大正&昭和

天竜川の救世主・金原明善って知ってる? 幕末から大正まで大活躍の生涯を調べてみた

信州の諏訪湖を水源に、愛知県・静岡県を経て遠州灘へと流れだす天竜川。名前の由来は速い水流が天に昇る竜のようだから、あるいは諏訪湖の竜神様に由来するなど諸説あるようです。

200キロ以上にも及ぶ大迫力の流れは、古来しばしば氾濫し、文字通り竜のごとく暴れ狂っては人々を苦しめました。

金原明善。画像:Wikipedia

金原明善(きんぱら/きんばら めいぜん)もそんな天竜川流域に生まれ育ち、みんなのために治水事業を志したのです。

今回はそんな金原明善の生涯をたどってみましょう。

金原明善の生い立ち、19歳のトラウマ

金原明善は江戸時代末期の天保3年(1832年)6月7日、遠江国長上郡安間村(静岡県浜松市)に住む大名主・金原範忠(のりただ)と志賀(シカ)の長男として誕生しました。

幼名は弥一郎(やいちろう)、勤勉で多角経営の才能を持った父(酒造りと質屋を兼業)の資質を受け継いでいたようです。

嘉永元年(1848年)、才覚を買われた父が領主・松平家の代官に取り立てられます。ますます家業が忙しくなる中、17歳の明善も父の背中を追い駆けていたことでしょう。

しかし前途洋々に思われた翌嘉永2年(1849年)、母が37歳の若さで亡くなってしまいました。

「お前……」「母上……」

「あなたたちを遺して逝くのが心残りでなりません。どうか、従姉妹の沢とご再婚ください……」

こうして母の遺言により、父は渡辺沢(わたなべ サワ)と再婚。沢は一人娘の玉城(タマキ)を連れており、やがて24歳になった明善と結婚することになります(当時は血縁のない、連れ子同士の結婚は合法だったのですね)。

そんな中、嘉永3年(1850年)に天竜川の大洪水が発生。堤防が決壊し、故郷の安間村があっという間に水没してしまいました。

「何ということだ。我らの暮らしが、何もかも呑み込まれてしまった……」

以後、慶応4年(1868年。明治元年)までの間に5回も大規模洪水を記録する天竜川。この時のトラウマが、明善の人生を方向づけたと言えるでしょう。

新政府に天竜川の治水を訴える

たびたび増水する天竜川(イメージ)

時は流れて安政4年(1857年)、父から名主を引き継いでいた26歳の明善は、江戸へ行くこととなりました。

何でも主君の松平家が多額の債務に苦しんでおり、その財政再建策を協議するためだそうです。

「我ら武士ではなかろうと、主君から受けた御恩に報いるのは人の道。喜んで参りましょう!」

張り切って江戸へ出て来た明善は、同僚の代官たちが多く酒色にふける中、わき目もふらず債務整理や勉学に励みました。

「国許で妻やみんなが苦しい生活をしているのに、平和な江戸で遊び惚けてなどおれるものか!」

恐らく周囲からは浮いていたのでしょうが、ともあれ精励の甲斐あって松平家の債務は少しずつ解消されていったようです。

やがて慶応4年(1868年)5月19日、天竜川が大氾濫を起こして堤防が決壊。遠州平野一帯が水浸しになってしまいました。

「何ということだ……!」

当時、江戸幕府は新政府軍と交戦中。37歳となっていた明善は急ぎ上洛して、民生局へ天竜川の災害復旧と治水事業を訴えます。

しかし新政府も「それどころではない」と聞き入れてくれません。戦時中なので仕方ない面もありますね。

明善が諦めかけたその時、8月になって工事の許可が下りたのです。どういう風の吹き回しかと思ったら、明治天皇(めいじてんのう。第122代)が江戸へ行幸されるため、街道の整備が必要になったのでした。

どんな理由であろうと、これで天竜川の堤防が直せる。明善は喜び勇んで工事担当を買って出ます。持ち前の手腕を発揮し、10月にはみごと工事を完了させます。

スピード工事の秘訣は綿密な段取りに加え、労務費を即日現金払いにして、人夫らのやる気を引き出させたのも大きいでしょう。

それは同時に生活に困窮する被災者支援にもつながりました。この功績により、明善は苗字帯刀を許されたのです。

近代日本「治水の父」として活躍するも……

後に静岡藩へ仕えた明善は順調に昇進、藩内の治水事業を一手に任されるようになりました。

やがて明治7年(1874年)に天竜川通堤防会社を設立。西欧列強からの技術を導入し、天竜川をモデルケースとして近代的な治水事業を推し進めます。

一、西洋式の測量機器を導入して天竜川を全域測量

一、鹿島村から諏訪湖まで、高低差を測量

一、天竜川の河口から二俣村までの測量

一、駒場村をはじめ21地点に測量標を建設

一、水利学校を開設し、関係者・技術者に治水・利水教育を実施

明治10年(1877年)には内務卿・大久保利通(おおくぼ としみち)と謁見。一介の農民に過ぎなかった明善でしたが、永年ひたむきに天下公益を追求する噂は、かねて耳にしていたそうです。

至誠通天(しせいつうてん。まことの心は天に通じる)とはまさにこの事。より一層の精進と奉公を肝に銘じたことでしょう。

しかし、明善のどこまでもまっすぐで理想主義的な姿は往々にして反感を招いたと言います。

天竜川流域の住民たちが利害を争いはじめて事業は難航。ついに明治16年(1883年)天竜川通堤防会社は幕を下ろしたのでした。

明善の言っていることはもっともだけど、やはり目先の生活が苦しい中で、公益ばかり考えてもいられません。

かくして明善は挫折を味わうことになるのですが、その事業計画は後に全国のモデルケースとなり、治水事業の発展という形でその志は受け継がれていきました。

エピローグ

豊かな山の手入れ(治山)こそ、治水の原点(イメージ)

他にも明善は治山事業として植林を行い(山の保水力が高まれば、河川へ流入する水量も制御できる)、伐りだした材木の運び出しや水害緩和を目的とした疏水事業に着手。

また監獄から出所した者に対する保護・更生事業(現代の保護司制度の先がけ)や北海道開拓事業など、実に多方面に才能を発揮しました。

そして大正12年(1923年)1月14日、明善は満92歳で世を去ったのです。

一、実を先にし名を後にす(名誉よりも公益を優先せよ)

一、行を先にし言を後にす(能書きよりも行動を優先せよ)

一、事業を重んじ身を軽んず(保身に走らず公益を優先せよ)

※金原明善の信条

自身の辛く苦しい経験をキッカケとして、生涯天下の公益を追求し続けた金原明善。その生き方は没後100年の歳月を越えてなお人々を魅了し続けます。

「かつて、こんなまっすぐ生きた日本人がいた。私たちもその誇りに恥じぬよう、少しでも人の役に立てる生き方を目指したい」

そんな日本人が一人でも増えれば、日本は今よりもっとよくなっていくのではないでしょうか。

※参考:

角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

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