安土桃山時代

黒人の侍「弥助」はなぜ織田信長に仕えたのか?

はじめに

織田信長と弥助の出会い

日本に到来したイエズス会宣教師などの南蛮人たち(17世紀)

織田信長には、優れた家臣団がたくさん居て、信長の命令一つで命をかけて戦いを続けた。

その中でも特に異質な存在として知られるのが黒人の「弥助」である。

戦国時代の当時、どうして日本に黒人がいたのか?なぜ織田信長と出会い家臣になったのか?本能寺の変で弥助はどうなったのか?など謎多き人物「弥助」について調べてた。

弥助が日本に来た理由

戦国時代には、日本にポルトガルやスペインなどのヨーロッパからキリスト教布教や貿易を目的に多くの宣教師や貿易商が多数訪れるようになっていたが、ヨーロッパの人はアフリカ人を従者や奴隷として日本に同行させていた。

弥助もその中の従者や奴隷の1人と考えられている。

当時は、弥助だけではなく多くの黒人も日本に来ているが、弥助ほど出自が明確にされている黒人は居ない。

織田信長と弥助の出会い

※アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

1627年にフランソワ・ソリエが記した「日本教会誌」の第一巻には、イエズス会のイタリア人宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノがインドに立ち寄り、その後、日本に来たのだが、その従者(奴隷)として同行して来日したとされている。

弥助は、ポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)出身、年齢は不詳、アレッサンドロ・ヴァリニャーノがモザンビークから直接連れて来たのか?インドで従者にしたのか?については不明だ。

織田信長と弥助の出会い

織田信長と弥助の出会い

※織田信長

織田信長は、以前から黒人奴隷がいることは聞いてはいたが見たことはなかった。

天正9年2月23日(1581年)、イエズス会の宣教師オルガンティノが京都で信長と謁見した際に黒人奴隷の従者を連れていた、それが信長と弥助の出会いだ。

同じく日本に来ていた宣教師のルイス・フロイスの「フロイス日本史」には、

「初めて黒人を見た信長は、その肌の色が生まれつきではなく後から塗ったものだと肌の色を信じようとはぜずに、帯や着物の上半身を脱がせて裸にして体を洗わせて擦り続けてやっと信じたのだ。」

「黒人奴隷は、少し日本語が分かったので信長は彼と話をして飽きることはなかった、彼は力が強くて少し芸ができたので、信長はすっかり気に入り、人をつけて京都市中を歩き回らせ、京都市中は彼を見たさにケガ人が出るほどの人だかりができた。」

との記述が残っている。

信長公記には、

「キリシタンの国から黒人がやって来た、年齢は26~27歳位で、全身が牛のように黒い、この男は健康で力が強く、10人がかりにも勝てそうだ、バテレンが連れて来て信長様に挨拶をした」

との記述が残っている。

信長は、彼をえらく気に入りオルガンティノから貰い受け、弥助と名付け(何故弥助とつけたかは不明だが、一説には、元々の名前の「ヤスフェ」を信長が聞き間違えたが有力)、奴隷から一転して家臣・武士として召し抱えて、俸禄・短刀・屋敷を与え、信長家臣団では唯一の黒人侍となったのである。

戦にも随行していた弥助

織田信長と弥助の出会い

※松平家忠の肖像

徳川家康の家臣・松平家忠天の日記には、天正10年4月19日(1582年)に「信長には、弥助という名前の黒人の家来がいる」という記述が残っていて、信長と家康が一緒に武田勝頼率いる武田家を攻め滅ぼした甲州征伐にも「信長と共に随行していた。」「信長様は、宣教師から進呈されて召し抱えた黒人を連れておられた、身は墨のようで身長は6尺2分(約1m82cm)、名は弥助という」という記述も残っている。

ルイス・フロイスは、「信長は彼をとても気に入りトノ(武将)とするのでは」という記述している。

このような記録や記述が事実とするならば、珍しい物が大好きな信長を喜ばせようとした宣教師が、当時では珍しい黒人と会わせ、その黒人は日本語が少し話せ、芸もでき、力が強く10人力、彼を偉く気に入った信長は彼を貰い受け、名前を「弥助」とし、側近の家臣として俸禄、屋敷、短刀を与え、道具運びの大役を担った人物であり、甲州征伐にも側近として参加した黒人初の侍である。

当時の信長には、お付きの小姓として有名な「森蘭丸」が居る。彼は男色のお相手ともされ、いつも信長の側に居たが、怪力の弥助も信長の道具持ち兼用心棒として側で仕えていたのだ。

弥助の身長は、6尺2分(約182cm)、信長の家臣で一番背が高いとされた前田利家も同じ6尺2分、利家は、長い槍を振り回して敵をやっつける怪力の持ち主である。
信長のことだから、10人力の怪力の弥助と前田利家を大好きな相撲などで力比べをさせていたのではないか?なんて推測もできる。

当時の信長は、身分を問わずに相撲大会を開き上位者には褒美を与えて家臣として召し抱えたので、きっと弥助は信長のお目にかなった掘り出し物に違いなかったはずである。

ルイス・フロイスの記述にあるように「トノ(武将)にするのでは」は、城主の殿様ではなく、殿の身分(結婚してまたは屋敷を与えて殿と呼ばれる)の意図だと思われる。

しかし、弥助の心情は図り知ることは出来ないが、奴隷の身から俸禄を貰い、屋敷を与えられ、信長から直接短刀を貰い、側で道具持ちや用心棒をしたとされるのだから、きっと信長には感謝していたことは間違いないだろう!と推測される。

それが、本能寺の変での弥助の行動となるのだ。

本能寺の変を生き延びた弥助

※錦絵 本能寺焼討之図

天正10年6月2日(1582年)本能寺の変の際には、弥助も信長と共に本能寺に宿泊していた。

信長が自害した後には信長の嫡男である織田信忠が宿泊している二条新御所に行って、信忠を守るために明智軍と戦ったが最後には投降して捕縛されたのだ。

このことは、イエズス会日本年報に「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦っていたが、形勢が決した後に明智の家臣が彼に近づいてその刀を差し出せと言ったので刀を渡した」という記述が残っているのである。

本能寺で信長が「もはやこれまで」と自害をする前に「信忠を助けよ!」と弥助に命令したのかは定かではないが、本能寺から命からがら外に出て、もし逃げようと思えば逃げることが出来たはずである。

しかし、弥助は信忠を助けようとしたのである、これは信長と信忠に恩義や好意を感じていたからに違いないはずだ。

資料からすると信長と弥助が一緒に居た期間は1年間程である、主君のために命を投げ出して働く武士の心を短い期間で養うというのは、並大抵のことではないはずだ。

弥助の処分を家臣に問われた明智光秀は、「黒奴は、犬畜生と同じ動物で何も知らず、日本人でもないので殺さず、京都のパードレ(伴天連)の聖堂に置け」と言ったので弥助は南蛮寺に送られて一命を取り留めたのだが、それには実は裏があって、光秀は弥助が元々キリスト教の宣教師によって連れて来られたことやキリスト教を信仰していたことを知っていて、信長の家臣である摂津・高槻城主のキリシタン大名である高山右近に味方として加勢してくれと、宣教師から説得するために弥助を無罪放免にしたのだ。

一命を取り留めた弥助だが、残念ながら無罪放免後の消息については、記述や資料が全く残ってはいないので、どこで何をしたのか?は全くの謎である。

本能寺の変で信長が自害した後、信長の首を持ち出してデスマスクを作らせたとい噂、九州の戦国大名である有馬晴信の家臣になった、故郷のモザンビーグに帰った、という説あるが真偽のほどは全くの謎である。

黒人侍の噂話

ルイス・フロイスの日本史には、天正12年3月24日(1584年)長崎県の島原で起こった沖田畷の戦い(龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久の戦い)で有馬軍の砲手として「玉込めにエジプト人が行い、点火をインド人が行なって見事に発射した」という記述があり、「この二人のうち一人は弥助ではないか?」という説もあるが、ルイス・フロイスは弥助と面識があるのでその説は誤っている可能性が高い。別に弥助のような黒人侍が居たのではないか?という説もある。

【※ウィリアム・アダムス】

黒人ではないが、徳川家康に仕えて旗本になった三浦按針ことウイリアム・アダムスも居るので、きっと他にも戦国大名に仕えた外国人侍は複数居たかも知れないのだ。
愛知県瀬戸市の西山自然歴史博物館にある「信長のデスマスク」とされる物は、黒人侍の弥助が信長の首を持ち出して作ったという説?もあるのだ。

弥助を題材(登場)にした作品

織田信長の側近・用心棒として仕えた黒人初の侍「弥助」については、資料などが少なくて謎の事柄が多いので、彼を題材・主人公・登場人物とした作品がたくさんあるので幾つか紹介します。

小説など
「くろ助」:1968年、岩崎書店、来栖良夫による児童文学作品
「黒ん坊」:1971年、毎日新聞社、遠藤周作によるユーモア小説
「結城秀康」:1998年、PHP研究所、大島昌宏による小説
「桃山ビート・トライブ」:2008年、集英社、天野純希による小説
「王になろうとした男」:2013年、文藝春秋、伊東潤による短編小説

漫画(アニメ)など
「アフロサムライ」:1998年、自費出版、岡崎能士による漫画
「へうげもの」:2005~2017年、モーニング、山田芳裕による漫画
「信長協奏曲」:2009年~、ゲッサン、石井あゆみによる漫画
「戦国八咫烏」:2010~2012年、週刊少年サンデー、小林裕和による漫画
「サイボーグ009おわりノブナガ編」:2010年、クラブサンデー、新井純也による漫画
「YASUKE」:2018年MAPPA製作、Netflixで配信中のアニメ作品

ドラマ・映画など
「信長 KING OF ZIPPANG」:1992年、田向正健脚本のNHKの大河ドラマ
「秀吉」:1996年、堺屋太一脚本のNHKの大河ドラマ
「軍師官兵衛」:2014年、前川洋一脚本のNHKの大河ドラマ
「大帝の剣」:2007年、東映製作の映画
「Yasuke」:2017年、ハリウッド映画

ゲームの「婆裟羅」、「信長の野望・創造」、「仁王」にも登場します。

おわりに

弥助」という名前の26~27歳位の黒人が、織田信長の側近として道具運び兼用心棒として戦国乱世に居たことは事実である。

織田信長と嫡男の信忠が死んだ「本能寺の変」では、二人を守るために戦ったが明智光秀の軍に捕まり、一命を取り留めるもその後の消息は不明だ。
奴隷の身から信長の家臣になった、立身出世の謎多き黒人侍である。

関連記事:
織田信長の本当の人物像に迫る【外国人ルイス・フロイスが見た信長】
明智光秀の本当の人物像に迫る【宣教師ルイス・フロイスから見た光秀】
【家康に仕えたイギリス人】ウィリアム・アダムス(三浦按針)
外国人宣教師たちが記した日本について調べてみた

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