光る君へ

【光る君へ】 藤原彰子に仕えた小馬命婦(清少納言の娘)〜どんな女性だった?

平安文学を代表する随筆の一つ『枕草子』。その作者として知られる清少納言には、一男一女がありました。

息子は先夫・橘則光(たちばなの のりみつ)との間に生まれた橘則長(のりなが)、娘は後夫・藤原棟世(むねよ)との間に生まれた小馬命婦(こまのみょうぶ)。

どちらも母親の才知を受け継いだそうですが、子どもたちはどんな活躍をしたのでしょうか。

今回は清少納言の娘・小馬命婦を紹介したいと思います。

小馬命婦の生い立ち

小馬命婦

無邪気な子供時代(イメージ)

小馬命婦は生年不詳、清少納言が藤原棟世と再婚したのが寛和2年(986年)ごろと考えられるため、これ以降に生まれたのでしょう。

また、清少納言が中宮の藤原定子(ていし/さだこ)に出仕したのが正暦3年(993年)なので、これより前には生まれているはずです。

よって、小馬命婦の生年は寛和2年(986年)から、正暦3年(993年)の8年間に絞り込めます。

そんな小馬命婦ですが、これはいわゆる女房名。現代でいうビジネスネームで、本名ではありません。

幼名は狛(こま)で、これは催馬楽(さいばら : 俗謡)の一節である

♪山城の狛のわたりの瓜つくり な なよや らいしなや さいしなや……♪

【意訳】山城国の狛の渡り(京都府木津川市上狛あたりを流れる川の渡し口)に住む瓜農家には、礼紙(らいし。恋文などを包む紙)も釵子(さいし。女性に贈るかんざし)もない……。

から名付けたのではないかと考えられています。

昔の人は変な幼名をつけることが多いですが、これはふざけているのではなく、魔物にさらわれるのを防ぐ工夫。

「人間ではないから(この場合は狛=霊獣だから)、どうか連れて行かないで=とり殺さないで下さい」というおまじないなのですね。

ついたあだ名は仔馬ちゃん?

小馬命婦

藤原彰子。『紫式部日記絵巻』より

成長した狛は、寛弘5年(1008年)に中宮・藤原彰子(上東門院)の女房として出仕しました。

「狛ちゃんなら、前にいらした小馬命婦にあやかって、その名前にしたらどうかしら?」

先輩女房がそう言ったのかどうか、ともあれ狛は同じ音の小馬命婦と呼ばれるようになったのです。

同じ名前で紛らわしいため、構成の人々は主君・彰子の院号を冠して上東門院小馬命婦と呼びます。

先輩女房の一人に紫式部がおり、紫式部日記の中では「こむま(仔馬)」「こまのおもと」などとも呼ばれました。

「仔馬ちゃん」「コマちゃん」といった感じで親しまれ、みんなと仲良く働いていたのかも知れませんね。

ただし『紫式部日記』に登場する「こむま」は「左衛門左(左衛門佐)道順の女」と書かれており、別の人物説もあります。

あるいは実父の没後、高階道順(たかしな みちのぶ。高階貴子の兄弟)に養子入りしたという説もあるとか。

藤原棟世の没年は長保3年(1001年)ごろと推定されているので、世間には高階道順の娘として認識されていたのかも知れませんね。

仔馬ちゃんの毅然たる態度

小馬命婦

小馬命婦の和歌。娘を粗末に扱った男を決して許さない決意が垣間見える(イメージ)

その後、小馬命婦がどうなったのか、詳しいことは分かりません。

ただし娘が一人以上いたことが分かっており、『後拾遺和歌集』にこんなエピソードが伝わっています。

娘は高階為家(たかしなの ためいえ。紫式部の孫)と交際していたようですが、何ゆえか口論となり、疎遠になっていました。

それがある時、為家が葵の枝を持って娘を訪れたのです。上賀茂神社の葵祭にこと寄せたのでしょう。

しかし娘は面会謝絶、小馬命婦はこんな和歌を詠んで渡しました。

その色の 草とも見えず 枯れにしを
いかに言ひてか けふはかくべき

【意訳】その葵の枝はすっかり枯れているようですが、今日はその言い訳に来たのですか?

つまり「今さら何をしに来た。何を言おうが娘は渡さぬ。とっとと帰れ!」と突き返したのです。

娘もいい歳でしょうに、母といえども男女の仲に割って入るとは、よほど夫に非があったものと思われます。

かつての仔馬ちゃんも、母となってたくましく成長したのでした。

終わりに

為家朝臣、物言ひける女にかれがれに成りて後、日暮にはと言ひて、葵をおこせて侍ければ、娘に代はりて詠み侍りける 小馬命婦 その色の 草ともみえず 枯れにしを いかに言ひてか 今日はかくべき

※『後拾遺集』908番

以上、清少納言の娘・小馬命婦について紹介してきました。

【小馬命婦・略年表】

  • 生年不詳 清少納言と藤原棟世の娘として誕生
  • 長保2年(1000年) 母の主君・藤原定子が崩御。母子ともに棟世の元へ
  • 長保3年(1001年)ごろ 父・藤原棟世が亡くなり、高階道順の養女となる?
  • 寛弘5年(1008年) 一条天皇の中宮・藤原彰子に出仕する
  • 時期不詳 娘を出産
  • 時期不詳 娘が高階為家と結婚、しかし後に疎遠となる
  • 時期不詳 上賀茂神社の葵祭にことよせて娘を訪れるが、これを拒絶する
  • 没年不詳

可愛らしいあだ名とは裏腹に、母親譲りの才知と気風を受け継いだようです。

果たしてNHK大河ドラマ「光る君へ」には登場するのか分かりませんが、今から活躍の可能性を楽しみにしています!

 

角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【光る君へ】 紫式部が源氏物語の着想を得た「石山寺」 魅力あふれ…
  2. 【光る君へ】 紫式部や藤原道長が活躍した平安京 「全ての遺構が地…
  3. 【光る君へ】刀伊の入寇で受けた被害はどれほど?藤原実資『小右記』…
  4. 【光る君へ】 まひろ(紫式部)が生きた平安時代 「全く“平安”で…
  5. 【光る君へ】 道長の陰謀?「光少将」藤原重家が出家した理由とは
  6. 娘は殺され妻は犯され…紫式部の異母弟・藤原惟通とは何者か 【光る…
  7. 【光る君へ】実はハラスメントだらけだった平安貴族の宴
  8. 【光る君へ】 地方の最高責任者「受領」とは? 「治安の悪化と武士…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

『ロシア史上最も恐れられた皇帝』イヴァン雷帝の凶暴すぎた治世 〜怒りの果てに皇太子も犠牲に

イヴァン4世(1530年〜1584年)は、ロシア史において極めて特異かつ重要な位置を占める君…

徳川家康の長男・松平信康は、なぜ切腹させられたのか? 「様々な説」

今回はNHK大河ドラマ『どうする家康』で注目が集まった、家康の長男・松平信康が切腹させられた…

宛て先不明の手紙が集まる「漂流郵便局」とは 【手紙の出し方】

会うことは難しくても、どうしても伝えたい想いを言葉にして届けたい。大切な人との別れを…

【大坂夏の陣】14歳が二度あるか! 初陣で男泣きした徳川頼宣(家康十男)のエピソード【どうする家康】

NHK大河ドラマ「どうする家康」皆さんはどうでしたか?何やかんやであっという間の一年間でした…

70年以上「鉄の肺」と共に生き抜いた弁護士 〜ポール・アレクサンダー

あなたはポリオという感染症をご存じだろうか。安全性の高いポリオワクチンが普及した現代…

アーカイブ

PAGE TOP