江戸時代

柳生十兵衛の逸話や伝説はなぜ生まれたのか?

柳生十兵衛の生い立ち

※柳生十兵衛(千葉真一)出典

柳生十兵衛柳生三厳)と言えば、片目に眼帯をした「隻眼の剣豪」として有名です。

徳川幕府の隠密として諸国を旅して活躍する、ドラマや映画の主人公としても描かれることも多い彼ですが、謎も逸話も多い伝説の人物です。

柳生十兵衛の生い立ち

柳生十兵衛は、大和国柳生庄(現在の奈良県柳生町)に慶長12年(1607年)に柳生藩初代藩主・柳生宗矩の長男として誕生、初名は七郎、諱は三厳、通称は十兵衛です。

柳生十兵衛の生い立ち

※父、柳生宗矩

父の柳生宗矩が、徳川秀忠の兵法指南役を務めていたので、13歳の時に三代将軍徳川家光の小姓になります。

父の宗矩が家光の兵法指南役に就任してからは、父と共に家光の稽古の相手を務めるなど家光の信頼も厚かったですが、20歳の時に理由は定かではありませんが、家光を怒らせ蟄居を命じられ小田原に一時お預かりの身となります。※蟄居(ちっきょ)とは自宅の一室に謹慎させられること

蟄居の間

蟄居の原因となった家光の怒りは1年ほどで収まりましたが、なぜか再出仕は許されず、11年間も十兵衛は故郷の柳生庄に引き籠り、祖父の石舟斎や父の宗矩の口伝、目録などを研究しながら稽古を重ねて柳生新陰流兵法の研鑽に明け暮れていたのです。

祖父の門人を訪ねて武者修行をしながら諸国を廻っていました。その時に山賊征伐もしていましたが、このことが後の伝説や逸話など創作物の材料になったとされています。

11年後、江戸に戻り、父の宗矩のもとで相伝を受け、それらをまとめた伝書を著して父に提出して講評を仰ぎますが、なぜか全て焼き捨てるように命じられるなどのやり取りがあって、これが映画やドラマで親子が対立しているように描かれている元になっています。

結果的には、十兵衛は以心伝心の秘術や慈味を理解して父からの疑念が晴れ、更なる精進をすることを条件に父は伝書の受け取りを許しました。

再出仕

柳生十兵衛の生い立ち

※徳川家光

寛永15年(1638年)、次弟である柳生友矩が病で辞することになり、12年振りに家光から出仕することを許されて十兵衛は江戸城御書院番となります。

翌年、家光の御前で兵法を披露し、蟄居していた期間に集めた資料などを基に新陰流の術理をまとめた「月の抄」を完成します。

正保3年(1646年)に父の死去に伴い、遺志によって領地を一旦幕府に返上、家光の裁量で領地は兄弟で分けられ、十兵衛は3,000石を相続して家督を継ぎます。

しかし、1万石を下回ったために大名から旗本になりました。父の生前の十兵衛は「強勇絶倫」で皆が恐れ従うといった感じでしたが、家督を継いでからは寛容になって政事に励むように変わり、その後、少しの期間(4年)で役目を辞めて再度柳生庄に引き籠ります。

十兵衛の最期

慶安3年(1650年)、鷹狩りに出掛けた弓淵(現・京都府南山城村)で急死

奈良奉行が検死や村人たちを尋問したが死因については分からないまま、柳生庄の中宮寺に埋葬されて44歳の生涯を終えます。

十兵衛には、2人の娘はましたが嗣子がおらず、家光の命で弟の柳生宗冬が家督を継ぎ、後を継いだ宗冬は順調に加増をして寛文9年(1669年)には、1万石となって再度柳生家は大名となります。

十兵衛の逸話

柳生十兵衛には、数えきれないほどの逸話や伝説があるのでそのうちの一部を紹介します。

・柳生宗矩の領地である武蔵国八幡山で暴れる山賊たちを征伐した。
・京都の粟田口で数十人の盗賊を相手に立ち回り12人を斬り捨てた。
・奥州から各地にある道場を片端から巡り仕合を行って全勝した。
・家光の怒りを買ったと見せかけ、宗矩の命令で公儀隠密として働いた。薩摩の島津藩での隠密活動では偽装結婚を2年間して子供まで作った。
・手裏剣の名人と戦った時に、37本の手裏剣を全て扇で払い落した。
・鍵屋の辻の決闘で有名な荒木又右衛門も十兵衛の弟子で、彼らと共に公儀隠密をしたとも伝わっていて、十兵衛が京都で亡くなった時も実は隠密活動をしていて忍者に殺されたのではないかという噂。

柳生十兵衛本人による記述もあり、「とある事情で家光公の元を退き、柳生庄に引き籠った。主君の側を離れたので出歩くのは礼儀や天道に背くと思い12年間は故郷を出なかった」と書かれていたり「先祖の石舟斎の門弟を訪ねて廻った際に武者修行に出て山賊を退治した」とあったり、どっちが正確なのかわからない記述もあります。

この他にもまだたくさんあります。

隻眼の真実

柳生十兵衛と言えば、「隻眼の剣豪」としてドラマや映画では眼帯をしている姿で描かれています。

その原因は、父宗矩が腕を試すために真っ暗な夜に小石を投げたのが右目に命中して失明したという説、父宗矩と稽古中に宗矩が手元を狂わせて十兵衛の右目に太刀先が当たって失明したという2つの説があります。

しかし、十兵衛の肖像画があるのですが、隻眼ではなく両目が描かれていて、しかも、本人の書いた多くの書物にも一切そのようなことは書かれてはいません、では何故に隻眼なのか?それは謎なのです。

真実は、十兵衛は隻眼ではないということです。

新陰流を変えた

柳生十兵衛の生い立ち

※上泉信綱像 群馬県赤城神社にて管理人が撮影

新陰流の祖である上泉伊勢守信綱の教えは、先手を取って勝つことを第一にしていましたが、十兵衛は「敵の動きを待って、その弱身へ先を取り勝つことを修練し、古流と違いのびのびと和やかに敵の攻撃を受けて勝つ心持」としたのです。

新陰流は、先手必勝から受け身主体に変化。これは戦が少なくなったので戦場(甲冑)剣法から平時の剣法への転換となったとされています。

十兵衛の性格

ドラマや映画での柳生十兵衛と言えば、強くて優しいというイメージです。

十兵衛が生まれてすぐに祖父の柳生石舟斎が亡くなりましたが、十兵衛は兵法が祖父に似ているとされ、性格も「弱冠にして天資甚だ梟雄」と評され、剣術と気性の荒さが似ていることで、石舟斎の生まれ変わりと言われました。

若い時はかなりの荒っぽい気性の持ち主で、特に酒が大好きで酔って言動が荒くなる、いわゆる酒乱だったようです。

一説には、家光の怒りの理由も酒乱だったとされ、父の宗矩が懇意にしている沢庵和尚にも酒で度々注意をされていたようで、周囲の人も若い時は怒りっぽいから言うことを聞いていたようです。

ただ、父が他界して家督を継いだ後はお酒を控えて優しくなったそうです。

おわりに

柳生十兵衛が、隻眼の剣豪として諸国を漫遊しながら隠密活動をして徳川幕府を影から支えたという伝説は、兵法の名門の家に生まれ将軍の側に仕えながら、将軍の怒りを買い12年も修業に明け暮れた謎の蟄居の期間があるからです。将軍に許されてもわずか4年で故郷に戻り、44歳で謎の死を遂げるその波乱万丈の生涯がなせる業です。

何者にも縛られない生き方が、今も昔も多くの人を惹き付けて数多くの創作物となっているのも分かる気がします。

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