戦国時代

戦国一の怪力・真柄直隆【本多忠勝と一騎討ちした猛将】

真柄直隆とは

越前朝倉氏に仕えた身長192cm体重252kgの巨漢な武将・真柄直隆(まがらなおたか)という武将がいた。

五尺三寸(約175cm)の太刀「太郎太刀」を振り回して戦場を暴れ回った怪力無双の男は、姉川の戦いで壮絶な最期を迎える。

本多忠勝と一騎打ちをしたという実在した伝説の武将、真柄直隆について追っていく。

怪力の強者

真柄直隆とは

真柄直隆 は天文5年(1536年)越前国(現在の福井県)の真柄荘(現在の福井県越前市上真柄町)の国人として生まれる。
直隆の出生や幼い頃などはあまり分かってはいない。

真柄氏一族は朝倉氏の客将として上真柄に拠点を構えて軍役を負担する、正式な家臣という訳ではなく戦の時に駆り出される国衆の一族であった。
直隆の代になってから朝倉氏の正式な家臣として仕えたとされる。

身長は192cmで体重は252kgの巨漢であったというが、さすがにこれは後世の誇張であろうとされている。

明智光秀が活躍した永禄の一揆で真柄三人衆(真柄直隆とその息子・隆基と従者の隨伝坊)として大活躍をしている。

文献によると真柄親子は当時の日本では肩を並べる者はいないという怪力の持ち主であった。

直隆の太刀「太郎太刀」は五尺三寸(約175cm)という長い太刀で戦場を暴れ回る武勇の猛将。

息子・隆基(たかもと)は四尺七寸(約142cm)の長い太刀「次郎太刀」で同じく戦場を暴れ回り、直隆の従者・隨伝坊は一丈二尺(約364cm)もある樫の棒を六角形に削って筋金を貼ったものを振り回して戦場で暴れ回る。

永禄の一揆ではこの三人で大勢の敵の中に飛び込んで、短時間で80人以上も斬り倒したという。

朝倉氏に仕える真柄三人衆は、日本で一番の力持ちで武勇に優れた者たちと周囲から恐れられていく。

足利義昭に披露

真柄直隆とは

※足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)

将軍になる前に朝倉氏を頼った足利義昭が「ここには真柄直隆・真柄隆基・隨伝坊という世にも有名な怪力の者がいると聞くので見たい」と言った。

直隆は大人4人がかりで運んできた「太郎太刀」と「次郎太刀」を一人で抜いて、頭の上で振り回して見せた。

18歳だった息子の隆基は、三人がかりで運んできた黒い卵のような周囲152cmの大きな石を持ち上げて、まるで手毬のように10回ほど空中に投げて見せた。

隨伝坊は庭から長さ一丈五尺(約4.5m)直径一尺三寸(約50cm)の白柘植(しろつげ)を見つけて、根本の方をねじり切って両手で10回ほど振り回した。

義昭や周りにいた者らは余りの怪力ぶりに驚嘆したそうだ。

本多忠勝と一騎討ち

織田信長・徳川家康と戦った元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、朝倉勢は序盤を優位に進める。

直隆らが家康軍と戦っているとその中でたった一騎だけ朝倉軍に迫ってくる者がいた。

それが勇猛果敢で知られる徳川四天王の一人、猛将本多忠勝であった。

そして大暴れしている忠勝の前に立ちふさがったのは朝倉一の猛将、真柄直隆だった。

真柄直隆とは

※本多忠勝(左)と真柄直隆(右)の一騎打ちの図

二人は一騎討ちとなって激しくやり合う。

忠勝の名槍「蜻蛉切り」と直隆の「太郎太刀」がぶつかり合いとなるも、どちらも引かずに決着がつかない。

その間に徳川軍は朝倉軍を圧倒していき、朝倉軍は撤退。

忠勝と直隆の勝負はつかないで終わる。

壮絶な最期

織田・徳川連合軍が次第に優勢になってきて朝倉軍の敗色が濃厚となると、直隆は味方を逃がすために殿(しんがり)を買って出る。

ここを死に場所と考えた直隆は、たった一人で徳川軍に突撃をかけた。
太郎太刀を振り回して徳川軍の12段構えのうち8段まで突き破っていき、直隆に討たれた者はその数が分からないほどの多さだったという。

直隆が「我は真柄十郎左衛門、志ある者は勝負せよ!」と叫ぶと、「我は徳川の家臣・勾坂式部だ、勝負しろ」と家康の家臣・勾坂三兄弟の長兄・式部が槍で突きかかった。

直隆は一の太刀で槍の穂先を切り落として二の太刀で兜を撃ち割って、式部は討死する。
それを見た式部の弟・五郎次郎六郎五郎山田宗六が直隆の前に現れて、五郎次郎が危ないと六郎五郎が助けに入るなどと応戦する。

そこに山田宗六が「主は討たせぬ」と直隆の前に進み出るが、あっという間に直隆に斬られてしまう。
兄弟も数か所の深手を負うが、さすがに体力の限界なのか力を使い果たした直隆は「今はこれまで、真柄の首を取って男子の名誉にせよ」と太郎太刀を投げ捨てて首を差し出した。

勾坂兄弟が討ちとった刀はそれ以降「真柄」と言われ名刀とされた。

息子・隆基は父が討たれたことを聞くと「次郎太刀」を手に引き返して奮戦し多くの兵を討ちとるも、青木一重という鎌槍を持った者に首をとられてしまう。

青木は「真柄は大剛大力の男でわれらが及ぶところではない」「私の前に誰かと戦って傷を負ったから討ちとれた」と言って隆基を称した。

太郎太刀

直隆が使った「太郎太刀」は熱田神宮の宝物館に実物が展示されている。


文献に書かれているものより実物は大きく、なんと約222cmもあった。
この大きな太刀は千代鶴国安という刀鍛冶が他の刀鍛冶と相談をして作ったそうだ。

余りの重さに従者4人が担いだという逸話も残るが、直隆は1人で軽々と振り回していた。

息子・隆基の「次郎太刀」も長さが約166cmもあり白山比咩神社に現存してある。
隆基はこの5kgもある次郎太刀を弓手の肩にかけていたという。

おわりに

まるで相撲取りのような体格の真柄直隆は、北国の豪傑として講談や軍記物にしばしば登場している。

真柄直隆には直澄という弟がいて、彼も勇猛果敢な武将として知られた人物で、兄の直隆と同じ姉川の戦いで討死している。

朝倉氏に仕えた剛の者・真柄一族は伝説となった。

 

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