平安時代

清少納言の意外なエピソード 「くせ毛で容姿に自信がなかった」

清少納言というと、日本を代表する才女として紫式部とともに有名ですね。

日本で初めて「随筆」というジャンルの文学作品を書いたとも言われています。その一方で、己の知識をひけらかす高飛車なイメージを持たれている方も多いのではないでしょうか。

清少納言の生涯

清少納言の意外なエピソード

清少納言

清少納言は966年頃の生まれと言われており、父は三十六歌仙の一人として著名な清原元輔(きよはらのもとすけ)です。幼少期は父・元輔の赴任先である周防で過ごし、都の洗練された文化への憧れはここで培ったのではないかと言われています。

981年、橘則光(たちばな の のりみつ)と結婚し、子どもを授かりますが、10年ほどで離婚しています。

993年、関白であった藤原道隆より、娘の定子の女房を頼まれ、宮仕えをはじめます。女房とは主人の宮廷行事等の参加などを調整する秘書的な業務ですが、清少納言はこの仕事に加え、定子の教育係も兼ねていました。定子が嫁いだ一条天皇に愛されるように教養ある妃になるためだと言われています。

995年、藤原道隆が病死し、道隆の弟、道長が宮中で権力を持ち始めると、定子や彼女の兄弟たちは没落していきます。定子と一条天皇の仲は良かったですが、1000年、定子は出産の後、亡くなってしまいます。定子の死後、清少納言も宮中への出仕をやめました。

出仕をやめた後の清少納言の行方ははっきりとわかっていませんが、再婚し子どもをもうけ、60歳前後で亡くなったと言われています。

紫式部とのライバル関係

清少納言の意外なエピソード

紫式部(土佐光起画、石山寺蔵)

清少納言紫式部は、平安時代を代表する才女として有名です。ライバル関係にあったと語られることも多いのですが、この2人は面識がなかった可能性の方が高いと言われています。

紫式部が宮中に出仕していたのは1008年頃ですが、この時既に清少納言は宮仕えを辞めています。

にもかかわらず、2人がライバル関係と見なされているのは、紫式部が『紫式部日記』の中で清少納言の文章の拙さを訴えているところからです。

意外なエピソード

清少納言は『枕草子』の中で、男性貴族をやり込めるエピソードを数多く書いています。このことから、気が強いイメージを持たれている方が多いのではないでしょうか。しかし、以下のようなエピソードも残っています。

・容姿に対してかなりのコンプレックスがあった。まっすぐな黒髪が美しいとされていた平安時代、かなりのくせ毛だったと『枕草子』の中で本人が記述している。暗くなって灯りをともすと影ができて自分のくせ毛が丸わかりになるのが嫌だったとのこと。また、顔立ちにも自信がなかったため、絵を描かれる時は必ず横顔だった。

・和歌が苦手。これは誰かに和歌が下手だと言われたのではなく、高名な歌人を父にもったことのコンプレックスだった可能性が高い。父の名を汚さないように、極力和歌を詠まないようにしていた。ちなみに彼女の和歌は勅撰集に選ばれているので、和歌の才能に恵まれていなかったわけではない。

・宮中に出仕した最初のうちは、夜しか出仕せず、御几帳の影に隠れていた。理由は、恥ずかしかったから。局の中で引き籠っていたかったが、中宮定子が恥ずかしくて隠れている清少納言を面白がって、夜だけでもいいから御所に来なさいと言われた。そこで「香炉峰の雪は」という中宮定子の問いかけに御所の簾をあげて外の雪を見せるという風流な回答を出し、中宮定子のお気にいりとなった。

中宮定子との関係

清少納言の意外なエピソード

藤原 定子

清少納言の才覚を開花させたのは、中宮定子だと言われています。上記の「香炉峰の雪」のエピソードからもお分かりになるかと思います。また、『枕草子』が書かれるきっかけを生んだのも、中宮定子です。彼女が清少納言に与えた高級な和紙に書かれたのが『枕草子』です。

そんな中宮定子ですが、実は清少納言よりも10歳ほど年下です。にもかかわらず、『枕草子』の中では清少納言以上の知性を見せ、一条天皇の寵愛を手に入れています。出家した定子に一条天皇は宮中に戻ってくれないかと手紙を書いたほどだったそうです。

清少納言も中宮定子を敬愛しており、『枕草子』のエピソードの多くは「清少納言が機知に富んだ行動をして中宮定子に褒められる」パターンです。

終わりに

『枕草子』は、中宮定子の死後に彼女の鎮魂のために書かれた可能性が高いと言われています。しかしその作中には中宮定子の身に起きた不幸(父・道隆の死後からの没落)は一切触れられておらず、華やかな宮廷生活だけが書かれています。

そこには、中宮定子をただの不幸な妃に終わらせまいとする清少納言の願いが垣間見えます。

紫式部が清少納言を痛烈に批判した理由のひとつとして、紫式部の仕えた中宮彰子が定子ほど一条天皇に愛されなかったことへの悔しさがあげられています。機知に富んだ妃と文才に優れた女房という洗練された過去の象徴が『枕草子』であり、中宮彰子の御所は『枕草子』の中に語られる中宮定子の御所ほど魅力的ではなかったと語られています。

気の強い才女というイメージの強い清少納言ですが、その実体は、普通の人とそうかわらないコンプレックスを抱えながら、中宮定子への尊敬の念を忘れなかった忠義の人だったのです。

 

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