三國志

劉備の旗揚げから苦楽を共にした「古参の悪友」簡雍はかく語りき【三国志】

私事で恐縮ですが、筆者(角田)はよく苗字を「かくた」と読み間違えられてしまいます。あるいは「すみだ」「かどた」など、実にバリエーション豊富な苗字だと感心するものの、故あってご先祖さま方が呼び続けてきた苗字でしょうから、その都度「つのだ」と訂正しています。

しかし、歴史の中には「もうその呼び方でいいよ」と諦めた?人もいるようで、今回は『三国志』の名脇役・簡雍(かん よう。字は憲和)のエピソードを紹介したいと思います。

劉備の旗揚げから苦楽を共にした「古参の悪友」

『三国志』主人公の一人・劉備(りゅう び。字は玄徳)と同郷で幽州涿郡涿県楼桑里(現:河北省)の出身、その旗揚げ(中平元184年)から付き従って苦楽を共にした簡雍は、元の姓を「耿(こう)」と言いました。

後漢王朝を興した光武帝(劉秀)の功臣として「雲台二十八将」第13位に序せられた耿純(こう じゅん。字は伯山)を祖先に持つ由緒正しい家柄でしたが、百数十年の歳月を隔ててすっかり落ちぶれており、劉備と同じく遊侠の徒としてその日暮らしをしていたようです。

「なぁ、簡(Jian)さん」

「あのな玄ちゃん。俺ぁ耿(Jian)だっ言(つ)ってンだろ……」

幽州ではJianと言えば簡という姓が圧倒的だったようで、あんまりみんながそう呼んだのか、いちいち訂正すンのも面倒だし「もう簡でいいよ」となったのでした。

それからは特に武功を立てる訳でもありませんでしたが、劉備の相談や雑談相手になったり、生来の度胸や人懐っこさを買われて使者を務めたりなど、ここ一番で活躍しています。

非常に大らかすぎる性格だったようで、劉備の前でもフランクな態度を改めず、周囲の者が劉備に抗議しても「アイツだけぁ別格だ」と黙認するほどだったそうです。

流浪の末、劉備がドサクサ紛れで荊州(現:湖北省一帯)を乗っ取ると、文官仲間の麋竺(び じく。字は子仲)や孫乾(そん けん。字は公祐)と共に従事中郎の役職を拝命するも、実務能力に関しては今一つパッとしません。

「酒ぇ掻っ食らって博奕を打つばかりで、何の役にも立ちゃしない」……そんな陰口を叩かれていた(だろうが、気にもしなかった)簡雍にとって最大の見せ場と言えば建安十九214年、劉璋(りゅう しょう。字は季玉)に対する降伏勧告です。

簡雍の説得により、益州を劉備に託した劉璋。Wikipediaより。

劉璋を説得して彼の支配していた益州(現:四川省一帯)を劉備に譲らせることに成功、これが諸葛亮(しょかつ りょう。字は孔明)の思い描く「天下三分の計(※)」の足がかりとなったのでした。

(※)ざっくり言えば「天下統一は難しいので、天下を三分割した内の一つを曹操(そう そう。字は孟徳)に、もう一つを孫権(そん けん。字は仲謀)に治めさせ、残った一つを支配して力を蓄え、折を見て残り二つも攻めていこう」という長期戦略です。

果たして劉備が益州を平定した後は昭徳将軍という高位に叙せられた簡雍ですが、それ以降は姿を消してしまいます。

延康元220年、曹丕(そう ひ。曹操の嫡男)によって滅ぼされた後漢王朝を復興するべく劉備が皇帝に即位、漢(蜀漢)王朝を建国した章武元221年、劉備を皇帝に推戴する群臣の名簿に簡雍の名前は記されていません。

三国時代の中国大陸。緑部分が劉備たち(蜀漢)の勢力圏。Wikipediaより。

死んだのか(※)、あるいは日に日に堅苦しくなっていく役人暮らしに嫌気が差したのかも知れませんが、幽州での旗揚げ以来の仲間をまた一人失った劉備の淋しさは、察するに余りあります。

(※)劉備と概ね同年代とすれば、老衰というほどの年齢ではなさそうなので、慣れない土地で風土病にでもかかったか、事故死あるいは暗殺であればその旨(特に粛清であればそれに値する悪行、敵の手によるものならその非道さ)が特記されそうなものです。

「……どうしても行くのかい、簡さん」

「あぁ。玄ちゃんも達者でな。もし『天下奪り』に飽きちまったら、また昔みたいに、幽州で楽しく暴れようぜ」

「ははは……」

もしかしたら、そんな別れのシーンがあったのかも知れませんね。

エピローグ・簡憲和はかく語りき

さて、何だかしんみりしてしまいましたが、最後に簡雍の愉快なエピソードを紹介したいと思います。

武侯祠に祀られた簡雍。けっこう酒好きだったらしい。Wikipedia(撮影:Morio氏)より。

旱魃(かんばつ。日照り)に見舞われたある凶作の年、劉備は食糧消費を抑えようと禁酒令を出すと共に、酒造りの道具を所持することも禁止しました。酒を造る手段を持っていれば、たとえ酒が買えなくても、なけなしの穀物で醸造してしまうからです。

「「「えぇ~!」」」

当然、お酒好きの皆さんは不満タラタラでしたが、なんとその中に簡雍も混じっていました。

「お前ぇ……取り締まる側の人間がそっちサイドにいちゃダメだろ!」

「いやぁ、せめて酒造りの道具くらいは許しておくれよぅ……」

「ンなもん持ってたら、お前ぇら絶対酒を造るだろうがよ!だからダメなんだよ!」

「……だったら、アイツらを逮捕しろよ!」

そう言って簡雍が指さした先、表通りには若いカップルたちが歩いていました。

「いや、意味分かンねぇし。一体アイツらが何をしたってンだよ?」

「アイツらはこれから『淫行(いんこう。みだらな行為)』をするぜ!あぁ、絶対するさ……何せアイツらは『淫行の道具』を持っているんだからな!」

劉備の理屈で行くなら、道具を持っている者は必ず犯行に及ぶはず……「まったく、お前ぇにゃ負けたよ!」劉備は苦笑しながら、酒造りの道具については、しぶしぶ所持を認めたということです。

※参考文献:
井波律子 訳『三国志演義 全四冊合本版 (講談社学術文庫)』2014年9月
陳寿『正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)』1994年3月

角田晶生(つのだ あきお)

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