安土桃山時代

織田家の天下布武を支えた知られざる武将・蜂谷頼隆

信長の黒母衣衆

蜂谷頼隆

※蜂屋頼隆像

蜂屋頼隆(はちやよりたか)は織田信長、その没後は豊臣秀吉に仕えた武将・大名です。信長の時代にはその精鋭のみが選ばれた馬廻の黒母衣衆に名を連ねたことからも覚え愛でたかったことが窺えます。

秀吉の治世では敦賀5万石を領した大名でしたが、頼隆の死後に嫡子がなかったことから蜂屋家は断絶することになりました。羽柴姓を与えられるなど秀吉からの評価も高かったものと思われます。
晩年は秀吉が進めた検地に対し反対の意を表するなど、自己の意見を曲げない人物であった逸話も残されています。

信長と共に上洛

頼隆の生年は、天文3年(1534年)頃と考えられていますが、定かではありません。信長に仕える以前についても美濃の斎藤家に仕えていたともされていますが、こちらも正確なところは不明です。

頼隆の足跡が確認できるのは、永禄2年(1559年)の信長の初上洛のときであり、信長に従って京へ入った家臣の一人でした。そのことからもこの頃には既に黒母衣衆の一人だったと考えられています。

その後頼隆は、永禄11年(1568年)の信長の上洛時には主力の部将として兵を率い、柴田勝家森可成らと先鋒を務め、岩成友通が籠城していた勝竜寺の攻略に武功を挙げました。

朝倉攻めでの叱責

頼政はその後も織田家の主要な戦に参加して各地を転戦しました。元亀元年(1570年)6月には北近江の浅井氏攻め、翌元亀3年(1572年)4月には三好氏の交野城攻め、同年7月には再び浅井攻めへと出陣しました。

更に翌元亀4年(1573年)の2月に将軍・足利義昭が信長に反旗を翻すと近江の石山城攻めに加わり、続く3月に信長の上洛に従うと、翌4月には洛外の焼き討ちを行いました。

頼隆は同年7月に義昭が槇島城に籠城した際にも、その鎮圧に従事し義昭の追放に貢献しました。

翌天正元年(1573年)8月には越前の朝倉氏を攻めに従軍しましたが、この際には朝倉勢の撤退を見過ごし、信長が近習のみで追撃戦を行ったことで頼隆も戦の後に信長からの叱責を受けたとされています。

和泉の支配権

その後も頼隆は、天正2年(1574年)7月の伊勢長島の戦いや、これに続く天正4年(1576年)4月からの石山本願寺勢との戦いに従軍しています。

さらに頼隆は、天正5年(1577年)の雑賀攻め、翌天正6年(1578年)4月には大阪の石山本願寺攻め、同年6月には播磨攻めへと各地を転戦しました。

頼隆は、天正8年(1580年)織田家家老の筆頭格であった佐久間信盛が追放されたことで、その後を受ける形で和泉の支配権を得ました。
翌天正9年(1581年)2月に京で行われた信長の権勢を誇示した御馬揃えにおいて、頼隆は丹羽長秀に次ぐ順番で行進したと伝えられています。

豊臣政権下で敦賀へ

頼隆は、天正10年(1582年)6月の本能寺の変に際しては大阪の岸和田城にあり、同じく四国征伐の出陣予定であった織田信孝・丹羽長秀と合流して、秀吉の到着を待って山崎の合戦に参加しました。

秀吉が光秀を討った功績からその勢力を増してくるとこれに与し、天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利すると、和泉から柴田勝家の旧領の一部である越前の敦賀5万石を領しました。

頼隆はその後も天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正15年(1587年)の九州征伐に出陣しましたが、天正17年(1589年)9月に死去し、継嗣がなかったため蜂屋家は断絶することになりました

意外な文化人

頼隆は、豊臣政権の主要な施策であった検地に反対を表明して秀吉への書状を送っています。

この行いに単なる長いものに巻かれるだけの人物ではなかったことが窺えます。

また意外な一面として、武勇だけでなく風雅を好む一面も持ち合わせていたようで、和歌や連歌に通していたことが伝えられています。殊に和歌にかけては当代一流の文化人として知られた細川幽斎古田織部に匹敵するとも伝えられています。

 

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社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
野球はヤクルトを応援し、判官贔屓?を自称しています。

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