仏教伝来と蘇我氏と物部氏の争い

画像 : 百済(くだら)の位置 Historiographer CC BY-SA 3.0
6世紀半ば、百済から日本へ仏教が伝えられました。
それは単なる新しい信仰ではなく、寺院建築や仏像制作などの技術をともなう当時最先端の文化でもありました。
これを積極的に受け入れようとしたのが蘇我稲目(そがのいなめ)であり、在来の神々への祭祀を重んじ、受け入れに慎重だったのが物部尾輿(もののべのおこし)です。
両者の対立は、崇仏か廃仏かという宗教上の争いだけではありませんでした。
朝廷内で主導権を握ってきた物部氏と、仏教受容を通じて勢力を伸ばそうとする蘇我氏との、政治的な争いでもあったのです。
蘇我馬子・厩戸皇子(聖徳太子)と物部守屋の決戦

画像:蘇我氏の全盛期を築いた蘇我馬子 public domain
蘇我氏と物部氏の対立は、蘇我稲目の子である蘇我馬子(そがのうまこ)と、物部尾輿の子である物部守屋(もののべのもりや)の代にまで引き継がれ、さらに激しさを増していきました。
敏達天皇・用明天皇の時代には疫病の流行も重なり、崇仏か廃仏かをめぐる争いは、朝廷内の大きな火種となります。
やがて用明天皇が在位わずか2年で崩御すると、後継者争いも絡んでついに武力衝突となりました。
この戦いには、当時16歳であったとされる厩戸皇子(後の聖徳太子)も、蘇我馬子の側に立って加わりました。
戦場となったのは、現在の東大阪市・八尾市を含む中河内一帯とされます。
蘇我馬子と厩戸皇子の軍勢は、強力な物部軍を攻めあぐねて、3度も退却を余儀なくされました。
厩戸皇子も命を落としかねない状況に見舞われましたが、自ら四天王像を彫って勝利を祈願し、戦い続けました。
そして激戦の末、ついに蘇我方は物部守屋を討ち取り、物部方の勢力を破ったのです。
この戦いが丁未(ていび)の乱です。
勝利した蘇我馬子は、擁立していた泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位すると大臣となりました。
こうして蘇我氏は、朝廷内で大きな権力を握っていくことになります。
八尾市にある厩戸皇子ゆかりの大聖勝軍寺(太子堂)
先に厩戸皇子が命を落としかねない状況に陥ったと記しましたが、その舞台とされるのが大阪府八尾市太子堂町にある、大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)です。

画像:大聖勝軍寺 南門と太子堂 筆者撮影
寺伝によれば、厩戸皇子は物部氏に追い詰められ、取り囲まれて絶体絶命の窮地に陥りました。
その時、そばにあった椋の木に寄りかかると幹が割れて開き、皇子はその割れ目に身を隠したことで九死に一生を得ます。
苦闘の末に守屋方を破った厩戸皇子は、二度とこうした悲惨な戦いが起こらないことを祈願し、助けられた椋の木のあった場所に太子堂を建立した、と伝えられます。
また、後に推古天皇が厩戸皇子を守った椋の木を称賛し、山号として「神妙椋樹山(しんみょうりょうじゅさん)」、さらに皇子が勝利をおさめたことから、寺号として「大聖勝軍寺」の名を贈ったとされています。
現在の大聖勝軍寺

画像:厩戸皇子と四天王の石像 筆者撮影
この逸話に強く興味を惹かれた筆者は、現在も残る大聖勝軍寺を訪ねてみました。
現在の大聖勝軍寺は真言宗の寺院で、境内には厩戸皇子にまつわる伝承や、敗れた物部守屋に関係するスポットが残されています。
南門の前には、厩戸皇子と四天王の石像が建てられています。
門をくぐると、厩戸皇子が建立したと伝えられる太子堂があり、如意輪観音像が祀られています。

画像:太子堂 筆者撮影
太子堂のすぐ南側には、皇子を守ったと伝えられる椋の大木が神木として祀られています。
また境内には、16歳の厩戸皇子像と物部守屋像が共に安置されている「平和塔」や、物部守屋の首を洗ったと伝えられる守屋池など、見どころが数多く残されています。

画像:椋の神木 筆者撮影

画像:守屋池 筆者撮影
この寺院にいると、厩戸皇子が若くして戦った時代に自然と意識が引き込まれていきました。
寺を出てバス停へ向かう途中には、物部守屋の慰霊碑もあります。
厩戸皇子の勝利を伝える寺のそばに、敗れた守屋を慰霊する碑も残されていることに、敗者にも祈りを向けてきた日本人の歴史観が表れているように感じました。
参考 :『日本書紀』八尾市「大聖勝軍寺」他
文:撮影 / 草の実堂編集部

























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