f 最強だった上杉謙信はコミュニケーション能力が低かった - 草の実堂

戦国時代

最強だった上杉謙信はコミュニケーション能力が低かった

上杉謙信は不器用だった

上杉謙信

上杉謙信

上杉謙信(うえすぎけんしん)は「軍神」とまで言われた戦上手で「越後の龍」と称された武将である。

その一方で今川家と対立して塩を手に入れるのに苦労していたライバル・武田信玄に塩を送ったというエピソードもある「」に厚い男であった。(※実際には塩を送ったのではなく元々商売で送っていた塩の供給を止めなかった

戦の天才ではあるが、謙信は考えを人にうまく説明したり説得する能力に欠けていたという。

生い立ち

上杉謙信は享禄3年(1530年)越後守護代・長尾為景の四男(次男または三男という説もある)として生まれる。
謙信が生まれた頃の越後国(現在の新潟県)は内乱が激しく、下剋上の時代にあって父・為景は戦を繰り返していた。
天文5年(1536年)8月、父・為景は隠居して兄・晴景が家督を継いだ。

謙信は父に疎んじられていたため、城下の林泉寺に入門して住職・天室光育の教えを受けたとされている。
仏門に入った謙信は学問や兵法の他にを学んだ。当時の現実のさもしく・暑苦しく・裏切りが横行する世界とは程遠い環境であった。

天文12年(1543年)元服して長尾景虎と名乗り、天文17年(1548年)になると兄に代わって謙信擁立の動きが盛んになり、この年、兄の養子となった上で家督を相続し守護代となった。

室町幕府第13代将軍・足利義輝から越後守護を代行することを命じられ、22歳であった天文20年(1551年)に越後統一を成し遂げた。

突然の出家

上杉謙信

出家 イメージ

10代にして武将として頭角を現し、22歳で越後の国主となった謙信はリーダーシップも強かったが、越後は古代から続く各地域の文化が色濃く残る地域であり、意見調整が出来る人間がいないと統制が取ることが難しかった。

幼い時に仏門に入り学問や禅を学んできた謙信だったが、部下や家臣たちに「自分はこう考えている」ということをうまく伝えられず、コミュニケーション能力は不足していたという。

第二次川中島の戦いの後、家中内が派閥で分かれ家臣同士が対立していたのと、信玄との戦いが膠着状態で嫌気がさしたのか、弘治2年(1556年)謙信(当時は長尾景虎)は急にすべてを放り出して「出家する」と言い出し、高野山を目指して出奔してしまった。

しかし謙信の代わりになる人物がいないので、謙信の義理の兄・長尾政景と師匠の天室光育がどうにか謙信を説得し、なんとか帰って来てもらったという。(※家臣団をまとめる為にあえて出奔したという説もある

いずれにせよ多くの戦国武将たちの中で、何もかも捨てて突然出奔した武将は謙信くらいである。

戦の天才であるがゆえ「毘沙門天がこう言っている」というような神がかり的な伝え方になってしまい、天才ゆえに家臣たちに途中のプロセスを具体的に説明することが下手だった。

晩年は戦の強さでカリスマ性が増したため多くを語らずとも統制が効いたが、若い頃の謙信は色々苦労したと思われる。

小田原攻め

上杉謙信

小田原城 写真撮影 gunny

永禄3年(1560年)織田信長桶狭間の戦い今川義元を討ち、甲相駿三国同盟が崩れた隙をついて、謙信は北条氏康を討伐するために関東を目指して出陣する。

長野業正らの支援を受けながら北条方の諸城を次々と攻略し、関東の諸将に対しても北条討伐の号令を下し、関東の諸将は謙信のもとに集結。その数は10万を越える大軍勢となった。

北条氏康は小田原城で籠城することにしたが、まだ準備があまり進んでいなかったという。

小田原城や北条方の諸城を包囲し、謙信自身は「小田原攻めは成功する」と考えていた。
しかし、その根拠や戦略を味方についた諸将たちに丁寧に説明することが出来なかった。
小田原攻めのような大きな戦では、自分に味方する諸将たちにきちんと説明して納得してもらえないと大規模な攻勢は成功しない。

そのうち「信玄が背後を突こうとしている」という情報が入り、諸将の中にも動揺する者たちが現れる。
謙信からすればさっさと小田原城を攻めて、返す刀で背後の信玄を倒すという計画だったのだろう。

説明下手な謙信は諸将を納得させることが出来ず、謙信がいなくなったら北条につこうと考えていた諸将らもいたため、謙信の小田原城攻めのプランは関東各地からはせ参じた諸将たちの支持を得られなかった。

こうして説明下手だったことと、この頃、永禄の飢饉で兵糧の備蓄が少なくなっていたこともあり、佐竹義昭ら関東の諸将たちは撤退を要求。無断で自分の所領へ帰る諸将も現れた。

防御・兵糧が十分でなかった小田原城を大軍団で陥落させて北条氏を滅ぼし、返す刀で信玄を討つという絶好の機会を逃すこととなった。

謙信の失敗

上杉謙信

上杉景勝

謙信が重臣たちに跡継ぎを誰にするのかを明確にしていなかったことにより、謙信が急死したあと上杉景勝上杉景虎の間で後継者争いが勃発し「御館の乱」が起きてしまう。

上杉家を2分する跡目争いが起こってしまったことは謙信の最大の失敗である。

この跡目争いに勝利した景勝は謙信に似て無口な人物だったが、跡を継いだことで「自分は謙信みたいなカリスマにはなれない、自分らしくあるためにはむやみに話をしないことだ」とそれにさらに輪をかけてしまった。

その景勝をうまく補佐したのが直江兼続で、景勝と兼続で謙信一人の役割を演じていたという。

しかし御館の乱で多くの武将を失い、内乱も続いたために上杉家の軍事力は謙信時代に比べて相当弱くなってしまった。
豊臣秀吉が台頭してきた時に大大名として一番先に臣下になったのは上杉家だった。

慶長5年(1600年)徳川家康の会津征伐の際、西軍が挙兵したため家康は撤退した。
この時、兼続は「今を逃すことはない、ここが好機」と追撃を主張したが、景勝は「上杉は逃げていく敵は討たない」と「義」を通し兼続の主張を聞き入れなかった。

もし、上杉軍が家康軍に追撃していればその後の歴史は変わっていたかもしれないが、景勝は謙信の「義」の血を受け継いでいた。

おわりに

武田信玄(左)・上杉謙信(右)一騎討像

上杉謙信は戦の天才であり「軍神」と呼ばれるほどの強さがあったが、自分の考えている策や考えを人に説明することが下手で不器用な面があった。

しかしライバルの信玄からは「日本無双之名大将」と讃えられ、自身の死後は息子の勝頼に「謙信を頼れ」と言い残したほど人間的にも信頼されていた。

天才だが不器用で実直な謙信の人間性は、時代を超えて今も人々に愛されている。

 

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