戦国時代

有名な戦国大名たちの忍者集団 ①【饗談、甲賀、伊賀、透波、軒猿、乱波、風魔】

忍者とは

有名な戦国大名たちの忍者集団

忍者は歴史的には「忍び」と呼ばれ、史料上確実に存在が確認できるのは、南北朝時代以降で、その起源は13世紀後半に荘園制支配に抵抗した「悪党」にあると考えられている。

実は「建武の新政」で活躍した楠木正成(くすのきまさしげ)は、悪党の首領、つまり忍者だったと言われている。

忍びは、乱波(らっぱ)、透波(すっぱ)、(くさ)、奪口(だっこう)、かたまりなど、地方により様々な名前で呼ばれ、忍者という呼び名が定着したのは実は昭和30年代になってからのことである。

戦国時代の忍びは、各地の大名に召し抱えられて敵国への侵入・放火・破壊・夜討ち・待ち伏せ・情報収集などを行なったが、最も重要なのは敵方の状況を主君に伝えることであることから、実は極力戦闘を避け生き延びて戻ってくる必要があった。

中でも伊賀忍者甲賀忍者は有名で、紀州の雑賀衆根来衆など傭兵を生業とした忍者集団もいた。

今回は有名な戦国大名たちが召し抱えていた忍者集団について、前編と後編にわたって解説する。

織田信長に仕えた 饗談

画像 : 織田信長 public domain

戦国の覇王・織田信長に仕えた忍者に 饗談(きょうだん)という一団がいた。

饗談は相手をもてなして情報を聞き出す間諜(かんちょう)の類いだった。信長の配下には元甲賀忍者と言われる滝川一益(たきがわかずます)などもいて、忍者を多用していたようである。

饗談は桶狭間の戦いで今川軍の動向を掴んで信長に報告し、大勝利に貢献したとされているが、その真偽のほどは定かでない。
信長の配下には岩室重休(いわむろしげやす)という人物がおり、桶狭間の戦い以前から信長に仕えていたという。

その父の岩室重利(いわむろしげとし)は「伊賀守」とも言われており、それが本当であれば、甲賀五十三家の岩室氏と同族で岩室重休は饗談だったのかも知れない。
岩室重休は、桶狭間の戦いの時に信長が清須城から飛び出した時に従った5人の中の1人で、信長の信任がとても厚かったという。

他に信長は甲賀忍者と親しい関係にあった。

元々彼らは、近江の六角氏と同盟関係にあったが、六角氏の先行きが怪しくなると、力をつけていた信長に接近した。
甲賀忍者は「(そう)」と呼ばれる共同体だったと言われ、仕える主君をコロコロと替える一面があった。

信長は伊賀忍者とは険悪な関係にあり、2度に渡る天正伊賀の乱ではかなり手を焼いて1度目は負けてしまう。
2度目は信長が大軍を率いて徹底的に攻めた。

また、石山本願寺と戦っていた時には傭兵集団の雑賀衆の一部を味方につけたが、雑賀衆は5つの地域に分かれており、地域ごとに独自に雇用先を選んでいたため、本願寺側についた雑賀衆の首領・雑賀孫一が率いる鉄砲隊に織田軍は相当苦しめられたいう。

豊臣秀吉に仕えた 甲賀忍者

有名な戦国大名たちの忍者集団

画像 : 甲賀忍者 『今源氏錦絵合 須磨 十二』

信長が「本能寺の変」で亡くなると、甲賀忍者豊臣秀吉に仕えた。

徳川家康が伊賀忍者を使っていたので、家康の動静を監視するために伊賀忍者と対立関係にある甲賀忍者を召し抱えたという。

しかし、後に秀吉は甲賀の侍衆を改易処分にして、家臣の中村一氏の支配とした。

これによって甲賀の侍衆たちは浪人となり没落し、これを「甲賀ゆれ」という。

墨俣城の築城で有名な秀吉の与力で後に大名になった蜂須賀小六(蜂須賀正勝)は、土豪衆であったとされているが、「実は忍者であった」とも言われている。

徳川家康に仕えた 伊賀忍者

画像 : 家康より預けられた伊賀衆(伊賀同心組)と甲賀衆を指揮していた、服部半蔵(正成)

伊賀忍者は共同体によって組織の運営を行なっていたが、その意思決定は「上忍三家」と呼ばれる3つの有力家の意向が大きかった。

「上忍三家」は服部半蔵を輩出した服部家、信長に抵抗した百地三太夫を輩出した百地家、武田信玄の軍師であった山本勘助に忍術を教えたとされる藤林長門守を輩出した藤林家の3家から成り、それ以外の家は「上忍3家」の意見を聞き入れることが多かったという。

三河国に渡った服部保長(初代・服部半蔵)が、家康の祖父・松平清康に従属したことから2代目・服部半蔵は家康に仕えた。

忍者としてではなく臣下の武将として仕えていたが、「本能寺の変」で堺から三河国に逃げるために「伊賀越え」を行なった際に、服部半蔵は伊賀忍者たちを使って家康の警護や道案内等を行った。

無事に三河国に戻ることができたことから、家康は伊賀忍者や甲賀忍者を使うようになり、服部半蔵は伊賀忍者衆の長として150人もの伊賀忍者を指揮したという。

また、剣術指南役になった柳生宗矩は、徳川家のために「柳生の里」の者たちを使って諜報・隠密活動を行っていたという。

武田信玄に仕えた 透波

画像 : 武田信玄 wiki c

武田信玄に仕えた忍者は透波(すっぱ)と呼ばれ、武田家の軍略に基づいて多用された。

信玄は20代後半で透波を組織化し70名を召し抱えた。その中から特に優秀な30人を選抜し、板垣信方・飯富虎昌・甘利虎泰に10人ずつ配属し、各地の大名の攻略を行なわせたという。

甲州透波は2人1組で適地を探り、決められた日時に国境に出張したつなぎの武士に情報を伝えた。
しかし、村上義清との戦いで板垣信方と甘利虎泰が討ち死にしたために、信玄は組織を再編し「三ツ者」という諜報部隊を作った。

「三ツ者」の由来は、「間見(諜報)・見方(諜略)・目付(監視)」の三職分を扱ったことからきている。
その構成員は武家ではなく、出家者・町人・農民などからスパイ活動に向いている人間をスカウトしたようで人数は200人もいた。

「三ツ者」の統括者は、日向源藤斎・秋山十郎兵衛・西山十右衛門・雨宮存鉄という人物が行っていたという。

更に信玄は、甲賀忍者の血を引く望月千代女(もちずきちよじょ)に命じて、くノ一(女忍者)の歩き巫女を育成し、何と300人もの美女たちを集めて各地の情報収集を行っていたという。

上杉謙信に仕えた 軒猿

有名な戦国大名たちの忍者集団

画像 : 「芳年武者旡類:弾正少弼上杉謙信入道輝虎(月岡芳年作)」

上杉謙信に仕えた忍者は「軒猿(のきざる)」と呼ばれ、名前の由来は「軒下に猿のように潜伏して情報収集をする者」という意味である。

軒猿は敵忍者の抹殺も得意としていたことから、特に技量が優れた人物が多かったという。

しかし、謙信の軍記物には「夜盗組、伏齅(ふせかぎ)、聞者役(もんじゃやく)」とあるだけで、軒猿という名称は出てこないのだが、軒猿は関東の後北条家にも使えていたそうで、上杉家専属ではなかった可能性がある。

だが第四次川中島の戦いで、山本勘助の奇襲作戦を察知した軒猿はそれを謙信に報告し、信玄の奇襲作戦を逆手に取った謙信は武田軍に大打撃を与えたという。

後北条家に仕えた 乱波・風魔一族

有名な戦国大名たちの忍者集団

画像 : 『北条五代記』万治版挿絵に描かれた風广(風魔)

相模国の北条早雲から5代に渡って後北条家に仕えた 乱波(らっぱ)という忍者集団は「風魔一族」で、首領は代々「風魔小太郎」を名乗った。

特に5代目の風魔小太郎はその中でも最強の忍者と謳われた男で、風魔小太郎の配下には、約200人の乱波がいて、4組に50人ずつ配置して行動した。
200人だけで1万石相当の割り当て兵力と同等と評されたほど強かった。

風魔忍者は敵陣に忍び入り、敵将を生け捕りにして、敵の馬の綱を切ってその馬に乗り、夜討ちをかけ、方々に放火し、四方八方に紛れ込んで勝ち鬨を上げるので敵は散々動揺した。

天文15年(1546年)の「河越夜戦」(5度目の河越城の戦い)において、風魔一族の二曲輪猪助(にくるわいすけ)らが活躍し大逆転勝利に貢献したという。

天正7年(1579年)武田勝頼率いる武田軍と、北条氏政率いる北条軍が徳川と同盟を結び、黄瀬川を挟んで対峙していた黄瀬川の戦いも有名である。

この時、風魔小太郎が率いる200人の風魔忍者は日夜・天候に構わずに度々武田軍の陣を襲った。火を放ち馬の綱を切り、人質を取り、混乱による同士討ちを誘って散々に暴れ回り、風魔一族の名を恐怖と共に世に知らしめた。

結果的に武田勝頼率いる武田軍は、北条軍と一戦も交えずに兵を撤退させ甲府に戻った。

後編では、伊達政宗に仕えた黒脛巾組や、毛利元就の座頭衆、真田の草の者など、あまりメジャーではない忍者たちについて解説する。

 

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