江戸時代

【千社札を広めた男】 江戸時代の奇人・天愚孔平とは 「大ボラ吹きの奇人が生んだ文化」

天愚孔平とは

江戸時代の奇人・天愚孔平とは

画像 : 千社札(会津さざえ堂) wiki cc

天愚孔平(てんぐこうへい)とは、江戸時代中期から後期にかけて「江戸随一の大ボラ吹きの奇人」として知られた人物である。

彼は松江藩江戸詰めの300石取りの武士であり、医者・儒学者・書家としても高名だった。藩医としての役割に加え、その博識さから松江藩内で一目置かれる存在であった。

孔平は奇妙な格好で神社や仏閣を訪れ、「自分の名前が書かれた千社札を貼って帰る」という奇行を繰り返していた。この行為がきっかけとなり「千社札の元祖」とも言われるようになった。

今回は「千社札の元祖、江戸随一の大ボラ吹きで奇人」と呼ばれた、天愚孔平の生涯について掘り下げていきたい。

大ボラ吹きの名前

天愚孔平は、享保18年(1733年)に松江藩松平家の藩医の息子として江戸の麹町で生まれた。

本名は萩野信敏(はぎののぶとし)、通称は「喜内(きない)」で、「鳩谷(きゅうこく)」という号でも知られていた。彼は出雲国松江藩松平家の300石取りの江戸詰めのれっきとした武士である。ここでは「天愚孔平」または「孔平」として記す。

孔平の生家は代々藩医を務めていたため、彼も医師であり、さらに儒学者として多くの著書を残し、優れた書家としても高名であった。

彼は松平宗衍公(天隆公)、治郷公(不昧公)、斉恒公(雪川公)という松平家の三代の文人・茶人大名に仕え、その愛顧を受け、徂徠学の末流(儒学者)として多くの著書を残した藩の重臣でもあった。

しかし、孔平は中年になると奇行が増え始めた。彼は大言壮語の大ボラ吹きとして知られ、「天狗」と呼ばれていたことから、自ら「天愚」と名乗った。

また、「私は孔子の子孫の娘と、平家の武士の間に生まれた子の子孫である」と胡散臭い出自を自称し、孔子の「孔」と平家の「平」を合わせて「孔平」とし、「天愚孔平」と名乗るようになったのである。

奇妙な格好と大ボラ

藩の重役でもある孔平は、家の中ではなぜか大きなかごの中で読書をしていたという。

江戸時代の奇人・天愚孔平とは

画像 : 天愚孔平イメージ by草の実堂

外出する際には、晴れの日でも雨合羽を着込み、ボロをまとい、腰には拾った草鞋(わらじ)を何足もぶら下げるという、かなり異様な格好で平然と町を歩いていた。

さらに孔平は「長寿の秘訣」として、どんなに悪臭を放っても風呂に入らなかった。
そのため、女性や子供たちは彼を嫌がり、孔平が立ち去った後は箒でその跡を掃いたという。また、「熱い物を食べないこと」「女性と交わらないこと」「風呂に入らないこと」を長寿の秘訣として挙げていた。

年齢についても見た目からは判断しづらく、「何歳ですか?」と聞かれると「私は百歳だ」とホラを吹いていたという。

しかし、孔平は妻との間に九人の子供をもうけていたため、九番目の子供ができた後から女性と交わらなくなったのか、どこまでが本当でどこからがホラなのかは不明である。

このような奇行と大言壮語のため、江戸の人々は孔平を本当の「奇人」として見ていた。

千社札の元祖

千社札(せんじゃふだ)とは、神社や仏閣を訪れた記念として貼られるもので、自分の名前や住所が書かれたお札のことである。

このお札は、「せんしゃふだ」や「おさめふだ」「納札(のうさつ)」とも呼ばれている。

天愚孔平は、若い頃から時間があると江戸近郊の寺社を訪れ、記念に柱や壁に自分の名前を落書きしていたという。
しかし、次第に筆で書くのが面倒になり、「鳩谷天愚孔平」と大書した木版を大量に刷り、それを貼るようになった。これがきっかけで、千社札の習慣が広まり、千社札ブームが発生したとされている。

また、孔平は千社札を剥がされにくい高さに貼るなど、様々な工夫をした人物でもあった。この影響で、各地に千社札を貼るグループが生まれ、彼らは競い合うように千社札を貼り合った。

寛政11年(1799年)には、町奉行から「千社札の禁令」が出されたが、この習慣が完全に廃れることはなかった。

天保年間(1831年~1845年)になると、千社札は錦絵を16分割した短冊形の規格が作られ、錦絵と区別するために枠が入れられるようになった。

このように、天愚孔平の影響は後の千社札文化にも大きく貢献したのである。

おわりに

現代ではシール形式の千社札が普及しているが、その起源は江戸の奇人であり大ボラ吹きの天愚孔平であった。

曲亭馬琴の「兎園小説別集」には、馬琴が孔平に取材して書いた「天愚孔平伝」が収められており、この本が広く読まれたことで「天愚孔平」の名はさらに世間に知れ渡ったのである。

参考 : 『天愚孔平伝』他

 

アバター

rapports

投稿者の記事一覧

草の実堂で最も古参のフリーライター。
日本史(主に戦国時代、江戸時代)専門。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 江戸時代の蕎麦(そば)はどのようなものだったのか?
  2. 江戸時代の庶民はどうやって暇つぶしをしていた? 「泰平の時代」
  3. 【勘違いで人を殺した稀代の天才】 殺人罪で投獄された平賀源内の意…
  4. 江戸を席捲した九州の怪物剣豪・大石進 「天保の三剣豪」
  5. 【江戸の三大俳人】小林一茶はとんでもない性豪だった 「妻との営み…
  6. 北辰一刀流 〜坂本龍馬も学んだ幕末最大の剣術流派
  7. 蘆名義広【角館城下町を築いた浮き沈みの激しい人生を生きた武将】
  8. 二条城会見について解説「家康が驚異に感じた豊臣秀頼の才」

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

川中島の戦いの真実 ②「実は経済戦争だった」

川中島の戦いの真実5回に渡って行われた「川中島の戦い」この合戦の後に、信玄と謙信…

実体験 【100円ショップ】買って損するもの 7選

最近の100円ショップは実に品揃えが豊かで、商品の入れ替えも早い。そのせいか、使い勝…

♪味よしのう~り売り…豊臣秀吉たちが繰り広げた仮装パーティ「瓜畑遊び」【どうする家康】

NHK大河ドラマ「どうする家康」、皆さんも楽しんでいますか?筆者もこの先どんな展開になること…

台湾の人気レトロ観光地~ 眷村とは 「かつての国民党軍の宿舎群」

眷村とは眷村(ケンソン)とは、台湾政府が中国からやってきた外省人に与えた土地と家が密集し…

ネアンデルタール人と私たちの歴史 「そしてヒトが生き残った」

この世界に人種は様々です。「我々日本人と外国人」との違いといった本は沢山あります。違いを追い…

アーカイブ

PAGE TOP