江戸時代

「柔術・剣術・居合術」の達人・関口柔心と関口氏業【今も続く関口新心流】

関口柔心と関口氏業とは

関口柔心と関口氏業とは

柔術の図画 wiki(c)

関口柔心・氏業(せきぐちじゅうしん・うじなり)親子は紀州徳川家の御流儀「関口新心流(せきぐちしんしんりゅう)の開祖と、その息子である。

「関口新心流」は柔術を根幹として剣術居合術も有する総合武術であり、全国に広がり江戸時代の三大流派となり、400年後の現在も伝承されている。

開祖・関口柔心は「柔」「柔道」という言葉を初めて使ったことから「柔道の祖」とも言われ、現代柔道の「受け身」を編み出した人物である。

その息子・関口氏業は偉大な親の七光りを嫌い、指南役としての暮らしを捨てて、傾奇者の身なりで諸国を修業した人物だ。

「柔術・剣術・居合術」の達人・関口柔心と関口氏業について迫る。

関口柔心

関口柔心は慶長3年(1598年)、三河国長沢村(現在の愛知県豊川市)に関口氏幸の長男として生まれる。(ただし、生年については定かではない。)
柔心の本名は関口氏心(せきぐちうじむね)であるが、隠居して「柔心(じゅうしん)」と号しているので、ここでは柔心と記す。

柔心が生まれた関口家は戦国大名・今川義元の一門で、清和源氏の流れをくみ、祖父は今川義元の妹婿で、徳川家康の正室・筑山殿の父である。

関口家は今川家と徳川家の姻戚関係であったが、今川義元が亡くなり今川家が衰退すると徳川家に仕えた。しかし築山殿とその息子・松平信康の失脚によって柔心の父・氏幸の代には浪人となった。

柔心は名門関口家の再興を願って武芸の上達を志し、幼い頃より修練に励んだ。

家伝の武術(剣術と組討ち)をもとに全国を武者修行して廻り、居合術の開祖・林崎甚助から「神夢想林崎流」居合術を学び、三浦義辰から「三浦流柔術」の組討ちを学び、さらに長崎で中国拳法を学んだ。

関口新心流

自らの技に磨きをかけていたある日、柔心は屋根から落ちる猫が1回転して着地しているのを見て開眼し、自ら屋根から落ちるという修業を行う。

「柔らかな力の使い方」の「柔」を根本として組討ち・捕手技術の解明と再編成を行い自らの技術を「柔による技術」と呼んだ。

物に応じて逆らわない心と体のあり方と、儒書・大学の一節の「まことに日に新た、また日日に新たに、また日に新たなり」という言葉に共感を覚えて、武芸向上は日々新たな心により生まれるとして、流名を「関口新心流」とした。

柔心の「関口新心流」は評判になり、加納藩主・松平忠隆に仕え、次に大和郡山藩主・本多政勝に仕えたが、思う所があったのか自ら郡山藩の仕官の道を捨て、武芸での名門関口家の再興という大望を抱いた。

関口柔心と関口氏業とは

徳川頼宣(とくがわよりのぶ)

そこに柔心の大望を叶えてくれる相手、紀州徳川家初代藩主・徳川頼宣から声がかかった。
徳川頼宣公は55万石の大大名であったが、気性が激しく武芸には厳しい人物であった。

頼宣は江戸の徳川宗家への強い対抗心があり、武芸でも将軍家の柳生新陰流に負けない人物を探していたが、柔心が御眼鏡に適い「客分・御合力金75両」で召し抱えられた。

頼宣公は柔心の武術に惚れ込み「代々の藩主は関口新心流を学ぶべし」と遺命し、「関口新心流」は紀州藩の「御流儀指南」となり、関口家は明治の廃藩まで紀州藩士として仕えた。

晩年、隠居剃髪して「柔心」と号し、長男の関口氏業(せきぐちうじなり)が第二代となって「関口新心流」を継いだ。

柔心は寛文10年(1670年)3月7日に亡くなった。

関口氏業

関口氏業は、父・柔心に劣らぬ腕の持ち主で「柔心の域に達した者は氏業と第三代・氏英(うじひで)の二人のみ」とされている。

氏業は謙虚で「腕前は弟・氏英が上」とし、自らを愚かな年長者という意味の「魯伯」と号して弟に武術指南役を譲り、自分は自分の価値で知行を貰うと、指南役として何不自由ない暮らしを捨てて諸国修業の旅に出た。

これにより「関口新心流」の第三代は弟・氏英が継ぎ、これ以後、宗家は氏英の子孫が継ぐことになった。

紀州藩の武術指南役を務めた名門の出でありながら、氏業は少し変わった人物であったという、身なりはまるで「傾奇者」のようにド派手な着物で、帯には鉄扇を差して3尺3寸の大太刀を腰にぶら下げていたという。

そんな格好で歩くため刀が大きく地面に擦れてしまい、鞘の先に小車をつけて引いていたという。
お供の者にも派手な着物を着させて、髪を伸ばさせ、朱塗りの脇差を持たせていた。

巡国修業の後には江戸の浜松町に「関口流」の道場を開いた。

氏業は武術だけではなく学問や文才にも優れ、治世に関しての能力にも長けていたために、江戸の諸大名から絶大な人気を誇るようになった。
氏業の門下生には信州松代藩主・真田信道や後に「渋川流」を開祖する渋川伴五郎らがいた。

弟子を斬る

氏業の名声が高まっていくと、子弟や周りの者たちの一部は驕り高ぶってしまい、その中にいつも氏業が連れて歩いていた虎蔵という男がいた。
虎蔵は、派手な着物を着た若武者で段々素行が悪くなり、氏業は頭を悩ませていたという。

氏業は、虎蔵がゆくゆくは大悪党になり「関口流」の看板に泥を塗るのではないかと思い、虎蔵を斬ることを決意する。
いつものように虎蔵を連れ出すと、青山で一刀両断のもとに斬り殺し、懐紙で刀の血を拭った。

関口柔心と関口氏業とは

真田幸道の肖像

しかし、この懐紙は松代藩主・真田幸道から拝領した物であったために、虎蔵殺しの下手人は真田の手の者という噂が立った。

氏業が真田屋敷に指南にいくと、幸道公から「虎蔵は酷い目にあり不憫なことだ。聞くところによると刀を拭った紙が真田の物であったという。密かに調べさせてはいるが、未だに手がかりがない。先生もガッカリされていることでしょう。心中お察しします」と言われた。

氏業は全てを見透かされていることを悟り、体よく挨拶だけしてその場から帰ったという。

氏業は学問や治世に優れていたために、後に「寺社奉行」「御新番組頭」などを務め、知行400石にまで加増された。

おわりに

関口柔心と関口氏業とは

関口新心流柔術図・文化9年 (1812年) に安井金比羅宮へ奉納された秘術図とされる絵馬から復元

関口柔心が開祖した「関口新心流」宗家は、江戸時代以来一子相伝で400年以上たった現在でも伝承されている。

関口新心流「新心館」 公式HP
http://www.sekiguchi-shinshinryu.com/

宮本武蔵が有名になると同姓・同名を名乗る偽者が現れたように、関口柔心の名を語った偽者が和歌山にも現れたそうだ。

関口柔心は無学であったために、紀州藩主・徳川頼宣公が儒学者を集め、議論の末に奥義の神髄を「柔」という名にしたと伝わっている。

息子・関口氏業は親の七光りを嫌い、「渋川流」の渋川伴五郎らを育て上げ「関口流」「関口新心流」は、江戸時代における一大勢力となった。

 

アバター

rapports

投稿者の記事一覧

日本史が得意です。

オススメ記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 「チェスト」の掛け声で知られる薩摩・示現流とは
  2. 天海のライバル・金地院崇伝【徳川幕府の礎を築いた黒衣の宰相】
  3. 佐々木小次郎は実在したのか調べてみた【巌流島の戦い】
  4. 平賀源内 〜エレキテルで知られるも実は文学者でもあった才人
  5. 徳川秀忠【徳川2代目将軍】―意外に実力者だった―
  6. 黒田官兵衛(孝高)が織田家の家臣となるまで
  7. 京極高次 〜光秀に味方したにも関わらず復活した大名
  8. 真田昌幸【徳川軍を2度撃退し家康から恐れられた智将】


新着記事

おすすめ記事

今川義元は本当に暗君だったのか調べてみた

はじめに戦国武将は現代ではアニメやゲームなど様々なメディアで取り上げられ、どの武将も現実よりかな…

夏の富士山、コロナで閉鎖を決定

静岡県は18日、県が管理する富士山の三つの登山道を今夏、閉鎖すると正式に発表した。登山客…

給付金の不正受給、自主返金したら「詐欺罪」には問われない?

新型コロナウイルスの影響で打撃を受けた個人事業主などを支援する「持続化給付金」をめぐり、…

アーカイブ

PAGE TOP