戦国時代

「織田信長 VS 伊賀忍者」 天正伊賀の乱について解説

暗躍した忍者たち

群雄割拠の戦国時代、歴戦の戦国武将たちの影には不思議な呼び名を持つ者たちがいた。

上杉謙信には「伏齅(ふしかぎ)」、武田信玄には「透波(すっぱ)」、北条氏康には「乱波(らっぱ)」、裏で活躍した忍び(忍者)たちである。

戦国時代、飛ぶ鳥を落とす勢いがあった織田軍団が忍者の里である伊賀に向けて出兵したが、まさかの大敗北で撤退したという。
一体忍者たちはどんな手を使って織田軍団を撤退させたのか?そして撤退後、雪辱戦に挑んだ織田軍団は今度はどのような戦術を用いたのだろうか?

今回は「信長VS忍者」天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)について解説する。

伊勢・伊賀の状況

天正伊賀の乱について解説

剣豪大名として知られた北畠具教

三瀬の変

永禄12年(1569年)天下統一を狙う織田信長は伊勢国への侵攻を開始した。

伊勢国の国司・北畠具教(きたばたけ とものり)は武勇に優れた剣豪大名として知られ、剣聖・塚原卜伝ともう一人の剣聖・上泉信綱から免許皆伝を授かった剣の使い手であった。

剣豪・剣客たちが全国から北畠具教の館を訪れ、塚原卜伝、上泉信綱、柳生石舟斎宝蔵院胤栄、疋田農五郎、丸目蔵人など名だたる剣豪たちが集まった。
当然家臣たちも剣術を指南されて腕前は上がり、信長たち織田軍団に対して激しい抵抗をした。

そこで信長は和議のために次男・信雄(のぶかつ)を北畠具教の養子として縁組をさせた。

その後、北畠信雄(織田信雄)は信長や北畠家の一部の重臣たちと計り、養父・具教を騙し打ちで襲撃して子供を含めた北畠一門をほぼ皆殺しにした。北畠家は根絶やしにされ織田家は伊勢国を完全に手中にする。(三瀬の変
その際、具教は太刀を手に敵兵19人を斬り殺し100人以上に手傷を負わせて、最期は石垣に飛び上がりケガをしていないことを確認してから自害したという。(裏切った家臣に刀を細工され何も出来ずに殺されたという説もある)剣道大名の壮絶な最期であった。

忍の里と呼ばれた伊賀国

天正伊賀の乱について解説

伊賀国 wiki c Outside147

その信雄が次に狙いを定めたのが「忍びの里」と呼ばれた隣国・伊賀国である。
当時の伊賀国は守護・仁木氏の影響力が弱く、国人衆と呼ばれる土豪たちの支配下にあった。

伊賀国は忍びたち(忍者)を多く輩出し、伊賀の里には現在でも高さ3mを超える土塁が数多く残っている。
つまり戦国大名の城のような屋敷が当時の伊賀にはたくさんあったのだ。
伊賀国だけでその数は650以上もあったという。

伊賀は大名の支配を受けることなく自治独立を守ってきた。
伊賀国には厳しい5つの定めがあったとされている

○他国が攻めて来た時には国全体で防衛すること。
〇敵が攻め入って来た場合は里々で鐘を鳴らし、武器・兵糧を用意して城の入 口近くに陣を敷くこと。
〇17~50歳までの男は戦に参加すること。戦が長期化した場合はチームを編成して交代しながら戦に備えること。
〇他国の侵入を手引きまたは内通した者は討伐され領地を没収する。
〇陣内では味方同士で乱暴は働かないこと。

文献によると伊賀衆は農作業の後に「密謀通力(みつぼうつうりき)」を行っていた。
その「密謀通力」が忍びの術だとされている。

そんな伊賀を疎ましく思っていた男が、天下統一を目指していた織田信長である。
近畿一帯を手中にしていた信長だが、伊賀とその隣国の甲賀には手を出せずいたのだ。

第一次天正伊賀の乱

天正6年(1578年)2月、伊賀国の日奈知城主・下山平兵衛が信雄のもとを訪れて伊賀国への手引きを申し出た。
信雄は北畠具教が隠居城とした丸山城の修築を命じた。その城は3層の天守や天守台は石垣で固められ、二の丸への登城道は9回折れているという壮大な城であった。

これを知った伊賀衆たちは「完成までに攻撃すべし」と意見が一致。
丸山城の周辺に集まった伊賀衆たち忍者軍団は総攻撃を開始し、不意をつかれた織田方は伊勢に敗走した。

天正伊賀の乱について解説

織田信雄画像

翌天正7年(1579年)9月、信雄は信長に相談もせずに独断で8,000の兵を率いて伊賀攻略を開始した。
信雄軍が3方から伊賀に侵攻したが、山の中で待ち伏せをしていた伊賀衆たちは弓・槍・鉄砲などで奇襲し波状攻撃を仕掛けた。さらに夜襲や松明を用いた錯乱作戦、地形を活かした攻撃などで信雄軍の戦死者は2~3日で数千人にも及んだ。

信雄は命からがら伊賀から伊勢に逃げ帰ったという。

信雄が無断で伊賀に侵攻し、さらに大敗北を喫したことを知った信長は「親子の縁を切る」と書いた書状をしたためるほど大激怒した。
この敗戦を受けて信長は忍者に対し強い警戒心を抱き、後の第二次天正伊賀の乱に繋がっていくこととなる。

第二次天正伊賀の乱

天正9年(1581年)9月、信長は本格的に伊賀討伐に乗り出した。信雄を総大将に据えたその軍勢はなんと約5万の大軍勢であった。

信雄の他に丹羽長秀滝川一益蒲生氏郷、筒井順慶、脇坂安治浅野長政堀秀政ら織田家臣団の名だたる重臣たちがその軍に加わった。
前回の反省を活かし、今回は多方面からの一斉攻撃という作戦を取った。

迎え撃つ伊賀衆は連絡を密にして連携する必要性に迫られた。

天正伊賀の乱について解説

狼煙 イメージ画像

そのため伊賀衆が使ったのは「狼煙(のろし)」という伝達方法である。
狼煙のネットワークは南北14kmまでに及んだという。狼煙には2種類あり、煙の色と煙の臭いがあったとされている。

伊賀衆は野営していた蒲生氏郷隊や筒井順慶隊に夜襲をかけるなどで応戦した。
しかし、数の力は圧倒的で伊賀衆の中には織田軍に内通する者も多かった。
彼らは険しい山道の道案内をして、織田軍を伊賀領内に導いた。

そんなこともあって織田軍は伊賀領内に侵攻、その攻撃はまさに苛烈で一軒残らず焼き払い、男女の差別なく殺害した。
伊賀全体で9万の人口のうち、非戦闘員を含む3万人余りが殺害されてしまったという。

織田軍が総攻撃をかけようとした前日に、伊賀衆は伊賀国の南にある柏原城に約1,600人で籠城した。
織田軍約5万の軍勢は各地で進撃し伊賀国をほぼ制圧して柏原城を包囲した。

包囲された伊賀衆は大きな決断を迫られた。
籠城して徹底抗戦」「降伏」「脱出」この三案の中から伊賀衆は協議した。

そしてなんと伊賀衆は「脱出」案を選択。籠城から10日以上たった夜に柏原城から数人の伊賀衆が抜け出した。
彼らは周辺にいた農民たちと連携して可能な限りの松明に火をつけた。
それを見た織田軍は「数千の援軍が来た」と思い込み一時大混乱となった。

その隙に女・子供が脱出する手はずであったが、織田家の重臣・丹羽長秀はその計略に気付き、織田軍の混乱を終息させてしまった。
伊賀衆の脱出作戦は失敗に終わり、柏原城は開城して降伏した。

伊賀の長きに渡った自治独立はここに消滅したのである。

信長を狙撃

信長の命で伊賀の各地の城は焼かれ、神社・仏閣は破壊され、しかも男女の差別なく大勢が処刑されてしまった。

それから数日後、信長は検分のために伊賀に入った。
山の上から伊賀国を見下ろしていると、数発の銃弾が信長めがけて発砲された。

発砲したのは伊賀忍者の残党で火縄銃の名手・音羽の城戸(おとわのきど)だとされている。
しかし、弾丸はいずれも信長をはずれ、忍びの者たちはすぐに行方をくらました。

忍者たちのその後

翌年の天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変によって信長は横死。
第二次天正伊賀の乱からわずか8か月後であった。

信長の死後、天下人は豊臣秀吉から徳川家康へと変わり、戦乱の世はようやく終わりを迎えた。
そして家康は伊賀の忍びたちに目をつけた。

家康より預けられた伊賀衆と甲賀衆を指揮していた服部半蔵(正成)

家康の家臣・服部半蔵のもとでまとめられた伊賀忍者たちは、将軍家の隠密や江戸城の警備などをした。

伊賀忍者の評判を聞いた全国の諸大名たちは彼らを雇い入れ、諜報活動や藩主の身辺警護などをさせた。

おわりに

忍者に対して魅力や神秘性を感じている人は多いはずだ。

筆者もその中の1人であり、忍者の中にはたった1人でも大名の命を狙うなど、高度なスキルと果敢な勇気を持ち合わせていた者もいた。
戦国の覇王と呼ばれた信長でさえ伊賀や甲賀になかなか手を出さなかったのは、彼らの強さを知っていたからだ。

だから独断で攻め込んだ信雄に大激怒し、次の戦いには重臣の丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷といった歴戦の猛者をつけた。

歴史の影で暗躍した忍者たちの魅力は、これからも語り継がれていくだろう。

 

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コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2023年 2月 27日 8:06pm

    この戦いで信雄はバカ殿的な感じになったんだよね。

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  2. アバター
    • 名無しさん
    • 2024年 7月 24日 8:04pm

    京都や奈良からの直線距離は近くとも、五機内や伊勢国から入るには
    狭隘な悪路しかない>また、盆地内も丘陵地や雑木に阻まれ、
    簡単に連絡はとれなかったはず

    ちなみに、「延喜式」の時代、四等級ある
    大国>上国>中国>下国区分では、伊勢は大国、伊賀は下国だった。
    こんな陸の孤島のようなへき地を
    わざわざ攻略するのは割に合わないから空白地になっていたと
    結論するのが本来。

    つまり、土豪衆が砦を築いてはいても
    実態は 数万の正規軍を跳ね返すような堅牢な城など
    初めから造りようがなかったといえる。実際、ひと月足らずで粉砕された。
    一貫して大した富も武力もなかった小国なのに、信長が”恐怖した”とか馬鹿も休み休み言えという話。

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