安土桃山時代

戦国最強と言われる本多忠勝はどのくらい強かったのか?

戦国最強と言われる武将アンケートで、必ず登場する武将が 本多忠勝 です。

選ばれる大きな理由としては「生涯合戦回数57回において、かすり傷1つ負わなかった」というエピソードが有名です。

生涯を徳川家康に捧げた忠臣・本多忠勝は、どれほど強かったのでしょうか?

徳川家臣 最強武将

本多忠勝

本多忠勝

江戸幕府を開いた徳川家康に仕え、江戸幕府の基盤作りに大きく貢献した「徳川四天王」として、井伊直政酒井忠次榊原康政と並んで本多忠勝が入っています。
家康に忠誠を誓い、徳川家を手助けしてきた代表的な武将です。

徳川三傑徳川十六神将の1人でもありました。

戦においては重装備で出陣しても時には傷を負ったり討ち取られてしまうこともある中で、本多忠勝はかすり傷すら負わなかったことで、徳川家臣の武将の中で最強の武将と呼ばれるようになったのです。

本多忠勝の戦歴

初陣

本多忠勝の初陣は1560年で、桶狭間の戦いの前哨戦である、大高城への兵糧入れでした。

この戦で最初のピンチを迎えますが、叔父の本多忠真(ほんだただざね)に助けられています。その2年後、1562年の鳥屋根攻めで初の首級を挙げています。その時のエピソードとして、叔父の本多忠真が自身が討った敵の首を手柄として取るように指示しましたが、それを拒否。

人の手を借りてまで手柄は要らない」と、自ら敵軍に馳せ入り首級を挙げています。

三河一向一揆

1563年には三河一向一揆が起こります。

本多忠勝

三河一向一揆。家康三大危機の一つとされている。(他は、三方ヶ原の戦い、伊賀越え)

この一揆では忠誠心の高い家康の家臣の半数が一揆に味方する形となり、徳川家康三大危機の一つとされています。

本多一族の多くも一揆に加勢しましたが、忠勝は親族を敵に回してでも徳川家に忠誠を誓い、家康に高く評価されました。

その後、19歳の若さで徳川家康直属の親衛隊「旗本先手役」に選ばれ、54騎を預かる武将となります。(旗本先手役は家康直属の機動戦闘部隊で、家康の指示で真っ先に行動する部隊のこと

姉川の戦い

1570年の姉川の戦い(織田・徳川連合軍vs浅井・朝倉連合軍)では、徳川本陣に迫る朝倉軍10,000の兵に対抗するため、正面突破の単騎駆けを行い、それが功を奏して朝倉軍を敗走させることに成功しています。

本多忠勝

※本多忠勝(左)と真柄直隆(右)の一騎打ちの図

この戦いでは日本一の怪力と呼ばれた朝倉一の猛将、真柄直隆(まがらなおたか)と一騎打ちを行い(決着はつかず)、その武勇を織田信長は「花実兼備の勇士・日本の張飛」と褒めたたえました。

一言坂の戦い

1572年の一言坂の戦い(徳川vs武田)では、徳川軍は武田軍の素早い動きに窮地に立たされます。

70戦無傷で「不死身の鬼美濃」と恐れられていた武田軍の猛将、馬場信春小杉左近山県昌景らの追撃から家康を逃がすために、忠勝は殿軍を務めます。

その時、忠勝は挟み撃ちにされましたが討死覚悟で敵中突破を行いました。その突撃は敵軍である小杉左近が思わず道を空けた程の迫力だったとされています。忠勝の死を覚悟した働きにより、家康本隊は無事に天竜川を渡って撤退することができました。

伊賀越え

1582年、徳川家康最大のピンチとなった伊賀越えでは、忠勝は追い詰められて自害しようとした家康を諫めて帰国するように進言。決死の伊賀越えを果たしています。

小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦い(徳川vs豊臣)では、忠勝は家康を逃がす為にあえて少ない兵で敵を引きつけて囮になろうとします。豊臣軍の加藤清正福島正則は「忠勝を打ち取るべし」と秀吉に進言しますが、秀吉は「徳川が仮に滅びたとしても、忠勝は味方に取り入れたいから生かしておけ」と命令したことが伝えられています。

このように圧倒的な兵力差や窮地にあっても怯まない忠勝を、秀吉は「日本第一、古今独歩の勇士」「天下無双の東の大将」と称賛しました。(西の天下無双は立花宗茂

関ヶ原の戦い

1600年の関ヶ原の戦いでは、家康本軍に従軍し豊臣恩顧の武将の監視役でもありましたが、自ら少ない手勢を率いて敵軍に飛び込んで90もの首級を挙げます。

戦の指揮だけでなく、兵としても大きな功績をあげています。

強い忠誠心と求心力

本多忠勝の遺書には「武士にとって最も大切なことは、敵の首を挙げて手柄を立てることではなく、主君に尽くすこと」だと記されています。

また、忠勝は配下たちから「忠勝様の指揮ならば背中の心配がない(背後から攻められる恐れはない)」と言われるほど戦場において絶大な信頼をされていました。

唯一の傷

本多忠勝が負った唯一の傷として伝えられているのは、隠居後に仏像に小刀で名前を彫っている最中に、うっかり手を滑らせて指に小さな切り傷を負ったとされるものです。

隠居してから唯一の傷を負ったことで「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」と呟き死期を悟ったされ、その言葉どおり数日後に63才で亡くなりました。(1610年

本多忠勝の蜻蛉切

本多忠勝の戦スタイルは、天下三大槍と言われる蜻蛉切(とんぼきり)を振り回して突進するスタイルです。

本多忠勝

本多忠勝 岡崎公園にある銅像

元々、名槍は「西の日本号・東の御手杵」の2つでしたが、いつの間にか蜻蛉切を含めて「天下三名槍」と呼ばれるようになりました。

蜻蛉切の名は、「槍の穂に飛んできた蜻蛉が当たると真っ二つに切れる」といわれたことが由来とされています。

さいごに

本多忠勝は主君に忠誠心を貫くことで強い武将になっていきました。

長篠の戦では、武田軍が逃げる際に軍旗を捨てていくのを見て、「旗を捨てるとは何事か!」と、追いかけたとのエピソードも残されています。

厚く信頼されていたからこそ部下からも守られ、57戦の合戦で一回もかすり傷一つ負うことなく戦ってこられたのだと思います。

本多忠勝は個人の強さだけでなく、統率力としての軍の強さも戦国最強だったのではないでしょうか。

 

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