江戸時代

イギリス人の侍・三浦按針 「家康に仕えたウィリアム・アダムス」

三浦按針(ウィリアム・アダムス)とは

イギリス人の侍・三浦按針

「皇帝(大御所徳川家康)の前のウィリアム・アダムズ」

イギリス人のウィリアム・アダムスは、関ヶ原の戦いの少し前に日本に漂着し、徳川家康に気に入られて日本初の洋式帆船を建造した人物である。

その功績によって領地250石の旗本になり「三浦按針(みうらあんじん)」という名で、苗字帯刀を許された。

徳川家康の直参となり日本で生涯を終えた青い目のサムライ・三浦按針の生涯、子孫、最新の発見情報など解説する。

日本への漂着まで

ウィリアム・アダムスは、1564年イングランド南東部のケント州ジリンガムで生まれた。

12歳の時に船大工に弟子入りしたが、造船よりも航海術に興味を示し24歳で海軍に入り、貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてスペイン無敵艦隊アルマダとの海戦に参加した。

1589年に結婚して娘と息子が生まれ、後に海軍を離れてバーバリー商会のロンドン会社の航海士・船長として、北方航路やアフリカへの航海の日々を送る。

航海をするうちにオランダ人船員達との交流を深め、オランダのロッテルダムから極東を目指す航海でベテラン航海士を探していることを聞き、弟・トマスらと共にロッテルダムへ行きそれに志願した。

イギリス人の侍・三浦按針

左から右方向にフライデ・ボートスハップ号、トラウ号、ヘローフ号、リーフデ号とホーぺ号

5隻の船団で1598年6月24日、ロッテルダムを出航し、ウィリアム・アダムスはホープ号の航海士となり東インドを目指した。

しかし航海は大荒れで船団はバラバラになり、ウィリアム・アダムスが乗ったホープ号も沈没した。

その中で生き抜いた乗組員たちは、たった1隻だけ残ったリーフデ号に乗船し、1年10ヶ月後の慶長5年(1600年)3月16日、豊後臼杵の黒島に漂着した。

乗組員は自力では上陸できず、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく救助されるほどの状態であったという。

乗組員は拘束されてしまい、積荷の大砲や火縄銃、弾薬といった武器は没収となり、彼らの処遇は大阪城の指示を待つことになった。

徳川家康との出会い

イギリス人の侍・三浦按針

徳川家康

その後、五大老首座の徳川家康の指示で、ウィリアム・アダムスらは大坂に護送され、リーフデ号も回航された。
この時に家康はリーフデ号の備え付けの大砲を取り外させ、砲員と共に半年後の関ヶ原の戦いで活用したという説もある。

慶長5年(1600年)3月30日、家康は大坂城でウィリアム・アダムスらと会った。

当初、家康は彼らが海賊船だと聞いていたが、ウィリアム・アダムスらによる路程や航海の目的、オランダ・イングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争についての説明で、彼らが海賊船ではないということを理解した。

家康はウィリアム・アダムスがとても正直者であることと、「祖国イギリスはスペイン・ポルトガル以外の国とは決して戦争はしない」という発言を聞いて、彼を高く評価した。

カトリックのイエズス会宣教師が執拗に彼らの処刑を要求してくるのを家康は黙殺し、何度もウィリアム・アダムスと会い、彼の知識や公平な人柄を気に入り江戸に招いた。

家康は関ヶ原の戦いに勝利した後、江戸日本橋にウィリアム・アダムスの屋敷を用意し、家康自身は彼から数学や地理学を学び、重臣たちには砲術・航海術・天文学を学ばせ、幕府の外交顧問として重用した。

三浦按針と名乗る

慶長9年(1604年)家康は、ウィリアム・アダムスに日本初の洋式帆船の建造を命じた。

建造場所に伊豆の伊東を選び「砂ドッグ方式」で造船を開始し、80トンの帆船を完成させ家康を喜ばせた。(※砂ドッグ方式とは、砂浜に大きな穴を掘って丸太を並べ、その上で船を造り完成後に水を引き込んで船を海へと進水させる方法

その次には120トンの大型船を建造し、慶長10年(1605年)ウィリアム・アダムスはその功績により、三浦郡逸見(現在の神奈川県横須賀市)に領地250石、刀2本と脇差を下賜し「三浦按針(みうらあんじん)」という名で苗字帯刀を許された。

三浦は「領地の名前」で、按針は「水先案内人」という意味である。

家康直参の青い目のサムライとなった三浦按針は、その後江戸商人の娘・お雪と結婚し、息子ジョセフ娘スザンナの2人の子供が生まれている。(※お雪に関しては明確な史料がなく通説である

イギリス人同士で喧嘩し、帰国できず

按針がイギリスの家族に出した手紙が3年ほどたって到着し、彼が日本で厚遇されていることがイギリスで知られることとなる。

そして日本での交易を求めた東インド会社のクローブ号が、慶長18年(1613年)に日本に来航した。

イギリス人の侍・三浦按針

アダムスが平戸からロンドンの東インド会社本社へ宛てた手紙の一部。1613年12月1日付け(大英図書館蔵)

按針は彼らと家康との謁見を実現させ、イギリスは日本との貿易を許可する朱印状を取り付けた。

按針は以前、家康に帰国を申し入れて断られていたが、慶長19年(1614年)クローブ号の帰還の際には、彼らと一緒に帰国できる許可を日本・イギリスの両国から貰った。

しかし、同船の船長・ジョン・セーリスと馬が合わず、折角の帰国のチャンスを見送ってしまうこととなった。
セーリスは何でも日本式を押し付けてくる按針が気に入らず、按針はセーリスを生意気な若造と思っていたという。
按針は10数年の間に祖国イギリス人の目にも奇異に映ったほど、見事な日本人になり切っていたのだ。

その後は造船の他にもオランダ・イギリスの商館を平戸に設立し、江戸幕府の海外貿易振興のために尽力した。

家督は息子・ジョゼフに譲り、按針は琉球・シャム(タイ)・中国などを渡航して貿易を行ったという。

徳川家康の死後

元和2年(1616年)按針は、シャムでの交易を終えて帰国後に家康の死去を知り、大きく落胆したという。

2代将軍・徳川秀忠をはじめ幕臣たちは、貿易を平戸のみに制限し鎖国よりの政策を推し進めたために、按針の立場は不遇のものとなった。

按針の役目は天文官のみとなり、幕臣や次期将軍候補・徳川家光にも警戒されてしまい、元和6年(1620年)平戸でそのまま生涯を閉じた。(享年55歳

三浦按針の子孫と、人骨の発見

イギリス人の侍・三浦按針

平戸市崎方公園内の「三浦按針(あんじん)墓地」写真ac あけびさん

息子のジョセフ二代目 三浦按針として、制限が増えたものの朱印状を給付され、その後も貿易を続けた。

寛永9年(1632年)まで貿易を行っていた記録が残っているが、鎖国以降の消息は妹のスザンナと共に今も不明となっている。

三浦按針の墓探し

時代が進み、日本の開国後に三浦按針の墓探しが度々行われたが、埋葬地の正確な場所ははっきりわからなかった。

しかし2019年4月、長崎県平戸市は平戸市崎方公園内の「三浦按針墓地」で出土した人骨がヨーロッパ人男性であることを発表した。平戸市はこの人骨が三浦按針の可能性が高いとしている。

平戸、墓地から出土の人骨「三浦按針の可能性高い」 ※長崎新聞
https://this.kiji.is/485466871420863585?c=586273634388706401

おわりに

三浦按針ことウィリアム・アダムスは、徳川家康に知識や人柄を認められ250石取りの旗本となり、造船・貿易・通訳などを任されて異国人でありながら日本の武士として生きた。

知識や技術を日本人に教え、同じイギリス人の船長と喧嘩してしまうほど日本の文化を受け入れた柔軟な思考の人物だったことが推測できる。

 

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