変え、曲直瀬道三の診断を受けた。
明智殿のお体は凝り固まり、まるで石の様で御座います。このまま働き続ければ、命を捨てる事になる、積年の疲労による全身的な虚脱、長期の安静」という診断で京の吉田兼見邸で療養することになる。現代医学であれば「神経症」と診断できるであろう。

仕事熱心・凝り性・徹底主義・几帳面・強い義務責任感・対人関係の悩み・居住環境の変化・地位的状況の変化・競争」全て明智光秀に当てはまるものと言えるのである。
不安神経症発病の症状に酷似している。しかし「長期の安静」など、信長が認める訳がない。織田軍団の強さの一部は「実力主義に徹し、適材適所の人事抜擢」を成形していた点である。その反面、無能と判断した家臣は容赦なく切り捨てていった。「本願寺攻略」を果さなかった佐久間信盛親子など長年仕えた長老クラスでさえ、追放されたのである。

10年にも渡り、精一杯尽くしてきた光秀にとっては、自分のプライドを傷つけられた挙句、領地召し上げなどと考えただけでも「お先真っ暗」になっていく想像が常に頭から離れない状況にあればこそ「不安神経症」の進行=「本能寺の変」と突き進んでいったのかもしれない。

光秀苦難の「天正十年」

武田勝頼親子の首級事件

信濃国の反武田氏勢力が信長のもとに集結した際、光秀は「骨を折った甲斐があった」と口に漏らした。

しかし光秀は実際に戦った訳でも勢力結集の為に働いた訳でもなく、たんに信長のお共として来たに過ぎなかった。それをたまたま通りかかった信長が耳にしてしまったのである。「このキンカン頭!お前が、いつどこで骨を折ったというか!」
家康始め諸将の面前で怒鳴りつけ、光秀の襟首を掴んで、今にも素手で殴りつけようとしたのである。家康らが慌てて止めに入った為、信長も掴んだ手を離したが何やらブツブツと言いながら立ち去ったという逸話がある。『祖父物語』に書き記されたものである。

光秀付け髪説

稲葉一鉄の家臣・那波直治が稲葉家を離れ光秀に士官した。怒った一鉄は信長にこの件を訴えたのである。光秀は以前に稲葉家から斎藤利三を士官させており、これで二度目だった。一鉄の訴えを聞いた信長は光秀に命じて、直治を稲葉家に返還させ、利三には「自害」を命じた。しかしこの時は信長配下の猪子高就のとりなしで利三は助命され、光秀に仕える事となったが、信長は光秀に怒り、頭を二・三度叩いたとある。その時に頭の薄い光秀は「付け髪」が落ちたという説が不随されているがこれは、事実とはかけ離れたものとされている。

家康接待説

フロイスの『日本史』には次の様に書かれている。
これらの催し事(家康の饗応)の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(の意見)を言われる事に堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りを込め1度か2度、明智を足蹴にしたという事である。

光秀移封説

光秀は信長から「近江・丹波」を取り上げられ「岩見・出雲」に移される予定であったという説がある。「岩見・出雲」は中央から遠く離れており、しかも半ば実力で支配を命じられる有様であったという。この様な仕打ちを『左遷された』と光秀は思い込んだ。

まとめ

※恵林寺を焼こうとするのを諫めた光秀を打ち据える信長 wikiより

天正十年の信長の振る舞いは病的な程にヒステリックである。
物事を裁量する際の独断と専攻、家臣達に対する短気とわがまま、光秀が「不安神経症」と診断するならば、信長は「ヒステリー神経症」だったのではないだろうか。

ヒステリーでは、症状が現れても苦しんでいる様子が少なく、むしろ病気になる事に無意識の満足を感じている様に見える面がある。特にヒステリーになりやすい性格は、虚栄心が強く、自己顕示的で他人の注意を引きたがり、暗示性に富み、自己中心的・未熟・依存的で感情浅薄で気が変わりやすいといった症状が見られる。

文献としては、フロイスの『日本史』が当時の信長と光秀の関係を、一番正確に記した物だと思う。現代医学的説を考慮するとすれば、「不安神経症」になった明智光秀の耳元で悪魔の様なささやきをしている斎藤利三の影がうっすらと見えてくるのである。
「手柄の割りには、禄高がすくない」と稲葉家から出奔した斎藤利三である。明智光秀の人柄と真面目さを巧に操っていた感がぬぐえない。「本能寺の変」とは「不安神経症とヒステリー神経症」を患った二人の患者の争いだった様な気がするのは、自分だけだろうか。

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総一郎

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コメント

    • 匿名
    • 2018年 7月 16日

    疑問がいくつか残る考察だと思います。
    まず、1573年の小谷城焼き討ち事件です。
    信長の残虐性をあげる例としては少し疑問点がございます。
    浅井夫人や小野殿の殺害方法は、こちらも不勉強だったので確認しましたが嶋記録を読んでも信長の命令だったかは分からない筈です。
    信長の命令だとしても現代の価値観だけで判断するのは適当ではありません。その程度で揺らぐ価値観なら腹切りなんて行われません。
    また、髑髏杯の記述もちょっと分からないです。
    盃をつくってはいますが、それで回し飲みをするなど記述された史料は室町~江戸時代初期に作られていない筈です。
    信長公記では作った杯を見ながら酒を飲んだと書かれていますが、それを杯で回し飲みしたなどは創作かと思います

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