オカルト

ラスプーチンの怪奇な能力について調べてみた【ロシアの怪僧】

ラスプーチン
※Grigori Rasputin (1864-1916)

「わしはサンクト・ペテルグでこの手紙を書き残す(中略)わしが普通の暗殺者に殺された場合、ロシア皇帝よ、何も恐れるものはなく玉座につき統治し、お子様達も心配にはおよばない。(中略)わしに死をもたらしたのが、あなたの親近者であるならご家族の誰一人として2年以上生きる者はいないだろう」

これはラスプーチン暗殺、一年前に自ら予言して家族に書かれた手紙の一説である。そして自分の破滅がロマノフ朝の没落を意味するだろうと、予言したのである。

彼は「破戒僧・好色家」であり、自虐的な世をすねた強烈な人格の持ち主だった。
ラスプーチンはどんな怪奇な力を持っていたのか?

放浪者から、みだらな「巡礼(スタレーツ)」へ。

1860年代後半、シベリア、トポリスク近くのポクロフスコエ・・

ツンドラに囲まれた平坦な湿地地帯に「グレゴリー・ラスプーチン」は生まれたと推測される。
父親は裕福な農民であり御者であった。

ラスプーチンの幼児期で有名な話が「馬泥棒」に関するものである。貧しい農民の家から一頭馬が姿を消した件で村長であるラスプーチンの家に村人が集まり、相談をしていた。この時熱病に侵され横になっていたラスプーチンはがばっと起き出し「こいつが盗んだ!」と裕福な農夫を指をさした。怪しんだ農夫がつけていくと、馬を離している姿を見た。

一種の「透視能力」である。幼児期から彼は「透視能力」を身につけていた。またよく娘のマリアにこんな事も言っていた。

「誰が遠くで盗みを働き、盗んだ物を隠していたとしても、わしには、いつもその盗品を目にする事が出来る」

と。他の能力はどうやって身につけたのか年代順に調べてみた。

ラスプーチンの家族は父・母・兄・姉・ラスプーチンの5人家族である。
12歳くらいの時、母を亡くし、兄がおぼれ死に、姉も亡くなった。父と二人きりの生活になり、トボリスクの請負業者のもとで御者やシベリア全土を渡り、荷物や乗客を運んだりしていた。

16歳、100マイル離れたヴェルトホトゥーリエの僧侶(サボレフスキー)と出合い、昔から「聖人・殉教者の話」に興奮するものがあったラスプーチンはそこの僧院に数ヶ月滞在した。そこでマカーリイという老隠者に合う。「催眠術」はこのマカーリイから学んだようである。

1880年頃、19歳ラスプーチンはポクロフスコ近くの修道院に参加、そこで会った女性と結婚する。とはいえラスプーチンの「性欲と酒好き」は変わらなかった。

1880年末、20歳で息子が産まれるが6ヶ月で死亡。ベルトホトゥーリエの老隠者に再び会いに行く。村では「神を求める者」と評判になりラスプーチンの話を聞きにくる者が多くなった。

1881年、「聖母マリアが何かを伝えようとしていた、天のお告げだ」と信じこみ、マカーリイに会い「神が大いなる仕事の為に選びたもうた。アトス山の修道院に行き聖母に祈りを捧げよ」と言われた。

そしてギリシャを目指す巡業の旅に出るのである。そこで聖地を訪れる。(この辺りの記述はない)計10000マイル以上の徒歩の旅をしたのである。その後、ラスプーチン畑仕事をろくにせず、中庭に礼拝堂を建て毎日祈っていた。彼の「透視能力・催眠能力」が増して強くなったのである。

30歳、ラスプーチンは「長老(スターレツ)」になる。

だがラスプーチンの中の「」は「ゾロアスター教」に近いものであった。元々「アウトサイダー」(社会常識の枠にはまらない独自の思想の持主)であるラスプーチンが「禁欲」などできるはずがなく、たき火の周りを讃美歌を歌いながら派手に踊りまくり、酒をくらいながら、信者達とまぐわいあう・・

聖人か悪魔か」その両方を上手く使い分ける2面性を備えた男。そして彼は1903年ロシア史の流れに身を投じる事になるのである。

ニコライ2世と皇后アレクサンドラ

不幸な事件が起きる1894年、ニコライ2世の戴冠式はモスクワのウスペンスキー聖堂で行われていた、祝賀会場で大勢の群衆が記念品欲しさに殺到し踏み倒され修羅場と化し1389人が圧死した。宮中の役人が「戴冠式を続行すべきか」聞くと、ニコライは何気なく手を振り続行させた。

式が終わりその惨事を聞かされ、ニコライは震えあがり僧院に引きこもり、祈りを捧げようとするが、結局その後の舞踏会に出席をするという、優柔不断な気の小さい男であり、夢の中で生きている様な男であった。

彼が選んだ女性はドイツヘッセン大公の娘(母はイギリスヴィクトリア女王の次女)改名アレクサンドラだった。社交的ではなく、ややノイローゼ気味でヒステリーを起す事もあった。ニコライも皇后も、家族以外に深い感情を持つ事ができない人間だったのである。

皇帝夫妻は結婚して翌年から1年おきに子供が産まれるが、オリガ・タチアナ・マリア・アナスタシアの4人、全員女の子で10年間、後継者に恵まれなかったのである。

皇室には、怪しげな魔術師や占い師が呼び寄せられ、毎日のごとく陰湿な雰囲気が漂い始めた、しかしどれも皇后をヒステリックにさせる結果となる。

1903年ペテルブルグ建都200年記念行事を終え、サーロフ修道院に巡礼に出かけた。

そこで「長く待ち望んでいるロシア皇帝の後継者の誕生は、1年とかからないだろう」公言した「長老(スターレツ)」こそ、グレゴリー・ラスプーチンであった。予言は的中し、1904年8月12日皇太子アレクセイが誕生した。

ラスプーチン の霊的な治癒能力と予言能力

皇太子アレクセイ誕生して間もなく「血友病」と判明、ごく身近の人間だけの秘密となる。
ラスプーチンは1907年にアレクセイに霊的な治癒を試みている

皇太子は青白い顏をして、苦痛に苛まれ横になっていた。ラスプーチンは少年のベッド傍らでひざまつき祈り始めた。ほぼ10分くらいしてラスプーチンは立上がり
さぁ、お前の両目を開くのだ。私の息子よ

そしてアレクセイはラスプーチンを見て微笑んだ。

皇太子は血友病で死ぬことはない

とラスプーチンは予言もした。

1912年突然ラスプーチンがよろめき自分の心臓をつかんだ「これは皇太子からきたものなのだ。アレクセイが発作に襲われた」という。

アレクセイはポーランドにいて、大きな腫瘍がそけい部にできて腫れあがり激痛に苦しんでいた。皇室一家は狂乱した。皇后アレクサンドラは密かにラスプーチンに電報をうった。
それを受け取ったラスプーチンは黙って席をたち祈り始めた。ひざまついていた彼が立ち上がった時、顏は灰色で汗がびっしょりだった。急ぎ郵便局へ行き「見かけほど危険ではない、心配無用」と皇后に電報を送った。

巡礼中もラスプーチンは「病、死に瀕した農民」に出会う事もあった。ベッドの片隅で膝まづき異常なまでの集中力で、疲労の為、冷や汗をかいた。
聖人・キリスト」と言う声も聞かれる中、ラスプーチン自身の宗教的理論は違った。
すなわち人間は誰もがキリストであり、お互いに愛し合わねばならない。神が男性、肉体的欲望その他のものをつくられた。この欲望を満たす事がどうして罪を認められようか」いわゆる「性的欲望」を正当化した「異端的・オカルト的」理論である。

1907 皇太子重症状態、ベッドに膝まずき祈り

「今安らかに眠っておられる」

1911年9月 首相ストルイピン暗殺について、馬車を見て

「死神がうしろにいる。死神が追いかけている」

劇場でストルイピンが銃で暗殺される。

191112 性的な放蕩についてゲルモゲン主教に問われ破門される。
1912 首相ココツェフから追放される

「シベリアの食料難に注意せよ」警告

ニコライ2世はこの食料問題のために帝政をおりた。

1912 皇太子重体。2千マイル遠方から祈り

「見かけほど危険ではない、心配無用」皇室へ皇太子を見舞う。

1912 自分の暗殺を予言する。
191512 皇太子12歳鼻血が止まらない

13回目の誕生日を迎えてから徐々に良くなっていく」

 

聖人からロシアでもっとも嫌われる男へ

●1914年第一次世界大戦ロシア参戦、皇后とラスプーチン政治介入。

第一次世界大戦は5ヶ月で400万の死者をだした。一方国内ではユダヤ人達がポーランドを追われ数千万凍死。「帝政ロシア」の崩壊の足音が響き渡るのである。
前線にでるニコライ2世の留守に、皇后とラスプーチンは「帝政ロシア」を永遠のものにする為(皇太子アレクセイやラスプーチン自身の為)国会の重要ポストを次々を罷免していく。「強欲だから、ラスプーチンを嫌っているから」とどれもとるに足らない理由によるものである。

1914年
:首相ココフシェフ→罷免
:ニコライ大公→罷免
:警察長官ジェンコフスキー罷免
1916年
:首相ゴムレイキン→罷免
:陸軍大臣→ポリヴォーク罷免
:法務大臣→老ホヴォストフ罷免

これは知れ渡るだけの罷免者のリストである。

一方、ラスプーチンはあるレストランであまりにも無礼な行動に対し「ここから出ていけ」と言われると「私は地位のあるラスプーチンである」と言いつつ、ズボンをおろしペニスを拭りまわしたという。この行為は、皇室一家の前でもあったという。

性的放蕩をおさえず「狂気の修道士」であった。陰湿かつ腐敗しきった「オカルト」をこよなく信じていたロシア貴族の女達には「奇跡を行う異質な修道士」に抱かれたいという欲望があり、彼のアパートに足しげく通い、贈り物をするという日々が続いたのである。


※ラスプーチンと信者の女性たち(1914年)

またこの頃の皇后の神経はボロボロになり、公衆の面前にも姿を現さなくなった。心臓も弱り車椅子を使用する事も多かった。宮中では母国イギリス語で話す事が多くなる。皇女達は「イギリス語」の本を離せない状態にもなった。

皇后は「わたくし達の周りは敵だらけです」とノイローゼとヒステリー症状もかなり酷かった。
戦場にいる夫(ニコライ)には「私達の友人の言う事に耳を傾けて下さい。彼を信用しなさい。彼が深刻な話をする時彼の発言には大きな意味が含まれているのです。貴方とロシアは一つです
何十通も電報を打ち続けるのである。

政会は無きに等しい状態で戦地での武器調達、銃の補充さえとどこおる。食料は遠い戦地には行き届かない状態で、兵士達は無残にも死んでいく、ロシアの敗北は目前だった。

そんな状況下でありながらラスプーチンは皇后の名を出してはペニスを市民の前で見せびらかし、酒浸り、性的放蕩、ジブシーを踊りまくる。

そして罷免された者・貴族達・反帝政を訴える者達は、皇帝・皇后を非難せず「バッテリー(ラスプーチン)を外せばいい」という結論に達していくのである。

かつて「聖人」と言われ敬われた男は「ロシアでもっとも嫌われ疎まれる存在」になっていったのである。

ラスプーチン暗殺と帝政ロシアの終焉

●男色家・女装癖・暗殺者 ユスポフ公登場

当時のロシアでは「破戒僧・好色家=ラスプーチン」ということを誰も否定はしない。
彼の登場が後1世紀遅かったなら「テレパシー・透視・予言」とし、心理現象の一任者として有名になれただろう。暗殺者達は一歩・一歩ラスプーチンに近づいていった。

1887年フェリックス・ユスポフ公爵は、ロシアの最も裕福な家で産まれた。
幼い頃から「女装癖・恥変趣味・男色家」傾向を持っていた。彼の持つ別荘の一つの地下室には湿気をおびた壁にボルトでとめられた何本もの鎖に一列となって骸骨が飾られていたらしい。彼は留学をしていて世界大戦と結婚の為にロシアに帰ってきた。

こんな一説もある。
ユスポフ公は裸でラスプーチンに肉体関係をせまるが、強く拒否された」と。

その後1916年11月の国会における「帝政ロシアに対する弾劾演説」「皇后を通じて悪影響を及ぼすラスプーチンの存在」、この2つがユスポフがラスプーチンの暗殺を決意したきっかけである。

戦地では「食料の不足・武器の不足・統率力の欠如」により、兵士達は餓死、もしくは凍死寸前の状態であった。なかには逃走したり、狂気化し徒党を組み村人を襲い盗みを働く者まで出る最悪な地獄の有様だった。

●予言的中「1916年12月16日」ラスプーチン暗殺。

ヴィミトリー大公(男色家)、国会議員プリシュヴェッチユスポフ公・3人による「暗殺計画」は実行に移された。

ユスポフから電話があり「イリーナ(妻)に合わせる」という。美人で有名だった「イリーナ」の魅力にひかれ、ラスプーチンはユスポフ屋敷を訪れ、地下室へと案内される。そこには

青酸カリ入りのワインとチョコレートケーキ・青酸カリを塗ったいくつかのワイングラス」が準備してあった。

イリーナはまだか」とラスプーチン。恐怖を隠しながら「青酸カリ入りワイン」を進めるユスポフ。

ラスプーチンはなかなか口にしない。毒の塗っていないグラスで自分も飲みラスプーチンの警戒をとき、ラスプーチンは塗ってあるのを知らず口にする。数杯飲んでも、死なないラスプーチンに恐怖を覚え、ユスポフは「妻を見てくる」と急いで離れる。

ヴィミトリーやプリシュベッチの元へ行き、恐怖にかられながら「ヤツは死なない!確かに毒入りのワインを飲んだんだ!!」と半狂乱状態、2人はユスポフの背中を押し「死んでるはず、みてこい」という。

仕方なく地下室へ戻ると「喉が焼けるようだ」と毒塗りのワインを何杯も飲むラスプーチンだが、突然もだえ突然倒れた。

ヴィミトリー、プリシュヴィッチ、ユスポフ3人は医師を呼びを確認しようとする。

すると突然ラスプーチンは目を開け、ユスポフの足をつかみ倒し首を絞めた。ラスプーチンはユスポフの胸の腕章を掴む。絞められた手を振りほどき、逃げまとうユスポフ。

ラスプーチンは、口から泡をだし血を流しながら真っ青の顏をし中庭の門を開け逃げようとする。ヴィミトリーは銃でラスプーチンの背中を撃った。プリシュヴィッチは倒れたラスプーチンの姿をみて、頭を思いっきり蹴り上げた、大きく赤い傷口が開いた。

ラスプーチンの死体は両手をロープで縛りあげられ、ネヴァ川に氷を割りそこから投げ込まれた。しかしそれでも彼は生きていた。その後なんとか片手をロープから解放し、十字をきりそこで息絶えた・・

ラスプーチンの死」については、ペトログラード全体が歓喜に包まれたが、農民達の間では堕落した貴族達や汚職にまみれた政治家の手で殺されたことは激しい怒りを抱かせた。

皇后は泣き出した。建築された「ツァールスコエ・セロー」の教会の礎石の下に皇室一家に見守られ埋葬されたのだった。しかしこの地に彼は永眠できなかった。


※1917年、トボリスクに監禁されたニコライ2世とアレクセイ

1917年ロシア二月革命によりニコライ2世一家は退位させられ監禁されたのである。
そして彼の墓は掘り起こされ、とある森深くで焼かれ灰にされた。

死ぬ数週間前にラスプーチンはこういった。

「愚か者達には、私が誰だか判らない。魔術師だってもしかしたらそうかもしれない。彼らは多くの魔術師達を焼き殺してきた、だから私を焼き殺そうとするのだ。もし彼らが、私を焼き殺せばロシアは終わりだ。彼らは我々を一緒に埋葬する事になる」

1918年ロマノフ朝最後の皇帝一家7人(ニコライ2世、アレクサンドラ元皇后オリガ元皇女タチアナ元皇女マリア元皇女アナスタシア元皇女アレクセイ元皇太子)はエカテリンブルグにて銃殺された。

 

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