幕末明治

幕末の騒乱の舞台となった京都について調べてみた

NHK大河ドラマ「西郷どん」の舞台となった幕末。しかし、幕末の動乱がもっとも顕著になったのが京都である。

戦国時代以来、歴史の表舞台に躍り出た京都。そこは、国家の一大事に奔走する男たちの熱き志が疾風怒涛の如く交錯する地となった。

幕末・京都は歴史の表舞台へ

幕末の騒乱の舞台となった京都について調べてみた

京都は長らく政治の表舞台から遠ざけられていた。それは、江戸で政権を握っていた徳川幕府による統制が見事なまでに機能していた証だと見ることができる。黒船が来航し、幕府が屋台骨ごと揺さぶられるという事件が起こるまでは、文化や産業の面でも停滞していた。

それでも京都市民のあいだでは、天子様がおわす場所=御所の存在は大きな誇りとなっていて、黒船が来航した直後も市民の多くは過剰に反応することはなかった。どちらかといえば、対岸の火事程度の認識でいたのかもしれない。天皇や公家たちも市民たちと大差のない認識でいたと思われる。

ところが、事態は安政5年(1858)年6月、幕府が日米修好通商条約を結んだことで一変した。その年は7月にオランダ、ロシア、イギリス、9月にはフランスとも同様の条約を締結している。以降、海外との貿易が自由に行われるようになり、それまでこじんまりとまとまっていた国内の経済活動が、いきなり国際社会の荒波に呑み込まれた。

志士の不満と市民の不安

当時、日本の主要輸出品目であった生糸が海外からの買い付けが増加したおかげで価格が高騰し、他の諸物価も高騰し始めたことによって、京都市民の心を不安に陥れる。

さらには、この通商条約が天皇からの勅許をもらわず、幕府の独断で締結したことも京都の情勢を大きく変化させる要因となった。つまり、勅許問題で幕府が天皇をないがしろにしたと見る諸藩の志士たちが、大挙して上洛してきたのである。勿論、幕府も対抗して多くの人が上洛。こうして二百数十年ぶりに、政治都市・京都が蘇ったのである。

黒船来航という外圧から始まった混乱は、諸国の有力大名が朝廷に接近する現象を生んだ。それは朝廷に接近することで、政治の主導権を手にしようという思惑があったからだ。やがてそれが、尊王攘夷派佐幕派による血生臭い抗争へと発展する。

京の町が血で染まる


【※井伊直弼】

特に尊王攘夷派から大きな恨みを買っていたのが、大老の井伊直弼であった。井伊が断行した通商条約の締結とそれに続く「安政の大獄」が様々な不満を生んでいたのだ。

それが、安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変での井伊直弼暗殺へとつながってゆく。

幕閣最高の権力者が暗殺されたことは京都の治安にも大きな影響を与えた。こうした危機を乗り切るために幕府は孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)内親皇を徳川家茂の御台所として迎える公武合体策を打ち出す。だが、過激な尊王攘夷派はそれすら幕府の横暴だと見なしていた。

文久年間(1861~64年)になると、京都の町では天誅を振りかざすテロが横行し、武士は言うに及ばず、公家から商人、目明かし(岡っ引)、百姓にいたるまで、まさに無差別に狙われるようになる。その勢いで尊王攘夷が一時的に京都で優位を占めていたが、文久3年(1863年)、約230年も絶えていた徳川将軍の上洛が行われることとなった。これに伴い、江戸で募集された浪士組の一部が新たな治安維持部隊といえる「新撰組」を結成。これにより、テロも鎮静化に向かうようになる。

幕末における京都という町


【※新撰組の旗】

さらに公武合体派の猛烈な巻き返しにより、8月18日に攘夷派の公家と長州藩が京都から排除されるという、いわゆる「八・一八の政変」が起こった。

これによって、攘夷派勢力は京都から駆逐されたかに思えた。

しかし、翌元治元年(1865年)になると、巻き返しを図る攘夷派が京都に再び集結し「御所に火を放ち、天皇を長州へ連れ去る」という恐るべき計画を立てていた。その準備のために暗躍していた古高俊太郎を捕らえた新撰組により、攘夷志士が潜む池田屋が襲撃され、多くの志士が殺されたり、捕らえられることになる。この池田屋事件に激昂した長州藩は武装した3000の兵を送り、御所を攻撃している。
このように幕末では幕府がおかれた江戸ではなく、京都が政治の中心となっていたと言っても過言でもない。この状況は鳥羽伏見の戦いまで続くことになり、京都の町は歴史のターニングポイントとして欠かせない舞台となった。

今も残る幕末の面影


【※薩摩藩邸跡石碑】

現代の京都は幕末以降には大きな戦災などに遭遇していないため、今でも古地図を片手に寺社仏閣巡りができるほどだ。そのなかには幕末ゆかりの場所も多い。

清水寺の境内にあるにある「成就院」は、尊皇派の僧・月照が住職を務めていた寺であり、安政元年(1854年)に国事に身を捧げると決めた月照が住職の座を弟に譲った。その後、月照は西郷と深い信頼で結ばれることになる。

その他、文久2年(1862年)、薩摩藩の島津久光が朝廷の勅使を伴い、幕府に改革を迫るために上洛した際、町の北にある「相国寺」の土地を借用して設けた藩邸跡など、今は建物が残っていないが注目すべきスポットは数多くあるのだ。

最後に

京都の動乱期は西郷が過激志士たちの暴挙に同調しなかったために遠島されていた時期にかぶる。

西郷の力を必要とした大久保利通らが西郷の召還を求め、再び表舞台に復帰したのは、池田屋事件が起きた元治元年(1864年)のことであった。

その後の西郷は第一次長州征伐の対応を迫られることになる。

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