天正元年(1573年)8月、織田信長が攻めて来たことと、一族の朝倉景鏡に裏切られたことで朝倉義景は自害。
ここに越前の戦国大名・朝倉氏は滅亡したのでした。
果たして越前国が織田家に掌握されたかと思えば、そう一筋縄では行かなかったのです。
今回は、朝倉滅亡後に勃発した越前一向一揆をわかりやすく解説。大河ドラマ「豊臣兄弟!」を楽しむご参考にどうぞ!
桂田長俊に国を任せるが……。

画像 : 桂田長俊に反感を覚える富田長繁(イメージ)
朝倉義景を滅ぼした信長は、越前国の支配を桂田長俊(かつらだ ながとし。前波吉継)に任せます。
この桂田は元朝倉家臣で、信長の侵攻にともない織田家へ寝返った一人でした。
しかし桂田は朝倉家中で地位が低かったことから、朝倉一門や朝倉旧臣たちから反感を買います。
中でも富田長繁(とんだ ながしげ)は桂田と犬猿の仲だったことから、下克上の機会をうかがうようになりました。
富田は越前国内を不満分子を煽り立て、年明けの天正2年(1574年)1月に土一揆を蜂起させます。
富田長繁の土一揆

画像 : 土一揆イメージ
挙兵からわずか1週間ほどで土一揆勢は桂田一族を討ち滅ぼし、また信長の代官ら(木下祐久・津田元嘉・三沢秀次)を追放し、越前一国の切取りに成功しました。
しかし、国内には人望に厚い魚住景固(うおずみ かげかた)がおり、富田は嫉妬と疑心暗鬼に駆られます。
魚住を生かしておけば、必ず自分の地位を脅かすに違いない……そんな思いから、富田は何の落ち度もない魚住父子を謀殺してしまいました。
この暴挙に土一揆勢は富田を見限り、わずか1か月ほどで富田政権は崩壊していくことになります。
以上が、越前一向一揆が勃発する背景となりました。
越前も「百姓の持ちたる国」へ
土一揆勢は隣国の加賀から、一向一揆の指導者として七里頼周(しちり よりちか)や杉浦玄任(すぎうら げんとう)らを招き、天正2年(1574年)2月に挙兵します。
総勢五万とも言われる一向一揆は、わずか1週間足らずで富田一派を滅ぼし、4月に入ると土橋信鏡(朝倉景鏡)らも血祭りに上げました。
5月には朝倉景綱(かげつな)が国を追われ、安居景健(あご かげたけ。朝倉景健)や朝倉景胤(かげたね)らは降伏。もはや一向一揆に逆らう者は残っていません。
かくして越前国は、加賀国と同じく「百姓の持ちたる国」すなわち守護・戦国大名もいない、百姓(一向一揆)が支配する国となったのでした。
政治腐敗で内部から崩壊

画像 : 民の暮らしを顧みない生臭坊主(イメージ)
一向一揆によって越前国を奪われてしまった信長ですが、当時の織田家は失地回復どころではありません。
武田氏との緊張、長島一向一揆、そして一向一揆の総本山である石山本願寺との抗争などに手一杯でした。
しかし、越前国内では七里頼周や下間頼照(しもつま らいしょう)らによる戒厳令が敷かれ、領民たちを搾取したそうです。
一向宗の信仰などどこへやら、権力をほしいままに私腹を肥やす指導者たちに、領民たちは失望したことでしょう。
そのため越前一向一揆は内部から崩壊し、一揆内一揆が勃発する異常事態に陥りました。
やがて態勢を立て直した信長は、天正3年(1575年)8月12日に岐阜を出立、8月15日に越前国へ攻め込みます。
信長の反撃で無間地獄に

画像 : 織田信長 public domain
内部から崩壊していた一向一揆勢はたちまち敗走し、七里頼周は加賀国へ逃亡。
越前の山中に潜伏していた下間頼照や下間頼俊(らいしゅん)らは安居景健によって討ち取られました。
※景健はその首級を手土産に再び信長に降伏しましたが、赦されずに自害させられます。
こうなるともう、後は阿鼻叫喚の無間地獄。信長は追撃を緩めることなく、一向門徒は老若男女を問わず斬り捨てるよう命じました。
降伏した者もことごとく処刑され、その数は一万二千人以上に及んだとされます。さらに奴隷として美濃や尾張へ護送された者も三万とも四万とも言われ、信長の弾圧は苛烈を極めました。
かくして9月には、越前国から一向一揆は一層され、越前一向一揆は収束を迎えたのでした。
越前一向一揆の略年表

画像 : 朝倉義景 public domain
天正元年(1573年)
・8月 朝倉氏が滅亡、桂田長俊が支配を任される
天正2年(1574年)
・1月 富田長繁が土一揆を煽動、桂田長俊を滅ぼして越前国を乗っ取る
・2月 土一揆が富田長繁を見限り、七里頼周らと一向一揆として蜂起、長繁を滅ぼす
・4〜5月 一向一揆が朝倉残党らを滅ぼし、越前国を支配する
天正3年(1575年)
・8〜9月 信長が越前国へ攻め込み、一向一揆が壊滅
【統治者の移り変わり】
・桂田長俊(約半年)
・富田長繁&土一揆(約1ヶ月)
・七里頼周&一向一揆(約1年半)
越前の支配体制を確立

画像 : 柴田勝家 public domain
かくして越前国を奪還した信長は、柴田勝家に北ノ庄城と七十五万石を与え、越前国を任せました。
また、勝家を補佐&監視させるため、前田利家・佐々成政・不破光治(ふわ みつはる)を府中三人衆として越前国府中に十万石を与えています。
他にも金森長近に三万石、原長頼に二万石を与え、越前国における支配体制を確立しました。
さらに信長自身による越前国掟を制定、北陸地方制圧の拠点として整備を進めたのです。
越前一向一揆まとめ
今回の越前一向一揆を通じて織田家の武威が示されると共に、石山本願寺から派遣された坊官支配が、越前の在地社会を十分にまとめきれなかったことも明らかとなりました。
やがて加賀国も天正8年(1580年)までにほぼ制圧され、越前から逃げ込んでいた七里頼周らも処断されることになります。
かくして長享2年(1488年)ごろから約百年にわたって続いた「百姓の持ちたる国」は滅亡、北陸地方に新たな時代が訪れたのでした。
この歴史的転換点が、大河ドラマ「豊臣兄弟!」ではどのように描かれるのか、注目していきましょう。
参考文献:
辻川達雄『織田信長と越前一向一揆』誠文堂新光社、1989年5月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部

























この記事へのコメントはありません。