安土桃山時代

宮本武蔵の生涯について解説【天下無双の剣豪】

宮本武蔵とは

宮本武蔵とは

※江戸時代初期の剣豪。宮本武蔵の肖像画(自画像)

日本一の剣豪は?と聞かれて必ず名前が出てくるのが宮本武蔵である。

宮本武蔵と言えば「吉岡道場との戦い」と佐々木小次郎との「巌流島の決闘」が有名だが生涯60数回の勝負すべてに勝ったとされる。

剣術で名を売って大名家への仕官を夢見た、天下無双の剣豪宮本武蔵について追っていく。

宮本武蔵の生い立ち

宮本武蔵の生年や出生地については幾つかの説がある。

生年は天正10年(1582年)と天正12年(1584年)の二つの説がある。

いずれにせよ安土桃山時代、本能寺の変(1582年)で織田信長が明智光秀に討たれた直後くらいに生まれたと考えるとわかりやすい。関ヶ原の戦い(1600年)の頃には10代後半ということになる。

出生地については播磨国(現在の兵庫県高砂市)と美作国宮本村(現在の岡山県大原町宮本)の二つの説がある。

父は赤松氏の支流・新免氏の一族・新免無二とされているが、無二は養父で実父は別所氏の家臣・田原家貞の次男という2つの説がある。

新免無二は十手術の兵法家で室町幕府15代将軍・足利義昭に召されて、将軍家師範の京都の吉岡道場吉岡直賢と試合をし、一度目は吉岡が勝利して二度目と三度目は無二が勝ち「日下無双兵法術者」の号を賜った強者だ。

天下一の兵法者から剣術を習ったとされる武蔵は、13歳の時に新当流の有馬喜兵衛と生まれて初めての決闘をして勝利する。
有馬を投げ飛ばして馬乗りになって木刀で殴り続けたそうだ。

それ以降29歳までに60数回の勝負を行って、すべて勝ったとされている。

宮本武蔵とは

※黒田官兵衛 画名「如水居士像」

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは黒田如水(黒田官兵衛)の軍に父・無二と共に東軍として九州で戦う。

しかし、一説には西軍の宇喜多秀家の軍で戦ったという説もあり、宇喜多軍で武功を挙げて剣術指南役を目指したが、西軍が負けて夢が破れるという話である。

この後、武蔵は諸国を巡り名のある兵法者と戦って、自らの剣術の腕と名声を高める旅に出る。

宮本武蔵の剣術

武蔵の父・新免無二は十手・二刀流などを含む當理流(とうりりゅう)の使い手だったが、武者修行に出た頃の武蔵は父の流派を独自に発展させ円明流(えんめいりゅう)と称した。

円明流は武蔵の代名詞「二刀流」のことで脇差・短刀・手裏剣も使い、またそれを投げたりもする剣術である。

実は武蔵は誰からも剣術の教えをまともに学んだことはなく、自ら山にこもって猪などの野生動物と対峙した時にどう戦うのかを考えた。

いわゆる独特な山岳剣法で「前もって隠れる」「試合に遅れる」など勝つためには何でもアリだった。

当時の剣術の常識とは一線を画す、徹底的に勝ちにこだわった戦法を用いたのだ。

吉岡清十郎との戦いでは木刀の一撃で倒し、佐々木小次郎には舟の櫂を使って倒したという逸話は有名である。

両方とも剣の基本である一の太刀に重きをおいた一撃必殺の剣だった。

武蔵の身長は六尺(約180cm)で当時の男性の平均は155~158cmだったので、かなりの長身でしかも左利きであった。

宮本武蔵とは

晩年、武蔵は二刀流の円明流を「二天一流」と称して奥義・五輪書を執筆する。

武蔵の使っていた刀は「無銘金重」「大和国住国宗」で、無銘金重は南北朝朝時代の美濃国関の刀鍛冶の祖である金重のもので、銘が彫られていないので「無銘金重」とされている名刀である。

武蔵の刀は現存していて、熊本市の島田美術館に展示されている。

吉岡一門との決闘

武蔵は13~29歳の間に60数回の勝負をしたとされているが、その戦いの中で有名な戦いを幾つか解説する。(※武蔵の史料は多くなく異説も多いが、ここでは通説となる『小倉碑文』の内容を中心に述べる

武蔵21歳の時に武蔵が選んだ相手は、足利将軍家の剣術師範の京都の吉岡道場だった。

吉岡流は剣術の開祖とされる鬼一法眼が、鞍馬寺の僧兵8人に教えた京八流の一つである。日本各地から吉岡流を学ぶために門弟が集まる日本屈指の名門であった。

武蔵が道場に行くと師範の吉岡清十郎が不在で、門弟たちを何人かあっさりと倒し、清十郎に挑戦状を送り五条大橋に決闘を伝える高札を掲げた。

慶長9年(1604年)多くの門弟が見守る中で清十郎は早朝から武蔵を待っていたのだが、約束の時間になっても武蔵は現れない。

苛立ちがピークに達した頃に、何処に隠れていたのか武蔵が突然清十郎の前に現れる。

虚をつかれた清十郎は「遅れるとはさては武蔵臆したな!」と刀を振り上げると、武蔵の木刀が清十郎の腕の骨を砕き清十郎はその場に倒れ込んだ。

門弟が駆け寄って来たので武蔵はその場から立ち去った。

宮本武蔵とは

※宮本吉岡決闘之地

次の相手は吉岡清十郎の弟・吉岡伝七郎で、東山の三十三間堂で決闘をすることになった。

伝七郎の太刀は長さが五尺(約150cm)の長太刀だったが、武蔵にあっさりと太刀を奪われその太刀で切り殺されてしまう。

面子丸つぶれの吉岡一門は総力戦での戦いに臨んだ。「一乗寺下り松の決闘」である。

さすがの武蔵もこの決闘には並々ならぬ覚悟をしたようで、必勝祈願のために八大神社に立ち寄って拝殿の前に立ったが、手を合わさずに頭を軽く下げただけで立ち去ってしまう。

晩年武蔵はこの時のことを「我、神仏を尊んで、神仏に恃まず」と神頼みではなく己の力で悔いなく戦い、自分の生死は神仏のみが知ると悟ったと言っている。

夜明け前の一乗寺下がり松に集まった吉岡の門弟は、数百人を超えていた。

武蔵は下り松を見渡せる場所に潜み、門弟の配置を見て敵の大将である若干12歳の吉岡源次郎の場所と、逃げるルートを確認する。

そして、予定の時間より早く源次郎の背後から一気に駆け下りて、躊躇することなく元服前の源次郎を斬り付ける。

武蔵の奇襲で虚をつかれた門弟たちは慌ててすぐに武蔵に向かっていくが、武蔵は向かってくる相手を斬りながら突破して逃げ去った。

この時、武蔵が斬った門弟の人数は20人以上だったとされているが、本当の人数は定かではない。

幾多の勝負と決闘

※胤栄は三日月形の槍を開発したという

吉岡一門を倒した武蔵は、奈良の興福寺の宝蔵院にやって来て宝蔵院槍術の始祖である宝蔵院胤栄(ほうぞういんいんえい)との戦いを望んだ。

しかし胤栄は84歳の高齢で、2代目胤舜(いんしゅん)は16歳だったために、一番弟子の奥蔵院道栄と二度試合をして二度とも武蔵が勝った。

宝蔵院から江戸に向かう途中の伊賀で鎖鎌の使い手・宍戸梅軒(ししどばいけん)と勝負をする。

鎖鎌は片方に分銅、もう片方に鎌を鎖でつないだ武器である。

この戦いは命を賭けた真剣勝負で、武蔵は初めから腰の真剣を抜いて臨んだ。

梅軒の分銅に初めは懐に飛び込むことが出来ずにいたが、動きを見切ると分銅を避けずに刀に鎖を巻き付けて、梅軒を徐々に引き寄せる。

次に武蔵は右手を離し左腕一本で梅軒との距離を徐々に縮め、梅軒の懐に入ると右手で脇差に手をかけ梅軒を斬った。

この後も武蔵は各地の名の通った兵法者や、武蔵と試合をして名を上げようとしている者達と幾多の試合や決闘をして、いずれも勝利している。

巌流島の決闘

※巖流島の決闘

慶長17年(1612年)4月13日、当時28~29歳であったとされる武蔵は、小倉藩細川家剣術指南役・佐々木小次郎と下関沖合の小島・舟島(後の巌流島)で決闘をした。

佐々木小次郎は「物干し竿」と呼ばれる長尺(三尺約1m)の太刀を使い、剣術名を岩流(がんりゅう)と称し必殺技「燕返し」で天下に名の通った剣豪だ。

子舟で巌流島に向かった武蔵は、約束の時間よりも3時間以上もわざと遅刻して、子舟の中で櫂を削り長い木刀にして舟島に到着する。

武蔵は事前に小次郎の太刀の長さを把握していたようで、櫂の木刀の長さは計算に入れていた。

また、吉岡清十郎にも使った遅刻によって相手を苛立たせる戦法を取ったのだ。

武蔵の乗った小舟が浜辺に近づくと、しびれを切らした小次郎は武蔵に向かって駆け寄る。武蔵は木刀の長さを隠すために木刀を海につけながら一気に打ちかかる。

小次郎の長太刀は武蔵の鉢巻きを切り裂くが、武蔵の木刀は小次郎の頭を強打して小次郎はその場に倒れる。

武蔵が近づくと小次郎の刀が横に払われて武蔵の着衣の裾を切るが、それをかわした武蔵はとどめを刺して小舟に乗ってその場から立ち去った。

巌流島の決闘には様々な説があり、小次郎はその時70歳を過ぎたおじいちゃんだったという説や、小次郎を一撃で倒したという説もある。

兵法指南

巌流島の決闘で天下一の剣豪となった武蔵であったが、大名家からの正式な剣術指南役としての声が何故かかからなかった。

大阪の陣では、戦国一の猛将で鬼日向の異名で知られる水野勝成の客将として徳川方に参陣して活躍し、水野勝成は大坂の陣で戦功第二とされた。

寛永元年(1624年)武蔵は御三家筆頭の尾張徳川家からの誘いを受け、藩主・徳川義直の前で腕前を披露する。

しかし、余りの強さに義直は「我が藩の家臣たちではとても真似は出来ない」と断ってしまう。

その代わりに弟子が尾張藩内に円明流を伝えることを許される。

寛永3年(1626年)播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を養子にして明石藩主・小笠原忠真に仕えさせる。

寛永15年(1638年)50歳を超えた武蔵は島原の乱に出陣するが、敵の投石で負傷している。

五輪書

寛永17年(1640年)熊本藩主・細川忠利から、破格の待遇の客分として招かれて熊本に住むことになる。

細川藩で剣術の指南をしながら書画・水墨画・工芸などの作品を残している。

※芦雁図 宮本武蔵作

武蔵の代表作「枯木鳴鵙図」を始め、作品4点が現在も国の重要文化財に指定されている。

寛永20年(1643年)熊本市郊外の金峰山にある岩戸・霊巌洞で武蔵は兵法書「五輪書」の執筆を始める。

五輪書は「地・水・火・風・空」の五巻からなっている。

地の巻には、自らの剣術を二天一流と名付けて武蔵の生涯や兵法のあらましが書かれている。
水の巻には、二天一流での心の持ち方・太刀の持ち方・構え・剣術について書かれている。
火の巻には、戦いに臨む心構えなどが書かれている。
風の巻には、昔や今の流派の違いと他の流派の弱点などが書かれている。
空の巻には、兵法の本質について書かれている。

特筆すべき点として、風の巻には他流派の弱点や批判的なことが書かれており、武蔵の二天一流がいかに優れているかが説かれている。

武蔵の剣術の奥義が書かれている五輪書は、弟子の寺尾勝信と弟・信行を中心に伝えられ、熊本藩・福岡藩に伝わっていく。

こうして武蔵の二刀流は「二天一流」という流派になって現在もその教えは伝わっている。

正保2年(1645年)5月19日、武蔵は熊本の千葉城の屋敷で亡くなった。

武蔵の夢

日本一の剣豪となって大名家からの剣術指南役になることを夢見た宮本武蔵だったが、関ヶ原の戦いが終わり平和な時代になったことと、余りに強くなり過ぎたことにより、なかなか仕官されなかった。

武蔵の夢は養子の宮本伊織が明石藩に仕官して叶えることになる。

武蔵は風呂が嫌いで、その理由は常に命を狙われていることを自覚していたために、無防備な状況を嫌ったとされる。

父・新免無二と同じ「天下一の兵法者」になったが、その半生はまさに壮絶そのものであった。

晩年に優れた水墨画や書画を残すことが出来たのは、戦うことが無くなって優しくなったからだろうと思われる。

 

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