名だたる大名たちが群雄割拠していた戦国時代。
かつて栄華を極めた公卿らは荘園制の崩壊により経済的に困窮し、応仁の乱以降は相次ぐ戦乱に巻き込まれることを避けるため、その多くが荒廃した京都を離れ、地方に下向、疎開していた。
土佐一条氏は、そのような経緯で京都から土佐(現在の高知県)に下向した一条家の庶流(分家)であり、一条兼定(いちじょう かねさだ)は土佐一条氏の第4代当主にして、事実上の最後の当主となった人物だ。

画像:一条兼定 public domain
一条家は近衛家、鷹司家、二条家、九条家に並ぶ五摂家と呼ばれる家柄で、その始祖は鎌倉時代に摂政・関白を担った左大臣・一条実経(さねつね)である。
兼定の曽祖父にあたる一条教房(のりふさ)が、応仁の乱を機に京都を離れ、家領であった幡多荘中村に下向したことを契機にして、教房の次男である房家の代から土佐一条氏は始まった。
世が世なら左うちわで暮らせていたはずの、やんごとなき名家の嫡男として生まれた兼定は、戦国時代でも稀に見るほどに波乱万丈な生涯を送った。
今回は、戦う公卿にして一代で土佐一条を滅ぼした暗君とも噂される、一条兼定の波乱に満ちた生涯に迫っていきたい。
土佐一条氏の嫡男として誕生するも、幼少時に父が急死

画像:中村城二の丸跡に建設された四万十市立郷土資料館 wiki c 京浜にけ
兼定がこの世に生を受けたのは、西暦でいえば1543年のことである。
父は土佐一条氏の第3代当主・一条房基(ふさもと)で、母は豊後の戦国大名であった大友義鑑(よしあき)の娘であった。
父の房基は智勇に優れ、長宗我部国親と本山茂宗の縁組や和睦を仲介しながら、自らも領土を広げ、土佐一条氏の勢力を拡大させた人物である。
勢力拡大に加えて、兼定という嫡男にも恵まれてすべてが順調だったはずが、兼定が数え年7歳の時に房基は突如自害してしまう。
その理由は定かではなく、発狂して自害したとも、何者かに暗殺されたとも伝えられている。
幼い兼定は、父の急死を機に土佐一条の家督を継ぐことになった。
しかし当主として幼過ぎたため、関白を務めた大叔父の一条房通の猶子となり、上洛することとなる。
こうして京で元服した兼定だったが、1556年から1557年の間に京都を離れ、生まれ故郷である土佐に下向した。
これは当主の不在で弱まっていた土佐一条氏の土佐での求心力を、回復する目的があったという。
戦国大名と結び勢力拡大を狙う

画像:大友宗麟像 public domain
土佐に下向した兼定は、当初伊予国(現在の愛媛県)の戦国大名であった宇都宮豊綱の娘を正室に迎えた。
だが6年後には離縁して、代わりに母方の伯父である大友義鎮(大友宗麟)の娘、つまり兼定にとっては従姉妹にあたるジュスタを継室に迎えた。
大友氏と結んだ兼定は、もともと緊張関係にあった宇都宮氏との関係も悪化し、1566年頃からは南予地方の覇権を巡り、伊予の有力者と争うようになっていく。
兼定は公卿ながら兵を率いて戦国大名さながらに戦い、伊予守護の河野氏や、河野氏を支援した伊予西園寺氏、安芸国(現在の広島県西部)の毛利氏らと争った。
1567年には、後に土佐で覇権を握る長宗我部元親が、土佐一条氏の家臣による出兵要請に応じている。
しかし、その年から翌年にかけて行われた毛利氏の伊予出兵で土佐一条氏が受けた被害は大きく、兼定の勢力は減退する。
弱ったところにさらに追い打ちをかけるように、長宗我部氏が土佐一条氏の影響圏から離れ、独自に勢力を伸ばすようになった。
兼定は妹婿であった安芸国虎と組んで長宗我部元親を討とうとしたが、逆に国虎は元親に敗れて自害し、兼定が領していた蓮池城も落とされた。
その後も長宗我部氏に領土を侵食されていき、1571年には土佐一条配下の津野氏も長宗我部氏に降っている。
そしてそれから2年後に、兼定はある重大な事件を起こしてしまう。
自分に諫言した老臣を殺害し、中村御所から追放される

画像:長宗我部元親 public domain
1573年、兼定は自らに仕えていた老臣の、土居宗珊(どい そうざん)を手討ちにした。
兼定が宗珊を殺害した理由については定かではなく、放蕩生活に耽る兼定を憂いて再三諫言した宗珊に怒りを募らせた説や、長宗我部氏の謀略を信じ込んだ説などがある。
しかしどのような理由にしろ、土佐一条氏の主柱であった宗珊を殺害したことによって、家臣たちの心は兼定から離れていった。
土佐一条の家中は混乱し、事態を収拾するために京都の一条本家から当主の一条内基(うちもと)が、織田信長の上京焼き討ちを口実に土佐に下向してくるほどの騒ぎとなる。
そして内基と家臣らの合議の結果、兼定は出家の上、隠居させられることになった。
土佐一条氏の当主の座は、兼定の嫡子が内基の偏諱を受けて元服し、一条内政(うちまさ)として形式上は継ぐこととなる。
しかし、この家督交代には長宗我部元親が絡んでいたともいわれる。
翌年には兼定は居城であった中村御所を追放され、母と妻の故郷である豊後に逃れ、土佐一条の家中は再び混乱に陥った。
その混乱に乗じて元親は内政を大津城に移し、自らの娘と結婚させて傀儡にしたという説もある。
豊後で洗礼を受け、隠遁生活に入った兼定

画像:四万十川古戦場碑 (四万十市渡川の具同公園) wiki c Saigen Jiro
大友氏を頼って豊後に移った兼定は、キリスト教宣教師の説教を聞いて感銘を受け、義父の宗麟や妻ジュスタに先駆けて、1575年に洗礼を受けドン・パウロの名を受けてキリスト教に入信した。
その年の7月には大友氏の支援を受けて再興を図り、伊予南部の諸将を率いて土佐に進撃している。
しかし、一度は中村城と城下町を除く幡多郡を回復したものの、元親との間に起きた四万十川の戦いで大敗してしまう。
何とか生き残った兼定率いる土佐一条氏は、領地を失って宇和海の戸島に逃げ落ち、隠遁生活を送るようになった。
だが隠遁生活を始めてから2年後、長宗我部氏に買収されたとされる家臣に暗殺されかけて重傷を負った。
その後遺症と島暮らしの不自由さに苦しみながらも、キリスト教徒として敬虔な生活を送っていたことが、1581年に兼定を見舞ったイエズス会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの書簡からうかがえる。
そして離れて暮らしていた息子の内政の死から約1月後の1585年の7月、兼定は熱病に倒れて神の御許に旅立った。享年43。
兼定は本当に暗愚だったのか?

画像:中村御所跡に鎮座する一條神社 wiki c Saigen Jiro
名門公卿の家に生まれながら、父に倣って領地を守り、さらには拡大するために戦った兼定は、土佐一条氏の戦国大名化を嫌った一条内基に疎んじられ、隠居に追い込まれた上で追放されたとも考えられている。
四万十川の戦いに臨む際も、兼定には伊予や土佐の国人領主が追従しており、一度は土佐から離れた身でも土佐の土豪から見放されてはいなかった。
内基は長宗我部氏に対して土佐西部の支配を認める代わりに、一条家の権益を守ろうとしており、一条本家の思惑を踏み台の1つとして土佐を掌握した長宗我部氏は、孤島に隠遁した兼定の暗殺を計画するほど最後まで兼定の動向を警戒し続けていた。
後に四国の大半を制する長宗我部元親が、最後まで兼定に対する警戒を緩めなかったのは、何故だったのだろうか。
後世に記された軍記では暗愚な人物として描かれた兼定だが、彼を取り巻く史実からは、また異なる人物像が思い起こされるのである。
参考文献 : 山本大 (編集) 『長宗我部元親』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

























この記事へのコメントはありません。