江戸時代

天才と評された柳生新陰流最強剣士・柳生連也斎

柳生連也斎(厳包)とは

柳生連也斎

イメージ画像 Photo by Krys Amon on Unsplash

柳生連也斎(やぎゅうれんやさい)は尾張柳生の祖・柳生兵庫助利厳の三男として生まれ「不世出の天才」と言われた剣豪である。

全国各地から名だたる剣豪が集まった大会で、将軍家指南役の「江戸柳生新陰流」を打ち負かしたとも言われている。

尾張の麒麟児」「新陰流最強の剣士」と評された剣豪・柳生連也斎について追っていく。

剣豪エリート一家

柳生連也斎(厳包:としかね)は寛永2年(1625年)尾張柳生新陰流の祖・柳生兵庫助利厳の三男として生まれる。※連也斎は隠居後入道してからの名だが、ここでは連也斎で記す

母は関ヶ原の戦いで石田三成の軍師として仕えた、島左近の末娘・だとされている。
祖父の柳生石舟斎宗厳は若い頃から「五畿内一の兵法者」と呼ばれる剣豪であったが、剣聖・上泉信綱に完敗して弟子入りし「新陰流」を学ぶ。

柳生連也斎

※一刀石 石舟斎が修業中に一刀の元に割ったと言われる

石舟斎は師・信綱も成し得なかった奥義「無刀取り」を完成させて、新陰流第二世となった。
石舟斎は徳川家康に「無刀取り」を披露し剣術指南役に請われたが、高齢を理由に五男・柳生宗矩を推挙したという。

やがて徳川家康は江戸に幕府を開き、宗矩は二代将軍・徳川秀忠の剣術指南役となり、江戸柳生新陰流は将軍家指南役となり「天下の兵法」となった。

一方、石舟斎は長男・柳生厳勝が戦場で体を壊していために、剣術の才能がある厳勝の次男・柳生兵庫助利厳に「柳生新陰流」を叩き込んだ。
そして柳生家一の実力者となった兵庫助に、新陰流三世を授けた。

兵庫助は若い頃に熊本藩主・加藤清正に請われて剣術指南役となったが、問題を起こして柳生の里に戻り、元和元年(1615年)に尾張藩主・徳川義直の剣術指南役となりここに「尾張柳生」が誕生する。

江戸の叔父・宗矩は政治的にも活躍して1万2,000石を超える大名になり、父・兵庫助は剣術指南役に徹して「尾張柳生新陰流」を藩主・義直始め、多くの門弟に広め、後に藩主・義直は新陰流第四世の印可を授かった。

尾張柳生新陰流は尾張藩の「御流儀」となり、その地位は不動のものとなったのである。

天才剣士

連也斎は10歳の頃より父や高弟たちから剣術を学び、道場の稽古だけでは飽き足らず、毎日の稽古が終わった後に近所の小童ら数人に竹刀を取らせて「自分に打ち込んだ者には褒美を与える」と宣言して打ち合いに励んだ。

その甲斐もあって13歳の時には父・兵庫助から習った口述をまとめた武芸書を残し、二人の兄も連也斎の才能に舌を巻いたという。

父・兵庫助とその一番の高弟・高田三之丞の他に、居合術「夢想流」の達人・上泉義胤から伝えられた連也斎の剣術は、「柳生新陰流」に独自の工夫が加えられたものだった。

5歳年上の兄・利方は、父・兵庫助と共に兵法指南をしていたが、連也斎には敵わないだろうと思っていたという。

兄・利方は、江戸で藩主の嗣子・徳川光友の剣術指南役をしていた。
18歳になった連也斎は兄の推薦で江戸に出向き、光友に御目見を果たす。

御目見を許されたその日のうちに、光友の命で柳生新陰流と一刀流の剣士30余名と試合を行い、これらの剣士を次々と討ち破った。
光友に気に入られた連也斎は、江戸詰め御通番となって70石を拝領した。

新陰流正統第五世

慶安元年(1648年)連也斎24歳の時に、父・兵庫助が隠居すると兄・利方は家督を継いで剣術指南役を辞して、連也斎を正式な尾張藩の剣術指南役に推薦した。

これ以後、連也斎は他の役目を解かれ剣術に専念することを許された。

慶安2年(1648年)には父・兵庫助から一切の相伝免許を授けられ、新陰流正統の第五世となった。

藩主・義直が死去して光友が藩主になると、連也斎は更に加増されて600石になり、多数の門下生たちを指南して名も知られる剣士を多数輩出し、連也斎の名声は兄・利方を超えていたという。

慶安御前試合

柳生連也斎

徳川家光

慶安4年(1651年)三代将軍・徳川家光が病に倒れ、武芸好きな将軍・家光のために、諸藩を代表する武芸の達人が江戸城に集められて武芸を披露する「慶安御前試合」が開催されることになった。

尾張藩の代表として連也斎と兄・利方が江戸城に行き、二人は二日間に渡って武芸を披露した。

一日目は燕飛・三学・九箇・小太刀・無刀・小太刀、二日目は小太刀・無刀・相寸等の勢法(型)を披露し、家光を喜ばせ称賛された。

ここで連也斎の強さが伝説となる試合が行われたのである。(※史料はなくあくまで伝承である

連也斎の相手は従兄弟である江戸柳生代表の柳生宗冬だった。宗冬は柳生宗矩の三男で、後に第四代将軍・徳川家綱の剣術指南役を務めた人物だ。

あの有名な隻眼の剣豪・柳生十兵衛の弟で、兄に代わって将軍家指南役を任せられた江戸柳生家の当主である。

尾張柳生 vs 江戸柳生

「尾張柳生」VS「江戸柳生」の試合に江戸城は湧き上がった。父・兵庫助は「剣の実力は尾張柳生」と評されていたが、江戸柳生は柳生新陰流を大成させた「天下の兵法」と評されていた。この試合は「非切り試合」となった。

非切り試合とは、形試合だが形中に隙があれば真剣に打ち込むというもので、油断していると打たれる非常に厳しい試合のことである。

宗冬は中太刀の木刀で、連也斎は二尺(約60cm)の小太刀の木刀を持って対峙した。

連也斎の構えは父・兵庫助が新陰流に独自の工夫をこらした柳生新陰流にはなかった構えで、宗冬が今までに一度も見たことのない構えであった。
戦国時代は戦で使う甲冑太刀という構えが柳生新陰流の構えであったが、戦が無くなり甲冑を着ないことを想定した構えであった。

戦国時代、甲冑を着た時には基本的に腰を落として低く構えていた。甲冑がある部分は容易には傷つかないし、相手も甲冑を着ているので脇・股・喉といった隙間に一撃を加える。

兵庫助が考えた尾張柳生の構えは、腰を伸ばし太刀も相手に正対するように構える。

甲冑を着ていなければ、太刀が接すればどの部分でも相手に深手を与えることが出来るため、相手よりも大きく構えれば早く刀の切っ先が相手に届くからである。

これを鍛錬していた連也斎は「突っ立てる構え」で大きく高く小太刀を構えた。
対する宗冬は、柳生新陰流の低い「沈なる構え」で対峙した。

両者が切り結んだ瞬間に、宗冬の木刀は叩き落とされて右手の親指が砕かれた。

一説には右手の小指だとも、右拳だともされていて、連也斎はわざとではなく、連也斎の打ち込みが早すぎたために誤って宗冬を傷つけたとも言われている。(※これは尾張柳生家の伝承であり、この試合の8日後に宗冬が家光と諸大名の前で兵法を披露したため信憑性が問われている

これによって連也斎は「柳生新陰流最強の剣士」「尾張の麒麟児」と評され、尾張柳生の強さを全国に知らしめた。

新陰流の完成

柳生連也斎

※厳島神社における新陰流演武の様子 wiki(c)Nguyen Thanh Thien

連也斎は一生を通して兵法修行に明け暮れた。妻を娶らずに女子の縫った衣服さえ着ないというストイックさで剣術に向き合った。

そして新陰流を修業する者が始めに学ぶ勢法(型)の「三学円太刀」と「九箇」、初心者が習得しやすいように上段から振り上げてから行う「高楊勢」を考案する。

新陰流の奥義「転(まぼろし)」についても、相手の太刀に対して小太刀をもって対応する本来の「転」を改良する。

「転」の前段階として、互いに通常の長さの太刀で「転」と同じ動作を行う「大転」を学ぶことで、段階的な習得を可能にするなど新陰流の教授法を確立した。

また縦に切りかかる相手には、自分も同様に人中路を切って真直に打ち降ろして勝つ「合撃打ち」を考案。

さらに、立った状態で相手の太刀を奪う「奪刀法」に加えて、新たに座った状態で行う「坐奪刀法」など、現代の尾張柳生を代表する技法も連也斎が考案している。

開祖・上泉信綱から柳生石舟斎宗厳・柳生兵庫助利厳と連なる「新陰流(尾張柳生)」の剣術を、柳生連也斎厳包が完成させたのだ。

晩年

貞享2年(1685年)61歳の時に隠居を許されて剃髪し、「連也斎」と号した。

隠居後は造園に凝り、自分の邸宅に尾張随一と評判の庭園を造った。

その庭園は藩主・親子やその夫人たちも度々訪れて讃えられた。また花を愛し門弟たちに牡丹を配り、茶も好んだという。

元禄7年(1694年)2月、70歳の時に藩主・光友の協力で、兄・利方の子・柳生厳延に印可を相伝して、新陰流の正統第六代を継承させた。

同年10月11日に死去、尾張柳生は現在も新陰流を伝えている。

おわりに

柳生連也斎は「不世出の天才」と言われた、柳生新陰流最強の男である。

「修業に女はいらない!」「江戸柳生新陰流を打ち負かす!」と何ともカッコイイ剣豪だ。

いずれ大河ドラマの主人公になっても不思議ではない剣豪である。

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