どうする家康

開国路線だった家康は、なぜ心変わりしたのか? 【岡本大八事件】

前編では、徳川家康がイギリス人のウィリアム・アダムスを外交顧問として抜擢し「世界に開かれた外交政策」を目指していたことについて解説した。

後の江戸時代は「鎖国」のイメージが強いが、家康は当初、積極的な外交政策を行っていたのである。

スペインとの対決

家康は将軍職を秀忠に譲った後も、駿府城で実権を握り続けて大御所政治を行い、様々な外交政策を打ち出していた。

慶長15年(1610年)家康は、念願のスペイン領・メキシコとの貿易のために行動を起こす。

サン・ブエナ・ヴェンツーラ号」をメキシコに向け出航させ、スペイン国王へ親書を送ったのである。

翌年5月、親書の返事を携えたスペイン王国の大使・ビスカイノが家康と謁見するために駿府城にやって来た。

【岡本大八事件】

画像 : セバスティアン・ビスカイノ

この時、ビスカイノは日本の習慣を無視し、スペインの流儀で駿府城に向かった。

ビスカイノは40人の銃士を連れ、スペイン国王の紋章のある旗を掲げて到着。全ての道においてマスケット銃及びトランペットを鳴り響かせた。
アダムスも控える中で、家康との謁見が始まったのである。

ビスカイノにとって「キリスト教布教の許可」は、貿易の条件として欠かせないものであった。
その上で、更なる交換条件を突きつけたのである。

それは「日本でのオランダ人の貿易を禁じ、以後永久に許可しないこと」であった。

これに対して家康は

「日本の国は全ての異国にとって自由であり開かれている。オランダ人も他国同様に優遇するつもりである。そしてオランダの王子が他国と戦争をしていても私には全く関係がない」

とビスカイノに答えた。

ビスカイノは最後に「江戸湾の測量をしたい」と願い出た。

すると家康は理由も聞かずにそれを許してしまった。
これにはアダムスが黙ってはいなかった。

【岡本大八事件】

画像 : 三浦按針(ウィリアム・アダムス)

これはスペインの策略だ」と家康に詰め寄ったのである。

そしてアダムスは

「江戸湾測量の目的は大艦隊による軍事侵略の準備であり、スペインはまず宣教師を送り込み国民をキリスト教に改宗させ、その後彼らを使い共謀してその国を攻撃してスペイン王国の領土としていく。それがスペインの常套手段なのです」

と家康に進言したという。

岡本大八事件

それから8か月後、ある事件が起きる。

慶長17年(1612年)2月、九州の西国大名・有馬晴信がかつての領地を取り戻すべく、家康の側近・岡本大八におよそ6,000両の賄賂を贈ったことが発覚したのである。

【岡本大八事件】

画像 : 有馬晴信の木像 不明 – 台雲寺所蔵 wiki c

初めは岡本の処刑と有馬の切腹で一件落着のはずだったが、思わぬ事実が浮かび上がった。

有馬晴信はキリシタン大名だったのだが、岡本大八も実はキリシタンであった。
さらに良く調べてみると、なんと家康がいる駿府城の中にも数多くのキリシタンがいることが判明した。

アダムスが言ったことが現実となって家康の足元にまで迫っていたのである。

家康は「このままキリシタンを放っておいていいのか?」と改めて考え直すこととなる。

幕府を開いてからまだ数年、しかも大坂にいる豊臣秀頼を慕う豊臣恩顧の大名たちはまだ多い。
盤石な徳川の世を作るためには、幕府に力をつけることが肝要だった。
だからこそ様々な国と貿易を行ない、西国大名に負けない富を得ようと励んできたのである。

アダムスの言ったことが確かなら、スペインとポルトガルはキリスト教を広めて日本を乗っ取ろうとしている事になる。

そして岡本大八を裏で操っていたのはイエズス会であった。

キリスト教を排除すれば忍び寄るバテレンの恐怖から逃れることができるが、スペインが怒りメキシコとの貿易は望めなくなる。
しかし、今まで南蛮貿易で巨額な富を得ていた西国大名たちの力を削ぐことができる。

家康は「キリスト教の黙認」か、「キリスト教の排除」か、大きな決断を迫られたのである。

家康の決断

慶長17年(1612年)3月21日、岡本大八は火あぶりの刑に処せられた。

画像 : 『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』

同日、家康は江戸・京都・駿府を始めとする徳川の直轄地に対し、教会の破壊と布教の禁止を命じた「禁教令」を布告した。

当初は直轄地に対するものであったが、その後に全国の諸大名に対して「国々御法度」として同様に禁教令を発布した。これは教会の破壊・布教の禁止に加えて家臣団の中にキリシタンがいた場合も改易という厳しい処置であった。

宣教師や改宗しないキリシタンは、マカオやマニラへ次々と追放されていった。

家康の決断は「キリスト教の排除」だったのである。

こうして布教と貿易を一体としたカトリック諸国を排除することになった。
スペインは日本との新たな貿易は実現せず、ポルトガルは商人だけが日本との行き来を許された。

その一方でオランダ・イギリス・東南アジアなど、キリスト教の布教とは関係ない国々は、これまで通りの貿易が続けられた。

元和2年(1616年)4月17日に家康が死去、それからほどなくして幕府の外交方針を大きく変える出来事が起きる。

同年8月、二代将軍・秀忠が、それまでどこの港でも受け入れていた外国船を、中国船以外は長崎と平戸だけに限定する「二港制限令」を打ち出したのである。

画像 : 徳川秀忠

この法によって幕府の直轄地である長崎と平戸だけが貿易できることになり、幕府が外国との貿易を独占するようになったのである。

それまで諸大名たちは思い思いに南蛮貿易を行ってきたが、幕府による大名統制の一環として個別の貿易を制限されてしまったのである。
その後も幕府は海外貿易の統制を緩めず、秀忠の後を継いだ三代目・家光は更に厳しさを増していった。

キリスト教に対する弾圧も強化され、元和8年(1622年)8月5日、幕府は宣教師と信徒、そして彼らを匿っていた者ら55名を長崎の西坂で処刑した。「元和の大殉教

おわりに

寛永18年(1641年)には、ヨーロッパとの貿易を長崎・出島のオランダ商館だけに制限する「鎖国体制」が完成した。

当初、家康が思い描いた開国への夢はここに幕を閉じたのである。

一方、アダムスは幕府の外交方針の変化に翻弄され「二港制限令」の撤回を求めて奔走したが、将軍・秀忠に会うこともかなわず、平戸で55年の生涯を閉じた。

関連記事 : 前編~徳川家康は世界中と貿易しようとしていた 「鎖国とは真逆の外交政策だった」

 

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