安土桃山時代

脇坂安治 – 日本より韓国で有名な豊臣の水軍大将

脇坂安治

※脇坂安治像

脇坂安治とは

脇坂安治(わきざかやすはる)とは「賤ヶ岳七本槍」として武功を挙げてその名を知らしめ、豊臣水軍の中心人物として秀吉の天下取りに貢献した武将である。

浅井長政・織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・徳川家康と、時代の流れを読んで主君を変えながら戦国時代を生き残った武将・脇坂安治について追っていく。

明智光秀を助ける

脇坂安治(わきざかやすはる)は天文23年(1554年)近江国浅井郡脇坂村(現在の滋賀県長浜市)の脇坂安明の長男として生まれる。
しかし、本当の父は田村孫右衛門だとされていて、母が再婚して脇坂家の長男として育つ。

最初は地元の浅井長政に仕えたが、浅井家が織田信長によって滅亡させられたために、織田家に属して明智光秀の与力となる。
その後、16歳で初陣を迎えた安治は自らの意志で、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣となった。

脇坂安治

※明智光秀

信長の命で丹波平定を行っていた明智光秀は黒井城主・赤井直正に苦しめられて丹波の平定を出来ないでいた。

秀吉の命を受けた安治は、赤井直正に対して開城の説得をするという重要な仕事を任せられた。

赤井直正は「丹波の赤鬼」と呼ばれた勇猛な武将で、簡単には説得に応じなかった。
だが、単身で黒井城に乗り込んできた安治の勇気に感服し、赤井家の家宝「貂(てん)の皮」を与えたという。

現在も安治を祀る龍野神社(兵庫県たつの市)には宝物として「貂(てん)の皮」が納められている。

そんな安治の活躍もあり黒井城は落城となって、安治は光秀の丹波平定を助けた。

その後も秀吉の下で三木城攻め・神吉城攻めなどに従軍して天正4年(1576年)に150石を与えられている。

賤ヶ岳の七本槍

脇坂安治

※『賤ヶ嶽大合戦の図』 賤ヶ岳の戦いの錦絵。

秀吉の下で中国大返し山崎の合戦などに従軍し、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで武功を挙げて加藤清正福島正則・片桐且元・加藤嘉明・平野長泰・糟屋武則らと共に「賤ヶ岳の七本槍」と称されて山城国宇治に3,000石を賜っている。

この時、安治は30歳。七本槍の中では一番の年上で、柳ケ瀬で柴田勝家の甥・柴田勝政を討ち取ったと言われている。
この戦いで柴田勝家に勝利した秀吉は、一気に天下取りへと向かうことになる。

小牧・長久手の戦いでは伊賀上野城の攻略という武功を挙げて、天正13年(1585年)には淡路洲本3万石を与えられている。

安治は淡路水軍を吸収して水軍の本拠地として洲本城を改修し、豊臣水軍の指揮官を加藤嘉明や九鬼嘉隆らと務める。

その後、水軍を率いて九州征伐・小田原征伐・朝鮮出兵などで戦果を挙げていった。

小田原征伐では、海上から伊豆下田城を攻め落とすという手柄を立てている。

朝鮮出兵(文禄の役)では、安治率いる日本水軍は当初朝鮮水軍をあっさりと撃退させた。
しかし秀吉から「朝鮮水軍を壊滅させよ」との命が下ると、功を焦った安治は九鬼軍や加藤軍らを待たずに自分の水軍のみで独断で出撃してしまう。
そして相手の誘導作戦にまんまと引っかかってしまい、この時に日本軍は59もの船を失い大敗した。

その後、秀吉からの戦術変更命令による水陸防御作戦を行い、朝鮮軍の侵攻を何度も阻む活躍をする。また陸軍としても功績を上げている。

慶長の役にも再び水軍を率いて活躍するも、秀吉が亡くなって帰国している。

関ヶ原の戦い

脇坂安治

徳川家康

秀吉の死後、安治は徳川家康につくことにした。

前田利家と家康が一色触発状態になった時に、安治は徳川邸に駆けつけ家康指示の態度を見せている。

家康の会津征伐の時には次男・脇坂安元を参陣させようと向かわせたが、石田三成に妨害されてしまい大坂に引き返すことになってしまう。
家康には書状を送ってことの成り行きを説明し、味方になる意志を伝えている。

家康からは忠節へ感謝する旨の書状が届くが、安治が大坂にいた時に三成が挙兵しために仕方なく約1,000の兵で西軍につくこととなる。

関ヶ原の戦いでは1,000の兵で西軍として松尾山のふもとに陣取る。

<関ヶ原の戦い 布陣図>戦国時代勢力図と各大名の動向ブログより

西軍の小早川秀秋は開戦前から家康との内通を疑われており、安治はそれに対処するために朽木元綱・小川祐忠・赤座直保と共に小早川軍の近くに配置されたのである。

しかし安治は小早川秀秋が裏切ったのに呼応し、3将と共に隣にいた西軍の大谷吉継らの軍を攻めて東軍の勝利に貢献する。
関ヶ原の戦いの後には三成の居城・佐和山城攻めにも参陣している。

関ヶ原の戦後処理では処分を受けずに所領安堵となった。一緒に陣取りをしていた3将らは減封や改易となったが安治は家康に許されている。
たまたま大阪にいた時に三成に妨害されて仕方なく西軍についたことが考慮されたのだ。

晩年

慶長14年(1609年)伊予大洲藩(現在の愛媛県大洲市)53,500石に加増移封となって城下町や城の改修などを行う。

脇坂安元

大坂の陣では次男・安元を参陣させて徳川への忠義を見せ、元和元年(1615年)には安元に家督を譲って隠居した。

隠居してからは京都に住み剃髪して臨松院と号して寛永3年(1626年)8月6日に死去。享年73歳であった。

浅井長政・織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・徳川家康と主君を変えながら生き残り、淡路島の洲本城や伊予の大洲城など、海に近い城づくりにも才能を見せている。

豊臣恩顧の大名であるために関ヶ原の戦いで寝返ったことで裏切り者ともされたが、「生きるため・お家のため」にリアリストな生き方をしたと言える。

韓国で知名度の高い 脇坂安治

脇坂安治は若くして明智光秀を補佐し、黒井城攻めでは敵将の赤井直正からその剛勇さを称賛された。
そんな安治の才を見抜いた豊臣秀吉から水軍の司令官に抜擢され、海上から秀吉の天下取りを支えた。

朝鮮出兵において豊臣水軍の司令官として暴れ回った姿が韓国の歴史ドラマ「不滅の李舜臣」で大きく取り上げられ、脇坂安治は日本よりも韓国で知名度が高く人気がある。主人公の李舜臣の好敵手として、単に悪役としてではなく愛嬌のある魅力的な演出をされている。

韓国においては平均的に知られている日本の武将は5人で、豊臣秀吉、加藤清正、小西行長、徳川家康、脇坂安治である。

その後、脇坂家の家督を継いだ安元には子供ができず、当時の老中・堀田家から養子を迎え、準譜代の大名となり脇坂家は明治維新まで続いている。

勇猛果敢な武将・脇坂安治は、誰についていけば戦国時代を生き抜くことができるか見極める才を持った人物であった。

 

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