安土桃山時代

雑賀孫一と雑賀衆【信長を何度も苦しめた鉄砲傭兵集団】

雑賀孫一(さいがまごいち)とは

『太平記英勇傳 鈴木孫市』

雑賀孫一(さいがまごいち)とは

織田信長を鉄砲隊で苦しめたことで知られる集団が雑賀孫一(鈴木孫一)の率いる雑賀衆だ。

雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」と言われた戦国最強の鉄砲傭兵集団「雑賀衆」と伝説の鉄砲の名手「雑賀孫一」について追っていく。

雑賀衆と雑賀孫一

雑賀衆とは戦国時代に紀伊半島の南西部を支配していた勢力の一つで、大坂の南の一帯(現在の和歌山県和歌山市)に流れる紀ノ川の流域にある肥沃な土地に住んでいた人々のことを指す。

この地域では多くの鉱石や木材が得られたために昔から鍛冶や林業が盛んで、海運に適した土地のため漁業や貿易も盛んであった。

こうした土地柄のために雑賀では山で働く人々・森で働く人々・海で働く人々などそれぞれの組合のようなものが出来る。
その集まりの代表が協力して運営していた共同体が「雑賀衆」だった。

だから、雑賀衆は1つの勢力ではなく戦国時代には大きく分けて「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷」「南郷」「宮郷」の5つの勢力があり、その勢力の総称が雑賀衆だった。

その雑賀衆をまとめる頭目をしていたのは鈴木氏で、代々鈴木氏を継承する男の通称が「孫一」で、雑賀孫一とは鈴木孫一のことである。

鈴木孫一とされる人物は鈴木重意・鈴木義兼・鈴木重秀・鈴木重朝・鈴木重次と複数いて信長と戦った鈴木孫一は鈴木重秀だとされている。

ここでは雑賀孫一と称させてもらう。

雑賀衆と鉄砲

雑賀孫一(さいがまごいち)とは

※火縄式鉄砲

雑賀衆の近くには「根来衆」(ねごろしゅう)と呼ばれる小勢力があり、こちらも独自の支配勢力を作っていて雑賀衆とも交流があった。

天文12年(1543年)種子島に鉄砲が2丁伝わり、種子島の豪族・種子島時堯(たねがしまときたか)がそれを買った。

2丁のうち1丁の鉄砲は根来衆の津田監物という人物が譲り受けて、種子島から根来衆に持ち帰る。

その鉄砲を基に根来衆の鍛冶屋の芝辻清右衛門(しばつじせいえもん)が試作に成功して、それが雑賀衆に伝わっていく。

鉄砲の試作に成功しても弾や火薬がないと鉄砲は役に立たないが、雑賀衆と根来衆は元々外国と貿易を行っていた
そのために弾や火薬が手に入りやすく、他の地域に先駆けて鉄砲集団となっていくことが出来た。

戦国時代の中、雑賀衆の周囲でも争いごとが絶えず、鉄砲が伝わる前から請われて傭兵のような役割をしていた雑賀衆だったが、それに鉄砲が加わったために各地の大名から声がかかり、雑賀衆は鉄砲傭兵集団となっていった。

当時は「雑賀を制するものは全国を制す」「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」とさえ言われるほどであった。

織田信長との石山合戦

雑賀孫一(さいがまごいち)とは

※織田信長

織田信長が近畿地方一帯に勢力を拡大していく中、三好家との戦いでは雑賀衆は信長の要請に応えて味方をしていたこともあった。

しかし、信長は一向宗の総本山・石山本願寺と対立を深めて全面戦争へと突入していく。

雑賀衆の中には一向宗の寺や門徒(信者)が多く石山本願寺とは友好的な関係にあった。
そのため、雑賀衆は石山本願寺の要請に応えて信長と戦うことになる。

雑賀衆と密接な関係にあった根来衆は、根来寺と呼ばれる真言宗の寺を中心とする宗教勢力であったために一向宗とはライバル関係にあった。

それで雑賀衆は石山本願寺に、根来衆は信長につくこととなったが、雑賀衆の中でも幾つかの小さな勢力は信長についた所もあった。

雑賀衆の頭目である雑賀孫一が率いる鉄砲集団の多くは石山本願寺につくことになり、本願寺に籠城して織田軍を鉄砲の連続攻撃で苦しめた。

この鉄砲隊の指揮を執ったのが雑賀孫一で、鉄砲隊を2列に並べて前列が撃っている時に後列が弾を込め、交互に前に出て連続発射をした。
信長は後にこのやり方を武田勝頼との長篠の戦いで応用している。

正面攻撃に失敗した織田軍は石山本願寺への海上補給ルートを封鎖しようとしたが、海運や貿易に長けた雑賀衆に逆に撃退されてしまう。

結果、信長と石山本願寺の戦いは10年にも及ぶことになってしまう。

このような結果になったために、信長は雑賀衆とその棟梁・雑賀孫一を先に討伐しようと紀州攻めの決意を固めるのであった。

織田信長の紀州征伐

雑賀孫一(さいがまごいち)とは

雑賀付近での雑賀衆と織田信長軍の攻防戦

天正4 年(1576年)5月頃から信長による雑賀衆への切り崩し工作が始まり、翌天正5年(1577年)2月までには雑賀衆5組のうち3組を寝返らすことに成功する。

同年2月、信長は残りの雑賀衆を攻めるために各地で戦っていた重臣たちを集め、約10万の兵で紀州攻めを開始する。

壮絶な戦いの中で雑賀勢は川を利用して織田軍を足止めし、二列横隊を組んで間髪なく織田軍を鉄砲で狙い撃ちするなどと応戦していき、戦いはゲリラ戦の様相を呈すほどの膠着状態となった。

この戦いを足利義昭毛利輝元は「織田軍は敗北した」と風評するほど織田軍は大苦戦している。

雑賀孫一ら雑賀衆はこの戦いの長期化を恐れて形式的に一度降伏したが、同年7月には再び挙兵し信長に寝返った3組の雑賀衆への報復を始める。

信長は家臣の佐久間信盛を大将に約8万の軍勢を差し向けるが、この時も制圧に失敗し、その翌年にも雑賀衆の中心の太田城を攻めたがこれにも失敗してしまう。

信長は怒り、大将を任せた佐久間信盛親子も後に追放となっている。

雑賀衆はこの頃分裂によって雑賀孫一が率いる石山本願寺派の「雑賀党」と根来衆に近く織田派に近い「太田党」に分かれる。

天正8年(1580年)石山本願寺が信長と和睦を結ぶと、信長は雑賀衆の内部分裂に乗じて密かに雑賀孫一の雑賀党と手を結ぶ

雑賀孫一の雑賀党は信長の後ろ盾を得て、太田党の勢力を弱体化させた。

信長は三度に渡って紀州攻めをしたが、結局雑賀衆を滅ぼすことは出来ず、手を結ぶ形で味方につけることしか出来なかったのだ。

豊臣秀吉の紀州攻め

天正10年(1582年)本能寺の変で雑賀衆の運命は大きく変わっていく。

信長が死んだその日の夜、信長と手を結んでいた雑賀孫一は身の危険を感じ、密かに雑賀から逃亡した。

そこで太田党が雑賀衆の中での権力を握り、根来衆との結びつけを更に深めることになった。

※豊臣秀吉

信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉は雑賀・根来衆の紀伊半島での独自の支配を認めずに両者の間には対立が深まっていく。

雑賀・根来衆は秀吉と対立する徳川家康から援軍を求められて小牧・長久手の戦いの最中に、紀伊半島の秀吉の城に攻撃して秀吉軍の背後を脅かす。

この時、秀吉は逃亡していた雑賀孫一と手を結んでいる、この時の雑賀孫一は鈴木重秀の嫡男・鈴木重朝だとされている。

小牧・長久手の戦いは和睦となったが、秀吉は敵対行為をした雑賀・根来衆を許さずに約10万の大軍を差し向ける。

対する雑賀・根来軍の約2万の兵は鉄砲を持って籠城戦で応戦することになる。しかし根来衆の城の火薬庫が秀吉軍の火矢により引火し、城ごと爆発するということがあった。これを皮切りに根来衆の城は次々と陥落・降伏していき遂に根来衆は滅亡してしまう。

残った雑賀衆も秀吉軍に次々と降伏していくが、太田党の雑賀衆だけは徹底抗戦を続け、秀吉はかつての仲間・雑賀孫一を説得に向かわせる。

しかし、太田党は説得には応じずに籠城し、謎の兵器で秀吉軍の先陣を撃退して苦しめる。

この謎の兵器は「飛んで来て火炎と煙を噴き出す筒」だという、もしかして現在の手りゅう弾のような物であったのでは?とされている。

これに手を焼いた秀吉は籠城している太田城を水攻めにし、遂に太田党の雑賀衆は滅亡してしまう。

その後の雑賀孫一

雑賀孫一こと鈴木重朝は、雑賀衆が滅亡した後には秀吉の直臣・鉄砲頭となり1万石を与えられ、小田原征伐や朝鮮出兵などに出陣している。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは西軍本隊として京都の伏見城攻防戦の先鋒として、鳥居元忠を討ち取っている。
しかし、西軍が負けて浪人となり、後に伊達政宗に仕えた。

慶長11年(1606年)伊達政宗の仲介によって、徳川家康の直臣として3,000石で召し抱えられ、水戸徳川家の徳川頼房の旗本となった。

重朝を継いだ嫡男・重次は、徳川頼房の十一男を養子として迎い入れ、鈴木家は水戸藩の重臣として代々続くことになる。

鈴木家は後に姓を「雑賀」と改めて歴代の当主は「孫一」を通称としていくのであった。

おわりに

優れた鉄砲傭兵部隊「雑賀衆」を率いて織田信長を散々苦しめた雑賀孫一は、伝説の人であり現在も謎のベールに包まれている。

信長との石山合戦や紀州攻めでの雑賀孫一は、鈴木重秀であったとされる説が有力である。

雑賀衆は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力拡大を図っていた織田軍の精鋭部隊、豊臣秀吉・明智光秀・佐久間信盛・滝川一益・丹羽長秀・筒井順慶・荒木村重らを集めた約10万の大軍相手に負けなかったのだ。

雑賀衆の力を知った秀吉は、過去の教訓を生かして対鉄砲隊の秘策「水攻め」を用いてようく雑賀衆を滅亡させた。

その後も鈴木重秀の一族は生き残り、後に水戸徳川家の重臣となって「雑賀孫一」の名は後世に語り継がれていくのであった。

 

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