戦国時代

上杉謙信の甲冑にまつわる様々な逸話 「兜マニアだった」

上杉謙信(うえすぎけんしん)は「越後の龍」や「軍神」などと称され、無類の強さを誇った戦国武将である。

自らを毘沙門天の化身と信じていた謙信は、甲冑にまつわる様々な逸話がある。

今回は、軍神と呼ばれた上杉謙信に関する様々な逸話を紹介する。

甲冑を着なかった軍神伝説

上杉謙信の甲冑にまつわる様々な逸話

朝櫻樓國芳画「名高百勇傳」より『上杉謙信』、木版画

戦国時代、大将たる者は軍の後方で采配を振るうのが一般的であったが、謙信は時に型破りな戦い方をしたことも多く、自ら軍を率いて最前線で戦うことも多かった。自ら体を張って軍を一つにまとめようとする意図があったのだ。

謙信が最前線に立った戦いの中でも伝説的とされているのが、永禄3年(1560年)の北条氏政率いる3万の軍に城を包囲されて落城寸前に陥った唐沢城主・佐野昌綱の救援要請に駆け付けた戦いである。

救援要請を受けて越後から駆け付けた謙信は、なんと十文字槍を手にわずか40騎ほどで(数は諸説あり)城の南口から3万の北条軍を切り裂いて突破し、城内に到達した。
これを機に戦局は一変し、士気が上がった佐野軍の攻撃で北条軍は撤退を余儀なくされたのである。

なんとこの時、謙信は甲冑などの防具を一切身にまとわずに北条軍の中を突破したと伝えられている。

まさに「軍神」「越後の龍」命知らずの毘沙門天の化身そのものであったという。

信長から贈られた甲冑

上杉謙信の甲冑にまつわる様々な逸話

織田信長

後に戦国の覇王と呼ばれ天下統一に近づいた織田信長も、謙信や信玄の力を恐れて数多くの贈り物をしたという。

信長は謙信に天正2年(1574年)当代一の絵師と言われた狩野永徳の「洛中洛外図屏風」や「源氏物語図屏風」と共に「金小札色々威胴丸(きんこざねいろいろおどしどうまる)」という甲冑を贈っている。

「金小札色々威胴丸」は、小札は金箔押、威毛(おどしげ)は紅・白・紫糸を用いた色々威の華麗な胴丸の甲冑である。
胴・草摺(くさずり)の形は色々威の威毛と共に室町時代の特色を示し、小形の小札や草摺の十一間と多くなった間数、立挙が前に段後四段の仕立など戦国時代の当世具足から変化し金箔押で、それは華麗なものであったという。

信長がいかに謙信の力を恐れ、贈り物で機嫌を取っていたことの現れとも言える。

儀式の時の甲冑

謙信は戦いに赴く前に必ず「出陣の儀式」を行っていた。この時に着用した甲冑が「色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)」である。


「色々威腹巻」は、茜・白・紫の各色糸をもって威した豪華な腹巻で、腹巻は鎧・胴丸と共に南北朝時代から室町時代にかけて盛行したものである。
この兜の前立(まえだて)には戦勝の神として戦国武将たちの信仰を集めた「飯綱明神(いづなみょうじん)」の像が装着してあった。

また、謙信が関東管領の上杉憲政から譲られた「素懸白綾威黒皺韋包板物腹巻(すがけしろあやおどしくろしぼかわつつみいたものはらまき)」は、兜の前立に蜻蛉(とんぼ)が施されている。
蜻蛉は前にしか飛ばないことから「勝虫」として戦国武将たちに好まれた。

この腹巻は隙間なく全身を覆っていることから、防御力を確保した上に機動性も兼ね備えた一品であったという。

謙信愛用の甲冑

上杉謙信の甲冑にまつわる様々な逸話

上杉謙信所用朱皺漆紫糸素懸威具足 amazon

上杉謙信が愛用していたとされる甲冑が「朱皺漆紫糸素懸威具足(しゅしうるしむらさきいとすがけおどしぐそく)」である。

この甲冑は「三宝荒神(さんぽうこうじん)」という仏宝・法宝・僧宝の三宝を守護する仏神をかたどった三面の兜「三宝荒神形兜」が有名で、謙信の甲冑で代表的なものとされている。

謙信の変わった兜

謙信の兜も特徴的で、兜のしころには太陽を表している「日輪」と「三日月」の形をしていてものがあり、強くて迫力ある印象を与えたという。
それ以外でも謙信は変わった兜を所有していたことでも有名である。

上杉謙信の甲冑にまつわる様々な逸話

銀箔押張懸兎耳形兜

銀箔押張懸兎耳形兜(ぎんぱくおしはりがけうさぎみみなりかぶと)」はウサギの耳のような形をしていた。この時代はぴょんぴょんと俊敏に動くウサギは武将たちに好まれ、兜にもウサギやウサギの耳をデザインした飾りを施す者も多かった。
ただ、謙信のこの兜は耳の部分がかなり大きく、かわいいウサギと言うよりごついウサギの耳のような長さであった。

金箔押唐草透風折烏帽子形兜(きんぱくおしからくさすかしかざおりえぼしなりかぶと)」は、唐草模様を透かしで表現し全体が金箔で覆われている。
圧倒的なゴージャス感がある兜というより「折烏帽子(おりえぼし)」という武士のかぶりものに近かった。

上杉謙信の甲冑にまつわる様々な逸話

鉄三枚張峯界形張懸兜

鉄三枚張峯界形張懸兜(てつさんまいばりほうかいなりはりかけかぶと)」は、今で言う四角いパラボラアンテナのような不思議な形の兜である。
連なる山々をデザインしたものらしいが、とても山には見えない四角いもので左右の先が尖っているという変わった形の兜である。

この他にも謙信は毘沙門天の三尊の梵字があしらわれるスマートな兜も愛用し、いわゆる兜マニアでもあったという。

甲冑を着て埋葬

謙信は天正6年(1578年)3月13日に急死した。
死因は脳溢血とされている(諸説あり)が、遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて(かめ)の中へ納めて漆で密封したという。

謙信の武威を強調し、その埋葬地の場所は春日山城本丸の北下方に並ぶ護摩堂、諏訪社、毘沙門堂、不識院と呼ばれる曲輪跡の一角だろうとされている。

この甕は、上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸の一角に安置され、明治維新後に歴代藩主が眠る御廟へと移された。

おわりに

謙信と言えば第四次川中島の戦いで、謙信と信玄が一騎打ちをするシーンが代表的な場面として伝わっている。
そのシーンの謙信は兜ではなく白い頭巾で描かれており、TVドラマや映画の合戦シーンでも謙信は兜をかぶらず、白い頭巾で采配をしている映像が多い。

しかし実際の謙信は様々な甲冑を愛し、変わった兜を集めたマニアであった。

 

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日本史が得意です。

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2021年 8月 12日

    謙信のイメージは白い頭巾
    川中島での信玄との一騎討ち
    TV のイメージは強かったが
    まさか、死んだら甲冑を着て
    埋葬せよと言うほど甲冑好き
    だとはさすがは軍神ですね

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