安土桃山時代

小堀遠州 「綺麗さび」茶道を極めた大名茶人【多才な日本のダ・ヴィンチ】

小堀遠州とは

小堀遠州

小堀遠州

小堀遠州(こぼり えんしゅう)は、戦国時代から江戸時代初期の武将でありながら、千利休古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役を務めた人物だ。

生涯400回あまりの茶会を開き、招かれた人数は2,000人にも及び「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げた。

書画・和歌にも優れ、建築・造園にもその才能をいかんなく発揮した大名茶人・小堀遠州について調べてみた。

出自

小堀遠州は天正7年(1579年)、浅井長政に仕える小堀正次の長男として、近江国小堀村(現在の滋賀県長浜市)に生まれる。

幼名は作助、後に正一、政一と改める、後に従五位下・遠近守に叙せられて「遠州(えんしゅう)」と呼ばれたので、ここでは遠州と記させていただく。

遠州の父・正次は浅井家滅亡後、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長の家臣として仕える。

秀長の郡山城移封に伴い父・正次は家老となり、遠州も郡山に移り住んだ。

秀長は茶を好み、山上宗二を招き、千利休に師事したために郡山は京・堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地となっていく。
小姓として仕えていた遠州は、秀吉の給仕を務めていたという。

しかし、秀長の死後には秀吉に仕えて伏見に移り、ここで遠州は古田織部に茶道を学び、才能があったのか織部第一の弟子と称された。

徳川家康に仕える

小堀遠州

徳川家康

秀吉が亡くなると父・正次と共に徳川家康に仕えた。

父・正次は関ヶ原の戦いの功が認められて備中松山城主となり、父の死後はその遺領1万2,460石の大名となった。

慶長13年(1608年)遠州は駿府城普請奉行になり、その修築の功によって翌年に従五位下遠近守に叙任され、それ以後は官命から「遠州」と呼ばれた。

その後は河内国奉行を兼務し、近江国奉行、伏見奉行となった。

作事奉行として遠州は素晴らしい才能を発揮した。

後陽成天皇の御所の造営に始まり、駿府城、名古屋城の天守閣、禁中造営、伏見城本丸書院、二条城、行幸御殿など城郭や御殿など普請の任にあたった。

その建築的な才は城郭以外にも茶室や造園建築にも発揮され、現在では重要文化財などに多数指定されている。

二条城丸庭園 Nicoponさんによる写真ACからの写真

庭園の特徴としては直線に切られた長い畳石など、正方形の切石を置くという直線が導入されている。
また、樹木を大胆に刈り込み花壇も多く用い、芝生の庭園を造るなど西洋の影響も受けていた。

二条城の丸庭園、大徳寺孤篷庵、龍潭寺庭園、南禅寺金地院などが代表的な庭園である。

大名茶人

小堀遠州

古田織部像

前述したとおり、遠州は千利休亡き後にお茶の世界の第一人者となった古田織部の門人となった。

遠州の師である古田織部は織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将であり、千利休の弟子で高弟7人をさす「利休七哲」の1人である。

織部は師である利休の教え「人とは違うことをしろ」を守り、利休の目指した「美」とは異なる「激しく動的で、大胆でありつつ自由な美」を確立した。

織部の独特な感性を人々は「へうげもの」と呼び、利休亡き後には豊臣秀吉の茶頭になり、後には二代将軍・徳川秀忠の茶の湯指南役となったので「天下の茶人」となった。

千利休は「侘び」と言われる静かな、ひっそりとした中に美と強さを求めた。
古田織部は格式・格調を大事にする茶の世界を求め、動きの中に美を求めて茶碗も好んでゆがみをつけた。

遠州はその二人の異なる茶道を学び、受け継ぎながら「綺麗さび」と称される「侘び・さび」の精神に美しさ・明るさ・豊かさを加え、誰からも美しいと言われる客観性の美、調和の美を創り上げた「遠州流茶道」は現在も継承されている。

遠州は自身でも多くの茶会を開催し、その数は400回にも及んだという。

遠州の茶会に参加した人々は、京都の公家を始め大名やその家臣、旗本・御家人・遠州家一族とその家臣、町人、幕府や大名お抱えの茶頭、幕府や大名お抱えの医師や役者、神社関係者など多岐に渡り2,000人にも及んだ、遠州の人脈の広さがうかがえる。

徳川幕府第三代将軍・徳川家光には御殿と茶亭の建築を命じられ、完成した茶室で将軍をもてなし家光公は大満足したという。

また、遠州はこれはという茶道具に和歌・伊勢物語・源氏物語といった古典から取った銘をつけて宣伝し、名物として認知されるようにしていった。

こうして遠州が有名にした茶道具は後世「中興名物」と呼ばれるようになった。

大名茶人として遠州は様々な身分の人達と交流を持ち、江戸時代のみならず現在の茶の湯に大きな影響を与えた。

文化人

遠州は茶の湯だけではなく華道、七宝、書道、絵画、和歌にも造詣が深かった。

遠州は18歳の時に「洞水門」という独特の手洗い鉢を作った。
それまでの手洗い鉢は水はけが悪く、水が落ちるとはねたりして足元を汚すことが多かった。
そこで遠州は鉢の下にかめを埋めてそこに水を落とすように工夫した。しかも水がかめに落ちるたびに反響して、琴のような美しい音色がするのである。遠州は発明家でもあったのだ。

師・古田織部は「これまでこんな仕掛けを凝らした水門を見たことがない、遠州はひとかどの人物になるに違いない」と感心したという。
遠州が作った洞水門のしかけは、現在にも伝わっている。

遠州の芸術的な庭づくりは「書院式枯山水」として有名になり、天皇家のために洋風花壇のある庭づくりもした。

鎖国時代としてはとても斬新なものであった。

晩年は伏見奉行を務めながら茶の湯三昧の日々を送り、正保4年(1647年)2月6日に亡くなった、享年69歳であった。

おわりに

小堀遠州は豊臣から徳川へという激動の時代を生き抜き、日本の「」を再構築し、新たな息吹を与えた。

遠州流茶道は、身分を超えた分け隔てのない茶の湯であることが大きな特徴で、遠州は多彩な能力を持ち日本文化に多大な貢献をした人物であり、彼の目指した精神や文化は今も人々に受け継がれている。

 

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