幕末明治

新選組副長としての土方歳三を調べてみた

優秀な組織には優秀な補佐役が存在する。

織田信長に明智光秀、上杉景勝に直江兼続、徳川家康に本多正信。

そして、新撰組局長・近藤勇にはこの男、土方歳三 がいた。

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新撰組の名を天下に

土方歳三

土方歳三(ひじかたとしぞう/天保6年5月5日(1835年5月31日)-明治2年5月11日(1869年6月20日))は、武蔵国多摩地区の農家で生まれた。後の戦友になる近藤勇も多摩地方の農家の出身だが、この時代の多摩は幕府直轄の天領だったため、多摩の農民は「徳川家の農民」という誇りを持っていた。

少年期の歳三は、村では顔に似合わず「バラガキ」(触ると痛いイバラのような乱暴な少年)と呼ばれた。また、生家には、歳三が少年の頃に「武士になりたい。武士になったらこの竹で矢を作る」と言って植えたという竹がある。

そんな気性の土方は、天然理心流に入門して江戸の試衛館に出入りするようになったが、その道場に指導に来ていた近藤と出会い、安政6年(1859年)3月29日、天然理心流に正式入門している。近藤は土方の才能に惚れ、土方も近藤の人柄に惚れたのだろう。なお、この道場には門弟として沖田総司、井上源三郎、山南敬助、食客として永倉新八、原田左之助、藤堂平助、斎藤一(不明な点もある)といった、やがて新撰組の中核を担う面子が名を連ねていた。

文久元年(1861年)、近藤が天然理心流4代目を継承。記念に紅白の野試合が催され、歳三は紅組の大将を守る役で出場した。

剣術の腕を磨く土方と近藤には「武士になる」という夢があったが、身分制度も大きな壁となり、武士としての将来など夢でしかない。しかも、200年以上続いた泰平の時代だった。もし、時代の流れが5年も早ければ彼らの活躍の場はなく、土方も近藤もその名が世に知られることはなかっただろう。だが、時代は彼らを必要としていた。

京の都では尊皇攘夷を掲げる浪士があふれ、幕府はこれを監視、捜索、制圧すべく「壬生浪士組」を結成。土方と近藤もここに名を連ねることとなる。

文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変後、壬生浪士組の活躍が認められ新選組が発足。その後、隊内の粛清により権力を握った近藤が局長となった。歳三は副長の地位に就き、近藤の右腕として京都の治安維持にあたった。

新選組は副長助勤、監察など職務ごとに系統的な組織作りがなされ、頂点は局長であるが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされている。


※高幡不動にある銅像。胴の左三つ巴は土方家の家紋である。

これで、武士としても組織としても幕府に認められる可能性が出てきた。その過程で土方は、新見錦を切腹させ、芹沢鴨などを自らの手で暗殺するなど、自らの手を汚すことも厭わない一面を見せる。これ以降は近藤を大将として、土方は現場で指揮をとるようになった。

そして、元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件の際は、斎藤一も所属する半隊を率いて、応援に駆けつけた。池田屋内ではすでに戦いが始まっていたが、直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組の事を考えての行動で、歳三らしい冷静な機転である。組織として、確実に手柄を得るための判断だった。

これにより、新撰組はついにその名を世に轟かせることになる。

新撰組副長としての 土方歳三

新撰組は集団戦法を得意としていたが、剣術の流派は様々で下級隊士ともなれば烏合の衆であった。それを取りまとめるのも土方の役目であった。

1865年(慶応元年)に撃剣、柔術、文学、砲術、馬術、槍術の各師範を設けた。
特に剣術の稽古は厳しく、新選組が駐屯していた八木邸の八木為三郎は、打ち倒されて動けなくなっている者をよく見たという。また、近藤勇や芹沢鴨は高いところに座って見ていることが多かったが、土方歳三はいつも胴を着けて汗を流しながら「軽い軽い」などと叱っていたという。

土方自身は、天然理心流道場では中極意目録までの記録しか現存していない。中極意目録とは天然理心流の技量に応じて与えられる段位のようなものだが、7段中の3段に相当する。しかし、実戦では滅法強く、斬り合いの時も足下の砂を相手にぶつけてひるんだ隙に斬り伏せたり首を絞めて絞殺したり等、剣術修行の型にとらわれず縦横無尽に戦闘をしていたという。

これは「無敵の剣」と呼ばれた斎藤一も同じだが、当時の武士が型にこだわり流儀に則った剣を使うのに対し、土方や斎藤は実戦での体験を元に「どのような手段を使ってでも勝つ」という、当時としては常識破りな戦術を身につけていたからだ。もちろん、永倉、沖田、近藤も同様である。

さらに、厳格な隊規を定めて、隊士の統率を図った。俗に「局中法度」と呼ばれる隊規である。

法として機能し始めたのは「新選組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の暗殺の際にも適用されたといわれる。第一条「士道ニ背キ間敷事(武士道に恥じる行為をしてはならない)」等のように、内容は抽象的で、解釈は局長や副長の一存に委ねられるものであった。隊規は厳格に運用され、違反した組員は粛清(もしくは切腹)された。


※伊東甲子太郎肖像画

同時代史料にはこれを全て記録した物は現在までのところ発見されておらず、「局中法度」の他にも隊規は存在していたと推測されている。

世の常だが、歴史上の人物は「善悪」両極の評価をされる。

局長の近藤も然りだ。


※近藤勇(写真)

新撰組では2番隊の組長を務めた永倉新八には「蛮骨(気風や人柄が粗野なこと)をもって鳴らしただけ、おうおうにしてわがままの挙動」とまでいわれているが、一方で村の住人には「非常に愛嬌があり、村の百姓たちにも、いつもにニコニコ笑っていた」と評されている。
武士には厳しく、農民などには穏やかに接していたようだ。この両面を使い分けるのが近藤であり、厳しさを持って接していたのが土方といえよう。

最後に

新撰組副長としての土方は、近藤との役割分担がしっかりとできていた。
近藤は時には豪胆に、時には大らかな態度で精神面から隊をまとめる一方、土方は実戦に赴き、隊規を徹底させ、行動により隊をまとめた。
もし、これが逆であれば新撰組の強さは発揮できなかったであろう。土方はNo.2であることで実力を発揮できる男だったのだ。

参考記事:新撰組
新撰組の強さについて調べてみた
新撰組・斎藤一について調べてみた

 

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