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明智光秀の出自と生誕地について調べてみた

明智光秀の出自と生誕地について調べてみた

明智光秀像(本徳寺所蔵の肖像画の模写)※写真は全て本人撮影

明智光秀といえば、本能寺で織田信長を討った織豊大名として、その名を知らない人はまずいません。ところが、明智光秀に関する本は、「なぜ織田信長を討ったのか?」という「日本史四大ミステリー」(あと3つは邪馬台国の場所、浮世絵師・写楽の謎、坂本龍馬暗殺の実行犯)の1つ「本能寺の変」を扱った本が多く、明智光秀の生涯(前半生)を扱った本は少ないです。それだけに、明智光秀の前半生も描くという2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』が期待されています。
──明智光秀の生涯(前半生)を扱った本は少ない理由は?
その答えは、

①いつ生まれたか分からないから
②父母が分からないから
③どこで生まれたか分からないから

です。超有名人であるのに、こんな基本的なことすら分かっていません。

ただ、「全く分からない」のではなく、「数多くの俗説があり、その中のどれが史実であるかが分からない」と言った方が正確な表現でしょう。

①いつ生まれた?

A.永正13年(丙子。1516年)生まれ(『当代記』)享年67
B.大永6年(丙戌。1526年)8月15日生まれ(『綿考輯録』)享年57
C.享禄元年(戊子。1528年)8月17日(3月10日とも)生まれ(『明智軍記』)享年55
D.天文9年(庚子。1540年)生まれ(咲村庵『明智光秀の正体』)享年43

俗に、「明智光秀は子年生まれ」と伝えられているので、1526年生まれ説は否定され、1516年、1528年、1540年生まれの可能性が高いそうです。父の死去が1538年だとして、1540年生まれ説は否定され、1516年生まれ説では結婚年齢が高齢すぎるとして、1528年生まれ説が通説となっています。(享年は、「本能寺の変」の天正10年(1582年)の時の年齢(数え年)です。)

織田信長が「馬の腹を鼠が食い破った夢を見た」と森蘭丸に言うと森蘭丸が驚いたという話は、織田信長が午年生まれ、明智光秀が子年生まれだから成り立つ話であり、「子年生まれの明智光秀が、午年生まれの織田信長に切腹させる」という予知夢になるわけです。

※『石山退去録』

信長公、或る夜の夢に、馬の腹を鼠が喰ひ破る夢を見られた故、蘭丸に夢物語せられたれば、蘭丸、暫く思案して、

「いや、此夢は甚だ不吉の夢。宜しくござりませぬ」

といへば、

「して、その訳は何うぢや」

「されば、君は午の年、明智は子の年と承りければ、然らば御身の一大事。肝要に存じまする」

と申された。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771441/214

②父母は誰?

通説では、

です。明智頼尚の長男・頼典(明智光秀の祖父)は、「嫡子と為すと雖も、連々不幸の儀、重畳(ちょうじょう)の間」(嫡子だというのに「不幸の儀」を度重ねたので)、廃嫡されて二男・頼明が嫡子として明智家の家督を継ぐことになり、さらに「義絶」(親子の縁を切ること)されました。

※文亀2年(1502年)4月13日付「土岐頼尚所領譲状」

譲渡 美濃国土岐郡内妻木村、笠原村、駄智村、細野村(駄智、細野両所者、各半名宛当知行)等事

右、実子・彦九郎に所譲与也。兵部少輔頼典、雖為嫡子、連々不幸之儀、重畳之間、令義絶之処、剰頼典並被官肥田蔵人已下令造意、去月5日、無謂、弥十郎房頼生害之上、向頼尚致敵之条、前代未聞之次第也。然間、頼典同子孫等、至末代、永不可許容也。於頼尚遺跡者、悉彦九郎に譲渡者也。依之、鹿苑院殿様御判並勝定院殿様御判(頼尚童名長寿丸之時、安堵之御判也)彼是肝要之御判物16通、相添譲状渡之訖。此御判之外、若證文頼典雖令出帯、既義絶之上者、不可及是非之御沙汰也。至子々孫々、更不可有違乱之族候。仍為後證所譲与之状如件。

文亀2年壬戌4月13日 土岐明智上総介頼尚(花押)

明智家から追い出された明智頼典が行き着いた先で明智光秀が生まれた可能性が高いです。

──それはどこか?

※明智頼典:廃嫡後、「光継」に改名。土岐氏の通字は「頼」で明智氏の通字は「光」とも、北朝方の土岐一族の通字は「頼」で南朝方の土岐一族の通字は「光」とも。いずれにせよ、土岐氏の祖・源頼光からとったという。

「明智光秀公伝承」碑(「一日市場館」跡)

明智頼典(光継)が向かったという伝承地の1つは、美濃源氏(土岐氏)発祥の地「一日市場館」(岐阜県瑞浪市土岐町一日市場)近くの「高屋館」(岐阜県瑞浪市土岐町鶴城)で、明智光秀が2歳の時、両親が離婚すると、明智光秀は、(母の出身地の小浜を経て?)明智城主・明智光安(父の異母弟、叔父)に引き取られたと伝えられています。なお、一日市場館の「明智光秀の産湯の井戸」(一説に「明智光秀の湯浴みの井戸」)は、残念ながら、失われたそうです。(明智光秀胸像の前に竹藪があり、そこに「明智光秀産湯の井戸」があったそうです。)

「明智光秀公伝承 清和天皇に発した美濃源氏は一日市場館に土岐頼貞を初代守護として発祥した。頼貞の九男、頼基の子頼重が明智氏初代となった。8代頼尚の子頼典が文亀二年に土岐信友の高屋館に故あって居住、其の孫として生まれたのが光秀で、一日市場館屋形の井戸水で湯浴み、2歳にして明智城代光安に引き取られたと伝承されている。長じて信長に仕え、坂本城等多くの城を構え惟任日向守となり、天下統一の中核をなしたが、本能寺の変後、歴史からその名が消える運命となったが、今ここに蘇り、彗星の如く輝かんとしている。」(現地案内碑)

もう1つの伝承地は、「十兵衛屋敷」(滋賀県犬上郡多賀町佐目)です。明智十右衛門尉が主君・土岐成頼に背いて牢人(江戸時代の表記は「浪人」)となり、十兵衛屋敷に移り住んで六角氏に仕えていましたが、明智十兵衛光秀は、優秀で、朝倉氏に仕官替えしたそうです。越前国へ行く途中に大黒天像を拾ったので仕官できた(?)のですが、その功徳を聞くと、大黒天像を川に捨てて織田信長に仕官したという話は有名ですね。

※『淡海温故録』(巻之6)「犬上郡」

「佐目

此所に明智十左エ門居住すと云。明智は、本国美濃の在にて、土岐成頼に属せしが、後に成頼に背ひて浪人し、当国に来り、六角高頼を頼み、寄宿しける所、屋形曰く、「明智は土岐の庶流にて、旧家なり」とて、扶助米を与へられ、2、3代も此所に居住すと云。息・十兵エ光秀に至て、器量勝れたる人にて、越前え立ち越へ、朝倉家に仕んことを望む。其節、往来の道中にて川流大黒天を拾ひ、人にも語らず、秘置しが、好身(よしみ)の者共の取持にて、朝倉殿え目見へ相調て、義景従り20貫を賜り、屋敷も拝領して、後、近所の諸士、取持の人々等を祝儀に呼、参会の上に、彼、拾ひたる大黒天のことを語りければ、衆人、皆、「目出事也」と祝す。明智、聞て、「川流の大黒を拾ひ、何の幸ひやある。聞及ひ玉へる」と云へば、人々云けるは、「『大黒を拾ひし人は、千人の頭となる』と古今云習はせり。然れば、貴所は、追付、御取立あって、物頭大将に成り玉はん」と云。衆人退散の跡に光秀独言して云。「吾、千人の頭は全く望にあらず。信仰し頼む共、千人に限らば詮なし」と。又、川へ流し捨。扨、朝倉家えは、「本国より尋求らるる間、皈り度由」を申、暇を乞、直に尾州え行、信長に属し、段々立身、惟任日向守と改、丹波一国に、当国志賀郡を添賜り、大身となれり。(後略)

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200017385/images/200017385_00216.jpg

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200017385/images/200017385_00217.jpg

【大意】犬上郡佐目(滋賀県犬上郡多賀町佐目)

【大意】ここに明智十兵衛光秀が住んでいたという。

明智氏の本貫地は、ここ(近江国)ではなく、美濃国(岐阜県)明智郷である。土岐美濃守成頼(?-1497)の家臣であった明智頼典(1468-1538)は、主君に背き、牢人となった。(これを「親不孝」だとして、父・頼尚は、長男・頼典を廃嫡、義絶して、次男・頼明に明智家を継がせ、頼典を追い出した。こうして牢人となった明智頼典は、光継と名を変えたという。)

明智光継は、美濃国から当国(近江国)に流れ来て、領主・六角高頼(?-1520)に寄宿(他家に身を寄せて世話になること)していた。六角高頼は、「明智家は、土岐家の庶流である旧家(名門)である」として、扶助米(配給米)を与え、光継・光綱・光秀と3代にわたり、ここに住んでいたという。ところが、明智十兵衛光秀は、「器量良し」(有能な人物)だったので、この状況に物足りず、越前国の朝倉義景に仕えることを望んだ。越前国へ向かう途中、大黒天像を拾ったが、その事は誰にも言わず、隠していた。「好身」(よしみ。親しい人、身近な人。犬上衆(「山崎の戦い」の先方衆)だという)の取り持ち(取り成し、仲介)で、朝倉義景にお目見えするお膳立てが整い、謁見(面接試験)の結果、朝倉義景に仕えることになり、20貫(『細川家記』では500貫文)と屋敷を拝領した。それで、近所に住む朝倉家臣や、取り持ってくれた人達を呼んで、仕官成就の祝賀会を開いた。明智光秀は、こう順調に事が運んだのは大黒天のおかげかと思い、大黒天像の話をすると、皆、「目出度いことだ」と言うので、明智光秀は、

「大黒天像を拾うと、何が目出度いのだ? 教えていただきたい」

と大黒天の功徳を聞くと、その場の人達は次のように言った。

「昔から、『大黒天像を拾った人は、千人持ちの頭(大将)となる』と言われている。したがって、今後、出世して千人を率いる大将になるだろう」

皆が帰った後、明智光秀は、

「私はたった千人の大将など望んでいない。(もっと多くの兵を従えたい。)大黒天を信仰しても最高(上限)千人であるならば、意味がない」

と言って、大黒天像を川へ流し、朝倉氏に暇をもらって、尾張国へ行き、織田信長に仕えると、大出世し、「前代未聞の大将」(by 立入宗継)となった。

※大黒天像の話は、『名将言行録』にも載っている。

「或時、越前の東江川を渡りし時、大黒を拾ふ。是は福神(ふくのかみ)なりとて、大に喜び、家に帰り、棚の上に置て朝夕、之を敬拝せり。或人聞て、「偖(さて)も目出度福神を迎られしもの哉。此福神は、則ち、千人の司(つかさ)なり。能々(よくよく)信心せられよ」と言ふ。光秀聞て大に驚き、「偖(さて)は此処大黒殿は千人の司なるや。仮令(たとひ)福神なりとも、尋常の凡夫にも千人の司する人多し。侍(さふらひ)の出世を願て頼むべき神にあらず」と言て、取棄てたり。」

ちなみに、豊臣秀吉の守護仏は、「三面大黒天」です。「三面大黒天」は、一面で1000人、三面で3000人を守る福神です。豊臣秀吉は、初めて仕えた松下嘉兵衛の社(静岡県浜松市南区頭陀寺町)にあった空海作「三面大黒天像」が気に入り、解雇された時に持ち去って守護仏としたと伝えられています。

高屋館も、十兵衛屋敷も、明智家を追い出された明智頼典(光継)の落ち着いた先であり、これら2つの伝承は、「明智光秀は明智頼典(光継)の孫」であることを前提としています。

「ここで明智光秀が生まれた!」と主張する岐阜県山県市中洞では、明智光秀の父は土岐基頼(元頼)で、母は中洞源右衛門の娘・お袋多だとしています。中洞に伝わる古文書では、明智光秀は、大永6年(1526年)8月15日に生まれ、7歳の時に父・基頼が亡くなると、父・基頼の遺言で、明智城主・明智光綱のところへ行き、兵法や軍学を学んだそうです。優秀な明智光秀を気に入った明智光綱は、明智光秀が11歳の時、養子にして、元服させたそうです。こうして明智光秀は、明智家の11代宗主となりました。(中洞には、日本に2枚のみ(もう1枚は、左手の人差し指が異常に折れ曲がっている大阪府岸和田市の本徳寺の肖像画)とされる明智光秀の肖像画が保管されています。中洞の明智光秀の肖像画は甲冑姿です。代々伝わる古文書は見せていただけますが、写真撮影は不可です。)

※『稿本美濃誌』「明智光秀 生存の伝説」

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950886/65

※土岐基頼(1490?-1496):長山城主。土岐11代宗主成頼(?-1497)は、嫡男・政房(1457-1519)ではなく、末子(四男)・基頼(元頼)を寵愛し、家督を譲ろうとしたので、後継者争い「船田合戦」(1495-1496)が起きた。明応5年(1496年)6月20日、土岐基頼が城田寺城(岐阜県岐阜市城田寺)で自害して戦乱は収まったというが、土岐基頼は密かに城田寺城を抜け出して、中洞古屋敷(現在、白山神社がある場所)に隠れ住んだという。また、「船田合戦」において、明智頼尚は主君・土岐成頼に従って基頼派であったが、明智頼尚の長男・頼典は、主君や父に従わず、政房派であったので、廃嫡、義絶されたという。その後、土岐政房は、嫡男・頼武ではなく、次男・頼芸を寵愛し、家督を譲ろうとしたので、再び後継者争いとなり、土岐頼芸に取り入った斎藤氏に美濃国をとられ、土岐氏は滅亡した。(徳川家康は、明智(菅沼)定政に「土岐」を名乗らせて土岐氏を再興した。こうして、明智家が土岐宗家となった。)

③どこで生まれた?

明智光秀の父親の数だけ明智光秀の出生地があります。したがって、出生地の特定の前に、まずは、明智光秀の父親の特定が必要なのですが、父親候補者は、私が知ってるだけでも10人以上います Σヾ(゚ё゚驚)ノ ΣΣ━

明智光秀の出生地は、通説では、高屋館でも、十兵衛屋敷でも、中洞でもなく、「美濃国明智郷の明智城で生まれた」です。祖父・光継が永久追放されたのに、孫が明智城で生まれたとは考えにくいのですが・・・。

──まずは、「明智城探し」です。

美濃国(岐阜県)に「明智」という場所があるかと地図を見ると・・・ありました!

──岐阜県恵那市明智町

早速、行ってみました!

「明智遠山氏 土岐明智氏系譜概要」(龍護寺)

岐阜県恵那市明智町は、遠山氏の領地ですから、「遠山氏が明智氏とどう関係するのか? 明智氏の領地を明智光秀誕生後に遠山氏が奪ったのか?」などと考えながら、龍護寺(岐阜県恵那市明智町東山町)へ行くと、「明智光安と遠山景行が同一人物」であると掲示されていました。やっちゃった感があります。さらに龍護寺の境内には、名奉行・遠山の金さんの供養碑もあるので、「こじつけ」と思い込んでしまう方が多いと思います。これは作戦ミスですね。

遠山の金さんこと遠山金四郎景元は、明智遠山氏の分家の6代目ですので、供養塔があってもおかしくはないのですが、明智光安と遠山景行が同一人物というのはありえません。明智光安は、斎藤義龍に攻められて明智城で討死(一説に自害)し、遠山景行は武田軍秋山隊との上村合戦で討死しています。2人は別人です。

※遠山氏:藤原北家利仁流で、美濃源氏(清和源氏)の土岐氏とは無縁であり、苗木遠山氏(居城は「続日本100名城」の苗木城)、岩村遠山氏(居城は「日本100名城」の岩村城)、明智遠山氏(居城は明智郷の明智城)の3家に分かれていた。

現在の説(パンフレット「恵那市明智町 明智光秀ゆかりの地」より)

現在は修正作業が進んでいます。明智郷は、遠山景行と明智光安が分断して統治しており、明智光秀が生まれたのは、明知遠山景行の明知城ではなく、「明智光秀産湯の井戸」がある明智光綱(光綱の死後は光安)の明智城(多羅城)だとしています。

──明知日向守光秀は、美濃国土岐郡明知といふ里に生れ、昔は土岐の一門とかやいひし。貧しくなりはて、下部の壱人をも持ず、越前国などさすらへありき。思ひがけず信長に宮仕心に叶ひもてきて、江西志賀郡をしり、坂本といふ所に城構ありしが、天正六年の比にや、丹波へ越。ばたのなどいへる國人を討亡し、国の主となり、猶江西を知たり。かく時めき富盛しに、猶あきたらず、日本をしらんとて、信長を討し事、欲心道をそこなひ、名をけがすこと浅ましともいはん方なし。(竹中重門『豊鑑』)

明智光秀について書かれた本には、明智氏発祥の地である「美濃国土岐郡明智郷」で生まれたとする本が多いようですが、恵那市は恵那郡であって、土岐郡ではありません。土岐郡明智郷はいずこ? 実は地図に載っていない「明智」があります。

足利尊氏は、土岐頼兼へ「美濃国可児郡一円」などを宛行い、足利義詮は、土岐頼兼が土岐明智頼重へ譲る「美濃国可児郡明智姫郷」の安堵状を発給しているのです。(「土岐郡明智郷」は「可児郡明智郷」の誤りなのか? 美濃国人の竹中氏でも間違えるのか?)

※観応2年(1351年)2月7日「足利義詮下文(安堵状)」

下 土岐彦九郎頼重

可令早領知、美濃国可児郡明智姫郷、尾張国海東郡宮村地地頭職之事

右件之所任父下野守頼兼譲状可知行牒如件。

観応2年2月7日

https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2075/150/0101?m=all&n=20

美濃国可児郡明智(明智郷、石清水八幡宮領の明智上下庄)・姫郷と言えば、大河ドラマ館が設置される予定の花フェスタ記念公園(岐阜県可児市瀬田)周辺です。早速、行ってみましょう!

※『美濃国諸旧記』「明智城の事并地の戦記」

明智城といふは、土岐美濃守光衡より5代の嫡流、土岐民部大輔頼清の二男、土岐明智次郎長山下野守頼兼、康永元壬午年3月、始めて是を開築し、居城として在住し、子孫代々、光秀迄是に住せり。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948838/92

どうも土岐明智長山頼兼が築いた「長山城」(岐阜県可児市瀬田長山)が「明智城」のようで、今は「明智長山城」と言うようです。

「明智城址」碑

「明智郷は土岐明智氏の本貫地である」

として、織田信長が明智光秀に渡すと、明智光秀は、代官として、石森九郎左衛門を置いたそうです。その当時は、明智城は存在したのですが、現在の「明智長山城」は、何もないただの丘です。これは、羽柴秀吉が、

「元のただの丘に戻せ」
と徹底的に城割させたことによります。

※城割:(政権交代を示すために)城を徹底的に破壊すること。明智光秀の居城・坂本城の城割や、徳川家康による石田三成の居城・佐和山城の城割が有名。坂本城の遺構は、琵琶湖の渇水時に現れる石垣くらいであるので、坂本城は「湖底に沈んだ幻の城」であると言われるが、沈んではいない。破壊されたのである。平成30年(2018年)11月14日、大津教育委員会は、「坂本城跡三の丸南西部と推定される箇所を発掘調査した結果、城の痕跡は確認できなかった」と発表した。専門家でも三の丸の範囲が分からないのほど明智光秀の城は破壊されたのである。長山明智城にしても、坂本城にしても、遺構が残っていないことが、明智光秀関連の城だった証拠であるといえよう。

明智屋敷(明智長山城のフライヤー)

この時、「明智」という地名も使うなと指示されたと考えられますが、城山の北麓には「大屋敷」「東屋敷」「西屋敷」という字名が残されています。ここは明智光秀が生まれた明智屋敷の跡で、「明智光秀産湯の井戸」跡があります。(点線内が明智屋敷だそうですが、当時の敷地は長方形だったと思います。)

「明智光秀産湯の井戸」跡

残された謎

さて、上掲の通説(系図)が正しいとすると、長男・頼典の孫・光秀(1528年生まれ?)と次男・頼明の孫・定政(1551年生まれ)の年の差が23と大きいので、光秀は、定政の父・定明の義弟(『明智物語』)などとする説もあります。養子であれば、年齢差は問題になりませんね。

明智光秀の研究が困難な理由として、封印されている秘伝書が多く、運良く見せていただけたとしても公開不可(何が書かれていたか他言できない)であることがあげられます。家伝(史実?)を語れない、でも語らないと単なる謀反人になってしまうというジレンマがありますが・・・公開されている家伝もあります。たとえば、

・喜多村家伝『明智家譜並びに明智系図』

・宮城家伝『明智氏一族宮城家相伝系図書』

・山岸家伝『明智氏血脈山岸家相伝系図書』

です。

『明智家譜並びに明智系図』では、明智光秀が生まれたのは多羅城だとしています。

『明智氏一族宮城家相伝系図書』では、明智光秀は多羅城主・山岸信周(詳細不明。多羅郷ではなく、桂郷の山岸光信のことだと思われる)の次男で、母・美佐保は父・光綱の妹、つまり、明智光秀は明智光綱の養子(実は妹の子)だとしています。

『明智氏血脈山岸家相伝系図書』では、明智光秀は多羅城主・山岸信周の子で、母・市女(父・光綱の妹)が里帰りして明智屋敷(明智城)にいた時に生まれ、明智光綱の養子になったとしています。

※喜多村家伝『明智家譜並びに明智系図』

一、明智姓は源氏 神武56世・清和第6王子・貞純親王、嫡男・経基号6孫王其長田多田満仲正四位下鎮守将軍攝津守5世孫・土岐光信出羽守、始領知濃州土岐郡。従其称土岐氏。光信8世・明智頼重民部少輔、幼名彦九郎、是、明智の元祖也。領地土岐郡の内、明智郷以所為家号也。于茲頼重11代之正統明智光秀十兵衛尉、後号惟任日向守、于時享禄元歳戌子3月10日、於于濃州多羅城誕生。母武田信虎女也。信玄姉也。幼名彦太郎。次男号彦次郎。三男謂彦三郎。

※宮城家伝『明智氏一族宮城家相伝系図書』

光秀 享禄元年戊子8月17日、生於石津郡多羅云云。多羅は進士家の居城也。或は生於明智城共云云。母は進士長江加賀右衛門尉信連の女也。名を美佐保と云。伝曰、光秀、実は妹聟・進士山岸勘解由左右門尉信周の次男也。信周は長江信連の子也。光秀実母は光綱の妹也。進士家は於濃州、号長江家、依領郡上郡長江ノ庄也。称北山の豪家云云。明智光綱家督相承て、取結妻縁后、既経8年の春秋。然共、生得病身にして、不設一子、齢及40。因テ為其父・光継の賢慮、光秀誕生の時、其侭取迎之、為養子、相譲家督。因光秀、成光綱の子、然るに、以叔父・兵庫頭光安入道宗寂為後見、住其本城。弘治2年丙辰9月明智落城。後暫浪人、仕足利義昭公、後仕織田信長。天正10年壬午6月13日夜、於城伏見小栗栖生害。年55歳。

https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2075/150/0211?m=all&n=20

※山岸家伝『明智氏血脈山岸家相伝系図書』

光秀 童名・熊千代、熊太郎、又、彦太郎。或称鬼太郎。明智十兵衛。後、号惟任日向守。山陰道追補使。従五位下、丹波侍従。後、昇殿。従三位、中将惟任将軍。(中略)享禄元年8月17日、生於可児郡明智城。母は山岸加賀左右門尉信連の女也。伝曰く、光秀、本来、是、光綱の実子に非ず、甥也。実は、光綱の妹婿・山岸勘解由左右門尉信周の子也。将又、実母は光綱の妹・市女也。父・光綱、大永元年2月、娶山岸信周の妹、以て為妻室。享禄元年迄、経8ヶ年の星霜、雖然、光綱、生得多病にして、遂に不設一子も設。しかるに、光綱の妹・市の方は、大永元年8月、嫁山岸信周、既成懐妊身。折節、享禄元年8月、於古郷明智の家、為佳例有式。祝の事として、招請親族、以て各慶賀す。因て此時、市女は、応父母の招、乃、赴明智。一両日、爰に逗留す。俄に産気発して、同17日、遂に生一子。是、乃、光秀也。光綱、如形、末子故に是を幸いして、光継、光綱親子、即談。信周乞受之、其侭直に称光綱の実子て、以て、相立明智の嫡伝畢。(後略)

多羅城の幟(岐阜県大垣市上前津町)

──家系図で明智光秀が生まれたとしている多羅城はどこにある?

恵那市明智町に「田良子」という地名があり、これは「多羅郷」の名残だとして、多羅城(城主・山岸信周)は明智城(城主・明智光綱。病弱な光綱が病死して光安)のことだとする説もありますが、「多羅」と言えば、関ケ原の南、「島津の退き口」で有名な岐阜県大垣市上前津町の多羅でしょう。

しかし、そこは土岐島田氏領(「関ケ原の戦い」以後は高木氏領)であり、山岸氏の領地ではありません。土岐島田氏は、傍流が愛知県新城市作手菅沼に移って菅沼氏になったとされ、定政の母親は、その菅沼氏で・・・この話は長くなるので、また別の記事で。

また、「光秀は、若狭国小浜の刀鍛冶・初代冬広の子」であるという話(『若州観跡録』)や、「初代冬広が自分の子として育てた三代目冬広の父親が明智光秀(もしくは明智光俊)である」という話(『明智氏血脈山岸家相伝系図書』)があります。父・光綱の死後、光秀の母・於牧は、姑(祖父・光継の妻)と合わず、幼い光秀を連れて出身地である小浜に戻り、初代冬広の後妻になったそうです。(光秀は先妻の子の義弟で、冬広の次男です。)光秀は、刀鍛冶にはなりたくなく、長林山往生院称念寺(通称「長崎称念寺」。福井県坂井市丸岡町長崎)末寺の西福庵で薗何上人に学んで学問を身につけると、冬広の子としてではなく、明智光秀として佐々木六角氏に仕官したそうです。(長崎へ行き、称念寺の住職となった薗何上人に頼んで朝倉氏に仕官したとも、霊亀山天龍資聖禅寺(通称「嵯峨天龍寺」。京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)に入り、細川氏に仕官したとも。また、岐阜県恵那市明智町には、明智光秀が天龍資聖禅寺の学僧・勝恵を招いて学問を身につけたという「明智光秀公学問所」(現在の天神神社)があります。)

※『若州観跡録』

光秀は、若州小浜鍛冶冬広が次男なりしが、幼少の時より鍛冶職を嫌ひ、兵法を好、江州に赴き、佐々木家に仕へ、明智十兵衛と名づく云々。

※『明智氏血脈山岸家相伝系図書』(明智光秀の子・冬広の項)

冬廣 於能丸 後号若狭大掾 刀剣鍛冶師
出生の年月不詳。母は若州遠敷郡小浜住人刀剣鍛冶師冬廣の女也。明智大乱後、外祖父冬廣、養之、我子とすと云。一説、是は左馬助光俊の子とも云。

以上、明智光秀の正体には、

説①:明智氏元嫡流(廃嫡・義絶された明智頼典の孫)

説②:土岐一族(明智氏傍流、長山氏、妻木氏、舟木氏など)

説③:明智氏とは関係ない人物

があります。説③支持者は、「光秀が生まれた時、すでに土岐氏も明智氏も滅亡しており、仕官の時に光秀は明智と称して箔をつけた。だから出自をはっきりさせないのだ」と推測しています。

 

当時の史料から、明智家は「上総介家」「兵庫頭家」「中務少輔家」に分かれていたことが分かっています。そして、明智憲三郎氏は、『光秀からの遺言』で、「明智光秀は兵庫頭家の明智光兼の子で、土岐氏の福光館(岐阜県岐阜市長良福光)付近で生まれた」と推理されておられます。

明智光兼の長男の名は秘されています。光秀なのかもしれませんね。

──美濃国住人ときの随分衆也。(立入宗継『立入左京亮入道隆佐記』)

松平家康は、「徳川家康」と名乗り、家臣に「松平」姓を与えました。同様に明智光秀は、「惟任光秀」と名乗り、家臣に「明智」姓を与えました。これは、滅亡したとされていた明智家の再構築であり、このことから明智へのこだわりを感じると共に、明智光秀の正体は、土岐一族、中でも土岐明智一族の可能性が高いように思われます。

今回の明智光秀のゆかりの地巡りの収穫物

今回、明智光秀のゆかりの地をまわりました。これらゆかりの地は、1973年NHK大河ドラマ『国盗り物語』の時に整備されたということですが、老朽化した標柱などもあり、2020年大河ドラマ『麒麟がくる』を迎えるにあたっての再調査と再整備が進められていました。

それにしても、明智光秀って、最初(生年・両親・生誕地が不明)から、最後(「本能寺の変」の動機が不明)まではっきりしない謎の人ですね。

──真実(史実)はたった1つ。

上に書いた諸説のうちのどれかが真実(史実)なのか、はたまた、真実(史実)はまだ闇の中なのか。謎解きの旅はまだまだ続きそうです。

 

城田涼子

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城田涼子(きだりょうこ)
旅が好きです。 戦国時代の史跡巡りとか、温泉巡りとか好きです。美味しい郷土料理も(笑) 
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