戦国時代

鮭延秀綱の武勇 〜武田信玄・上杉謙信を超えると絶賛された「乞食大名」

日本には20数万とも言われる姓(苗字)があり、その中には強烈なインパクトを植えつけるユニークなものも少なくありません。

今回は出羽国(現:秋田県と山形県)を中心に活躍した戦国武将・鮭延秀綱(さけのべ ひでつな)を紹介。何だか美味しそう?な苗字ですが、一体どのような生涯を送ったのでしょうか。

鮭延秀綱の武勇

真っ先に思い浮かべた映像(イメージ)。

今回はそれを調べてみたので、紹介したいと思います。

幼くして人質に

鮭延秀綱の生年については諸説あり、戦国時代後期の永禄6年(1563年)かそれ以前と考えられています。

父・佐々木貞綱(ささき さだつな)は岩花城(現:山形県戸沢村。岩鼻館)主として横手地方の大名・小野寺景道(おのでら かげみち)に仕えていましたが、永禄6年(1563年)に庄内地方の大名・大宝寺義増(だいほうじ よします)に攻められ、鮭延(現:山形県真室川町)へ撤退。

「ここを我が城とする!」

貞綱は城を築いた鮭延の地名を称して「鮭延貞綱」となった一方、まだ幼かった(あるいは生まれて間もない)秀綱は大宝寺に捕らわれ、その人質とされてしまいます。

鮭延秀綱の武勇

義増の小姓として仕えた秀綱(イメージ)。

しかし利発だったのか、あるいは美貌の持ち主だったのか、もしくはその両方か、成長した秀綱は義増に気に入られてその側近くに仕え、歳月は流れていきました。

「……そろそろ、そなたをお父上の許へ還そう。これまでよう仕えてくれた」

「こちらこそ、人質でありながら我が子の如く育んで下さり、感謝の言葉もございませぬ」

本国へ帰還した秀綱は年老いた父の跡目を継いで鮭延城主となり、父と同じく小野寺景道に仕えます。

最上義光に仕え、旧主と戦う

しかし19歳となった天正9年(1581年)、最上義光(もがみ よしあき)の部将・氏家守棟(うじいえ もりむね)に攻められ、果敢に抵抗するも調略によって家臣団が内部より崩壊。

鮭延秀綱の武勇

出羽の驍将・最上義光。戸部正直「長谷堂合戦図屏風(部分)」より。

「これ以上の抵抗は無益。御屋形様、今は最上殿に従われませ」

「無念……!」

やむなく降伏した秀綱でしたが、本領を安堵されたため、そのまま最上氏に仕えることにします。

「小野寺家を継いだ遠州(景道の子・小野寺義道)は不徳の至りで、今や人心も離れておる。これを討つことは天意に外ならぬ!」

かくして秀綱は旧主である小野寺氏と戦い、かつての人間関係を活かした硬軟両面の作戦を展開。文禄4年(1595年)には楯岡満茂(たておか みつしげ)の先鋒として湯沢城(現:秋田県湯沢市)を攻略するなど、名将に成長していきました。

まさに戦国無双!敵将さえ絶賛した武田信玄・上杉謙信以上の武勇

そんな秀綱の将器がいかんなく示されたのは慶長5年(1600年)、天下分け目となった関ケ原合戦に伴って勃発した慶長出羽合戦(けいちょうでわがっせん)。

奮戦する秀剛たち。戸部正直「長谷堂合戦図屏風(部分)」より。

直江兼続(なおえ かねつぐ)の軍勢に包囲された長谷堂城(現:山形県山形市)への援軍として派遣された秀綱は、少数精鋭をもって大いに奮戦したことが『永慶軍記(えいけいぐんき)』に記されています。

鮭延四五十騎の鼻をならべ、切先を揃えて駆ければ、会津勢取囲んと思ひけん。陣を奮しが、鮭延少も猶予せず縦横に破り、巴に追廻し、前後を払て突き伏せ、切倒せば、流石に聞こえし会津勢も一陣、二陣混乱して、既に直江が本陣まで近づく。中にも鮭延左衛門尉いまだ十六歳の若者なれども、力尋常に勝れしが、大音揚げて「敵の大将を組留よ。直江はあれに見ゆるぞ。兼続が旗は夫ぞ」と喚き叫んで駆けちらす。其勢い悪源太義平が勇力にも勝るべくぞ見えにけり。敵三人を突落し、手疵負せしは数を知らず。我身も六ケ所疵を蒙り……(中略)……越前守は三尺五寸の太刀を片手にとりて、冑の鉢を割付け、篭手、脛当、草摺ともいはず当るを幸に切り落とす

【意訳】
秀綱は40~50騎を集め(馬の鼻を並べ)、槍の切先を揃えて突撃したところ、会津勢(直江の軍勢)はこれを包囲してやろうと思ったが、秀綱らは縦横無尽に駆け巡って包囲を突破。
巴のようにぐるぐる回り、前後の敵を払って突き伏せ、切り倒す奮闘ぶりに、さすがの会津勢も混乱して、兼続のいる本陣まで接近を許してしまう。
秀綱の嫡男・鮭延左衛門尉(さゑもんのじょう。鮭延秀義)はこの時16歳の若者だったが武勇に優れ、大音声で叫んだ。
「敵の大将を組み仕留めよ!直江はあそこだ!兼続の旗はそれだ!」
突進する勢いは平安時代末期の荒武者・源悪源太義平(みなもとの あくげんたよしひら)以上と思われ、敵将3名を馬から突き落とし、負傷させた者は数えきれない。自身も6ヶ所の手傷を負ったが……。
一方、越前守(秀綱)も負けじと3尺5寸(刃渡り約106cm)の太刀を片手で軽々振り回し、敵の兜を叩き割り、鎧の籠手(こて)だろうが脛当(すねあて)だろうが草摺(くさずり。腰回りを防護する部分)だろうがお構いなしで「当たるを幸い」とばかり斬り飛ばしていったのだった。

少数精鋭で敵の大軍に突っ込み、縦横無尽に斬り廻って勝利を掴む……まるで人気アクションゲーム「戦国無双」そのものですね。

奮闘する秀綱父子。戸部正直「長谷堂合戦図屏風(部分拡大)」より。

この奮闘ぶりは天下の名将・直江兼続をして心胆寒からしめ、同時に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし(武田信玄、上杉謙信も思いがけないほどの凄まじさだった)」と激賞され、後日褒美が贈られたと言います。

兼続が属した西軍は敗れてしまいますが、それでも「敵ながら天晴れ!」と称賛せずにはいられなかった秀綱父子主従の戦いぶり、さぞや壮観だったことでしょう。

「最上騒動」で改易処分、鮭延家は断絶へ

関ヶ原の勝利によって最上家が出羽山形57万石に封じられると、秀綱もその武功によって1万1,500石を与えられ、晴れて大名となりました。

「ついにここまで来たか……」

最上家の重鎮として活躍した秀綱でしたが、主君・義光が亡くなると家督相続で争いが勃発。この「最上騒動(元和3・1617年)」によって最上家は遠く近江国大森(現:滋賀県東近江市)1万石に転封(大幅減封)させられ、秀綱は改易(領地を没収)されてしまいます。

最上家の行く末を案じて泣く秀綱たち(イメージ)。

「御家のためによかれ(※)と思ったことが……」
(※)最上の家督を継いだ最上家信(いえのぶ。義光の孫)は酒色にふけって政務を顧みず、秀綱ら重臣の諫言も聞かなかったため、山野辺義忠(やまのべ よしただ。義光の4男で家信の叔父)を擁立。江戸幕府が仲裁するも和解できませんでした。

秀綱は老中・土井利勝(どい としかつ)の預かりとして江戸・本郷森川(現:東京都文京区本郷森川町あたり)に蟄居を命じられます。

「やれやれ。あれだけ苦楽を共にした家臣たちも今や散り散りか……」

もう懐かしい鮭延には帰れまい……そんな思いがあったのか、先立った秀義の遺児には籠宮(かごみや)の苗字を名乗らせ、亡くした妻に代わって身辺の世話をしてくれていた現地の娘との間に授かった男児も、地名をとって森川弥五兵衛(もりかわ やごべゑ)と名乗らせ、鮭延家自体は秀綱の代で絶やすことにしたのでした。

「乞食大名」と家臣たちの絆

しかし、秀綱から受けた御恩を忘れていない旧臣ら14名が遠路はるばる江戸までやってきて、側近く仕えたと言います。

「やはり鮭延は御屋形様あってこそ……旧領への未練より、むしろ御屋形様がおいでの場所こそ『我らが鮭延』にございまする!」

「……そなたらの忠義、終生忘れぬぞ……!」

旧恩を忘れず駆けつけた秀綱の家臣たち(イメージ)。

その後「最上騒動」の不祥事を赦された秀綱は土井家に仕え、知行5千石を与えられましたが、それはすべて旧臣14名に分け与え、自分を慕ってくれた忠義に報いたと言います。

しかし「武士は食わねど高楊枝」とは言っても、知行がなくては食っていかれぬ……そこで旧臣らは順番に秀綱を養うことにしたので、その様子を世の人々は「乞食大名」とあだ名し、笑ったのでした。
(※)別説では秀綱の死後、旧臣14名は改めて土井家に仕え、秀綱の知行5千石が分け与えられたために生まれた伝承とも言われ、これを基に海音寺潮五郎「乞食大名」や神坂次郎「もらいもす大名-鮭延越前守秀綱」などの作品が生み出されています。

寛永10年(1633年)に土井家が古河(現:茨城県古河市)へ転封されるとこれに従い、正保3年(1646年)に80数年の生涯に幕を下ろすと、その遺徳を偲ぶ旧臣たちが現地に鮭延寺(けいえんじ)を建立。菩提を弔ったということです。

終わりに

鮭延寺。Wikipediaより。

物心ついた時から人質となり、若くして城主となるも敵の軍門に屈する苦境や旧主との戦いを経て名将に成長。天下分け目の決戦でその本領を大いに発揮したものの、晩年は不遇の中で家臣たちとの絆に慰められる……まさに波瀾万丈の人生を送った鮭延秀綱。

初めてこの名前を見たのは歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」シリーズ。そのステータスを見てみると、政治39 戦闘58 教養49 魅力42 野望49(※武将風雲録)……ちょっと微妙な感じです。

当時中学生だった筆者は、正直「苗字が珍しいだけのネタ武将かな」と思ってしまいました(ごめんなさい)が、調べてみると色々と発見があるもので、他の武将たちはもちろん、他の時代や人物についてもまだまだ魅力が埋もれていると思うと、とてもワクワクしてきますね!(ね?)

※参考文献:
小和田哲男ら編『戦国大名家臣団事典 東国編』新人物往来社、1981年8月
伊藤清郎『奥羽史研究叢書 中世出羽の領主と城館』高志書院、2002年2月
今村義孝 監修『奥羽永慶軍記』無明舎出版、2016年10月
安彦好重『新奥羽永慶軍記 会津の巻』歴史春秋出版、2019年4月
宮本洋一『日本姓氏語源辞典 第二版』示現舎、2019年12月

角田晶生(つのだ あきお)

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