弥生&古墳時代

卑弥呼はただの巫女ではなかった?魏と呉を翻弄した邪馬台国の外交戦略

邪馬台国の女王・卑弥呼というと、どのような印象を持つ人が多いだろうか。

中国史書に「鬼道をよく使う」と記されたことから、宮殿の奥深く、薄暗い場所に座し、得体の知れない占いをしている、そんな姿を思い浮かべる人も少なくないかもしれない。

ところが近年の研究では、従来の卑弥呼像をがらりと変えるような説が唱えられている。

本稿では、中国三国時代の魏・呉・蜀と卑弥呼の関わりに注目し、その実像を考察してみたい。

三国志の時代と邪馬台国の成立期が重なる意味

画像 : 曹操 public domain

2世紀末から3世紀前半にかけて後漢が衰退し、やがて魏・呉・蜀の三国が並び立ち、互いに覇を競う時代を迎えた。

日本でも人気の高い、曹操(魏)、孫権(呉)、劉備(蜀)が登場する『三国志』の舞台である。

曹操は220年に死去するが、孫権と劉備はなお健在だった。
この220年という年は、日本においては倭国大乱を経て邪馬台国が成立し、倭国連合の中心として存在していた時期とほぼ重なる。

こうした国際情勢のなかで、邪馬台国と密接な関係を築こうと積極的に動いたのが魏であった。

『三国志』で有名なのが、208年に起きた赤壁の戦いである。
後漢の実権を握っていた曹操が、圧倒的な大軍を率いながらも劉備と孫権の連合軍に大敗を喫した戦いだ。

当時、曹操の勢力は孫権や劉備と対峙しながら、遼東や朝鮮半島方面の情勢にも対応しなければならない立場にあった。

曹操の死後、その子・曹丕(そうひ)が魏王の位を継ぎ、やがて後漢から禅譲を受けて皇帝となる。
しかし曹丕は、呉・蜀との戦いで決定的な優位を築けぬまま、在位わずか6年で死去する。

その後を託されたのが、子の曹叡(そうえい)と、曹操の代から重用されてきた司馬懿(しばい)であった。

そしてこの司馬懿こそ、後に卑弥呼へ「親魏倭王」の称号を授ける魏の外交判断に、深く関わった人物である可能性が高いのである。

遼東半島をめぐる魏・呉・公孫氏の攻防

画像 : 公孫淵 public domain

237年、遼東半島に独立政権を築いていた公孫淵は魏に背き、翌238年、司馬懿は曹叡の命を受けて公孫淵を攻撃した。

『三国志』魏志東夷伝には、「倭や韓が帯方郡に従っていた」ことが記されている。
この帯方郡とは、公孫氏政権が設けたものだ。

遼東半島は、朝鮮半島と中国大陸の中間にある軍事・外交の要衝であり、極めて重要な地域だった。

それゆえに魏と呉が、遼東半島を押さえる公孫氏政権を味方に引き入れようとするのは自然な道理であった。

画像:帯方郡と朝鮮半島 public domain

232年、呉の孫権が使者を派遣し、公孫淵は呉に従う姿勢を見せる。

孫権は強力な水軍を背景に、海上から魏の背後を脅かす構想を持っていたとされ、そのために公孫淵に接近したのだ。

これを警戒した魏は公孫淵に圧力をかけ、呉から使者が来たら殺すよう命じた。
公孫淵は、これに従い呉の使者の首を刎ねている。

魏はそれでも公孫氏政権への圧力をやめなかった。
234年、長らく対決していた蜀の諸葛亮が死去すると、本格的に呉の影響力を遼東半島、朝鮮半島から駆逐しはじめたのである。

そして238年、ついに魏は4万の大軍を動かし、公孫淵を滅ぼした。
これにより、呉が海上から魏を挟撃する可能性は大きく後退した。

同時に魏は、倭を味方に引き入れることで、逆に呉の背後を牽制する構図を描くことが可能となったのである。

魏と呉を天秤にかけた卑弥呼の外交戦略

画像:伊都国との闘いに備え、兵士達を鼓舞する女王卑弥呼 public domain

このように考えると、倭を重要視しうる立場にあったのは、魏ばかりではなかったことが分かる。

当時の邪馬台国は倭国連合の中心ではあったが、決して安泰ではなかった。
南方の狗奴国との争いが続いていたからである。

ゆえに魏という大国の後ろ盾を得ることは、倭国内での優位を確立するうえで極めて有効だったはずだ。
魏の威光で狗奴国との争いを平定しようとしたのである。

ただ、卑弥呼は魏に対して邪馬台国を安売りせず、魏と呉の対立関係を巧みに利用する外交手段を取っていたと考えられる。

画像 : 孫権の肖像。周泰の武骨な忠義をこよなく愛した public domain

魏を海上から牽制するために、遼東半島へ使者を送った呉の孫権は、さらに東方の海上世界にも関心を向けていただろう。

兵庫県の安倉高塚古墳などから出土した呉系の鏡を、その手がかりとみる説もある。
つまり魏と呉の対立は、邪馬台国をめぐる外交にも影を落としていた可能性があるのだ。

卑弥呼はこうした国際情勢のなかで魏に使者を送り、倭国の立場を大きく引き上げた。
結果としてその選択は、魏にとっても邪馬台国にとっても大きな意味を持つ外交判断となった。

239年、卑弥呼の使者は魏の都・洛陽を訪れる。
このとき魏は卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印、多くの下賜品を与えた。

「親魏◯王」という称号が授けられた例はきわめて少なく、クシャーナ朝のヴァースデーヴァ王と、卑弥呼だけであったとされる。
これは単なる朝貢関係ではなく、魏にとって倭が戦略的に重要な存在であったことを示している。

卑弥呼は、魏と呉という二大国の力関係を見極め、邪馬台国の存在を外交上の切り札として生かすことで、破格ともいえる待遇を引き出したのではないだろうか。

だとすれば卓越した国際感覚と外交戦略を備えた女王だったといえるだろう。

※参考文献
NHKスペシャル取材班著 『新・古代史』NHK出版新書 他
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

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