安土桃山時代

日本で初めて花火を見たのは、伊達政宗だった

日本で初めて花火を見たのは、伊達政宗だった

毎年、全国各地で夏の夜空を彩る花火

江戸時代には庶民に広まったと言われている。

その花火を日本で初めて見たのは、伊達政宗だったという説はご存じだろうか?

伊達政宗はいつ、花火を見たのか?

日本で初めて花火を見たのは、伊達政宗だった

画像 : 米沢城 ※筆者撮影

安土・桃山時代に、伊達政宗が花火を見たという記録が残っている。

記録が残っているのは、伊達家で編纂されている仙台藩の正史『伊達治家記録1』である。

「1589年(天正17年)7月7日、伊達政宗公は、米沢城(山形県米沢市)で唐人3人が参上し、その際に花火を揚げ御覧に入れ奉る。その後、謳歌した」

というものだ。

翌8日には、唐人が作った花火が献上され、政宗自身が火をつけて楽しんでいる。そして「珍しく、とても良いものだ」といった感想を述べている。

さらに、同月14日と16日に、唐人4人が参上し、花火をしている。
日数が空いているのは、花火を改めて作ったからと考えられる。

現代でも日本の夏の風物詩になっている花火を、一週間で3回も見ているのだ。

献上された翌日に自らの手で花火を楽しんだ記録があることから、政宗は相当花火のことを気に入ったのだろう。

当時の花火はどんなものだった?

日本で初めて花火を見たのは、伊達政宗だった

画像 : イメージ

江戸時代には、黒色火薬が主な花火として流通していた。

材料は硝石、硫黄、木炭を混ぜたもので赤橙色のみであり、現代のように彩り豊かな花火ではなかった。
また、打ち上げ花火が始まったのは、1733年(享保18年)であり、政宗が見た花火は噴き出し花火の一種だった。

さて、『伊達治家記録』異本が、天童家資料として残されている。
こちらには花火の調合法が記録されている。花火の種類は二つあり、月より桜、ほたんという名前がある。
えん(煙硝)、しやう(樟脳)、鉄(鉄粉)、ゆ(硫黄)、はひ(灰)を原料とし、配合割合が記されている。

現在のような彩とりどりのものではないが、様々な花火を作っていたことがわかる。記録された年月日はないが、花火の調合の紙は「奥州仕置」の記録があり、天正18年以降に書かれたものだと推測できる。

政宗は、この調合で作られた花火を見たのかもしれない。

文化人としての伊達政宗

画像.伊達政宗 ※筆者が2023/8月に撮影

奇抜で派手な装いや、戦国大名としての活躍が注目されることが多い政宗だが、様々な芸事にも精通している一面がある。

和歌の他にも、茶の湯、能楽、香道も嗜んでいる。

茶の湯については、前田利家に「千利休殿に茶の湯を教えてもらいたい」と頼み込んだという逸話がある。
これは政宗が小田原城攻めに遅参し、咎められて幽閉されていた際に、前田利家が遅延の理由を詰問しようとした時に頼んだという。

和歌については豊臣秀吉が開いた歌会において、参加した武将の中では政宗が最も優れていたという。

豊臣秀吉に「鄙の歌人」と称えられる程の美意識と表現豊かな感性、教養の深さを持っていたのである。

花火を詠んだ政宗の和歌はあるのか?

残念ながら調べてみても、花火についての政宗の和歌はなかった。

しかし、花火同様に夏に開催される「仙台七夕」を詠んだ和歌は存在する。
この行事は現代でも、「仙台七夕まつり」として続いており、毎年8月6日~8日に行われている伝統的な行事だ。

・まれにあふ こよひはいかに七夕の そらさへはるる あまの川かせ
・七夕は としに一たひ あふときく さりてかへらぬ 人のゆくすえ

どちらも、1618年(元和4年)に詠んだ和歌である。

政宗は数々の和歌を残しており、どれも繊細で心がこもっている。
花火を題材にした和歌があれば、きっと素晴らしいものだったに違いあるまい。

仙台藩と花火

画像 : 徳川家光像(金山寺蔵、岡山県立博物館寄託)

三代将軍の徳川家光は、花火をいたく気に入っており、1623年(元和6年)に花火を奨励したという。

その頃は戦国の世が終わり、鉄砲を作っていた砲術師は花火を作るようになり、各雄藩で競い合うようになっていた。

隅田河畔にあった屋敷にて、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)をはじめ、金沢藩、仙台藩などが花火を揚げていた。
江戸の庶民は、その花火の打ち上げを楽しみにしていたという。

また、仙台藩4代藩主であり、伊達氏20代当主の伊達綱村(肯山)が、広瀬川(宮城県仙台市)で花火を見たという記録が残っている。

花火の人気が高まると事故や火災も多発し、幕府は「花火禁止令」を出している。
その後も、度々禁止令は出たものの、水辺での花火だけは許可されるようになった。

享保年間後期には、両国橋たもとの大川にて花火が打ち上げられている。
これは現代のような花火ではなく、狼煙花火と呼ばれるものだった。

仙台藩の花火については、「伊達政宗公以来の豪放な家風を表している」と人気であった。
大勢の見物客が集まり、その重さで藩邸近くにある万年橋が折れる事故まで引き起こすほどだった。

現在も、宮城県では江戸時代に創業した煙火工場がいくつかある。
時代が移るとともに、花火も進化を遂げた。

伊達政宗が現代の花火を見たら、いったいどんな反応をするだろうか。

参考文献 :

伊達治家記録1(仙台藩資料大成)
https://id.ndl.go.jp/bib/000001229729
奈良文化財研究所 全国遺跡報告総覧「天童家文書Ⅱ」
https://sitereports.nabunken.go.jp/3639
高山市史 街道編(下) 享和三年七月改め 五拾七色大花火帳
https://adeac.jp/takayama-lib/text-list/d100040/ht070100

 

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草の実堂編集部

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