城,神社寺巡り

秀長ブームで町が変わった?大和郡山の菩提寺「春岳院」と墓所「大納言塚」を訪ねてみた

奈良にはしばしば足を運んでいながら、ここ数年、大和郡山を訪れる機会はほとんどなかった。
いや、正確にいえば、昨夏、『豊臣兄弟!』の放送に先立ち、市内を歩いてみようと思い立ったことがあった。

しかし、その日は40度を超える酷暑。さすがに体力的な心配が起こり、断念したという経緯がある。

そこで今回、秀長ゆかりの地を巡ってみることにした。
まずは、菩提寺である春岳院と、墓所と伝わる大納言塚に手を合わせることから始めたいと思う。

約2年ぶりに訪れた郡山の町は、思いがけず「秀長ブーム」に沸いていた。

秀長人気で閑静な町が変わった?大和郡山のいま

画像:箱本十三町の一つ紺屋町と箱本館・紺屋(撮影:高野晃彰)

「いや、人が多いなあ」。これが正直な感想だった。

JR郡山駅を出て、郡山城の外堀を整備した外堀緑地あたりから、明らかに史跡めぐりと思しき人々の姿が増えてきたのである。

秀長の菩提寺「春岳院」へ向かおうと、箱本十三町の一つ紺屋町に入ると、その傾向はいよいよ顕著になった。
紺屋町の道路中央には、城の堀から引かれた水路が通っている。
かつて、ここで染めた布や糸を晒していたのだ。

この町には、江戸時代中期の藍染商の町家を再生した、箱本館「紺屋」と呼ばれる観光施設があり、もともと来訪者が多い場所ではある。
とはいえ、筆者の記憶にある紺屋町は、もっと閑静な町並みであった。

郡山城跡と並ぶ観光スポットであるこの界隈でさえそうなのだから、市内全体はとても落ち着いた印象。
それが、これまでの大和郡山のイメージであった。

ところが、久しぶりに水路を入れた紺屋町の写真を撮ろうとカメラを構えても、なかなか人波が途切れない。
休日とはいえ、やはり、郡山を訪れる人は確実に増えているのだと実感した。

画像:江戸中期の藍染商を再生した箱本館「紺屋」(撮影:高野晃彰)

そうこうしているうちに、金魚のモチーフがあちこちに見られる柳町商店街に行き当たった。
金魚ストリートとの別名を持つ、この商店街が実にいい。

お世辞にも繁盛しているとは言いがたいが、いかにも地方都市の商店街という空気が漂い、それがなんとも心地よいのである。

古い町家や看板建築がほどよく残り、南へ進むにつれて、どこか妓楼を思わせる建物も現れる。
この通りを歩いていると不思議とほっとした気分になるのは、おそらく、この「ほどよさ」に理由があるのだろう。

奈良には、町家の密度が高い場所が少なくない。
ならまち、今井町、五條新町、いずれも重厚な町家が軒を連ね、見事な景観を形づくっている。

しかし、そのような町並みに身を投じるには、どこか勇気と言おうか、その種の覚悟がいる。
歴史の重みに押しつぶされないよう、無意識のうちに身構えてしまうのだ。

さて、いま目指すのは秀長の菩提寺「春岳院」である。

商店街で購入したアテを肴に、中谷酒造でグラス一杯の清酒をという誘惑を振り切り、柳町商店街を北へ進んだ。

秀長の気配と想いが満ちる菩提寺「春岳院」

画像:春岳院の本堂と七重石造塔(撮影:高野晃彰)

豊臣秀長の菩提寺「春岳院」は、もとは東光寺と伝わる真言宗の寺院である。

創建は鎌倉中期とされ、境内には七重石造塔が立っている。

基底部には四方仏が刻まれており、古式を思わせる素朴な表情が印象的だ。
聖武天皇の祈願造立との言い伝えもあり、そうだとすると貴重なものだ。

その七重石造塔の前に、真新しい本堂が建つ。
『豊臣兄弟!』の放送を見据え、築315年の建物を今年1月に改修したそうだ。

堂内には、本尊の阿弥陀如来(室町時代)をはじめ、足利尊氏の持念仏と伝わる千手観音や密教諸仏が安置される。

さらに、秀長の位牌、秀長像、肖像画、『箱渡し日記』、それら古文書を納めた御朱印箱がある。

画像:秀長像と秀長の位牌(撮影:高野晃彰)

印象深いのは、生誕400回忌を記念して造られたという木造の秀長像だ。

この像を一目見た時、「ああ、なるほど」と納得がいった。

いまも大和郡山市民から「秀長さん」と親しみを込めて呼ばれている理由が、この像から伝わってくる。
像の前に置かれたお菓子やぬいぐるみが、その気持ちを物語っており、実に微笑ましい。

当初、秀長の位牌所は大光院という寺院だった。
それが「春岳院」に移ったのは、豊臣家の滅亡と無関係ではない。

秀長に取り立てられた藤堂高虎は、祭祀が疎かになることを憂え、大光院を京都大徳寺の塔頭へ移した。
その際、秀長の位牌が託され、大納言塚の管理も委ねられたのが東光院だった。

同院はこのとき、秀長の戒名「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」にちなみ、院号を「春岳院」と改めたのである。

郡山の町民が守り続けた墓所「大納言塚」

画像:秀長の墓所・大納言塚(撮影:高野晃彰)

大納言塚」は、春岳院からおおよそ1.5キロ。徒歩約20分で到着できる。

最短ルートは、郡山城跡の城内を抜ける道だが、大和百万石の居城にふさわしい大城郭だけに、隅々まで見学したくなる魅力がある。
まず「大納言塚」を訪ね、帰路にゆっくり城跡をめぐることをおすすめしたい。

1591(天正19)年1月22日、秀長は郡山城内で50年の生涯を閉じ、その亡骸は秀吉が建立した大光院の墓所に葬られた。

以来、同院が位牌所としてその菩提を弔っていたが、豊臣家が大坂の陣で滅亡すると新たに菩提寺となった春岳院が、位牌とともに墓所の管理を任されることになる。

だが、墓所はのちに一時荒廃した。
これを見かねた春岳院の僧・栄隆は、郡山町の住民たちと協力して土塀を築き、1777年(安永6年)に五輪塔を建立した。

高さ2メートルの五輪塔の地輪には、秀長の戒名が刻まれている。

画像:墓所前にある「お願いの砂箱」(撮影:高野晃彰)

墓所前には「お願いの砂箱」と書かれた鉄の蓋がある。

この下には、砂が納められているが「名前と願い事を唱えて3回砂を通すと願い事が叶う」という言い伝えがある。

『豊臣兄弟!』でも描かれているように、秀長は人の意見をよく聞き、そのうえで物事を判断したという武将だ。

本堂に秀長像を祀る春岳院、そして町民の手で守られてきた大納言塚。
両所を訪ねると、いかに秀長が郡山の人々に想われ続けているかが、確かに伝わってくるのである。

※この記事は現地取材に基づいて執筆しています。
文:写真 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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