
画像 : 大蘇芳年筆『徳川十五代記略』「神君大坂御勝利 首実検之図」。大坂夏の陣にて徳川家康が木村重成の首実検を行う場面。public domain
戦国時代、戦が終わると寺にはたくさんの首が並んだ。
泥と血にまみれた首は水で洗われ、髪を梳かれ、乱れた顔立ちまで整えられた。
必要があれば薄化粧も施され、身分の高い武将の首は白木の台に載せられ、名札が添えられる。
やがて大将がひとつずつ首を検分し、披露役が「これは誰それの首、討ち取ったのは誰それ」と読み上げる。
こうした首の検分は広く「首実検」と呼ばれ、軍法や作法のなかで細かく整えられていった。
いつから行われていたのか

画像 首実検 「真柴久吉武智主従之首実検之図」public domain
首実検は少なくとも鎌倉時代には史料上確認でき、武家社会のなかで定着していったとされる。
首を確認する行為は、やがて単なる検分にとどまらず儀式や作法をともなうものとなり、室町時代以降さらに形式化されていった。
江戸時代中期に編まれた地誌『雍州府志』には、首の扱いについて次のような説明がある。
敵の首を取ることを「取首」とし、敵が身につけていた兜や刀などを首とともに持ち帰ることを「分取」と呼ぶ。そして持ち帰った首を主君に見せることを「実検」、首の数を記した帳面を「首帖」という。
さらに首の扱いは相手の身分によって変わった。
敵将や貴人の首は「対面」、重臣や騎馬武者の首は「実検」、雑兵の首は「見知」と呼び分けられた。
大将の一族や幌武者など、重い身分の首は「検知」とされる場合もあった。
つまり、死んだ後であっても首には生前の身分が残っていたのである。だからこそ大将や貴人の首は丁重に扱われ、雑兵の首とは別の作法で確認された。
横取り、拾い首、偽装

画像:首を取ろうとかがみ込む兵士と、そのあいだに崩れていく隊列(※イメージ)
首が恩賞の根拠になる以上、そこには必ず不正が入り込む。
戦場に落ちていた首を拾い、自分が討ち取ったと申告する「拾い首」。仲間から首を譲り受け、自分の手柄として差し出す「もらい首」。さらに、身分の低い兵の首に兜や装束を付け替え、名のある武将の首に見せかける「作り首」もあった。
首実検はこうした虚偽を見抜くための場でもあったが、戦場の混乱のなかで切り取られた首が、誰のもので、誰が討ち取ったものなのかを判別するのは難しかった。
特に深刻だったのが、味方同士の首の奪い合いである。
自分が討った首を後から来た者に奪われたり、最初に斬りつけた者、とどめを刺した者のどちらの手柄かで揉めるなど、しばしば味方同士の火種にもなった。
武田家はこの問題に厳しく対処し、他人の首を横取りした者は、本人だけでなく妻子、妻子がいなければ親まで成敗すると定めている。
首にこだわりすぎると、負ける?
首取りは戦場において、もうひとつ致命的な問題を抱えていた。
敵を倒した直後に首を取ろうとすれば、その場にかがみ込んで刀で首を切り離し、持ち運ばなければならない。すると持ち場に穴が空き、隊列は乱れ、周囲の兵まで首取りに引き寄せられる。
さらに人間の頭は大きく決して軽くない。1人の首でさえ戦場で持ち運ぶのは容易ではなかったはずだ。
つまり個人の手柄を確保する動きが、部隊全体の動きを鈍らせてしまうのである。
この欠点を早くから意識していた人物として知られるのが、南北朝時代の武将・高師直(こうのもろなお)である。

画像 : 高師直騎馬像 public domain
師直は、足利尊氏の側近として戦場に立ち、建武5年(1338年)北畠顕家との戦いで「分捕切捨(ぶんどりきりすて)の法」を採用した。
これは討ち取った首をその場で抱え込まず、味方の確認によって戦功を申告できるようにした臨時の軍令である。首そのものを持ち歩く負担を減らし、大軍の動きを止めないための工夫だった。
実際、足利方の武将・吉川経久は、建武5年(1338年)7月の軍忠状で、奈良坂において敵1騎を討ち捨て、味方に見知させたと報告している。
首を持ち帰る代わりに、同じ戦場にいた者の確認を戦功申告の根拠にしたのだ。
このように首実検という制度は、武士の功名心を支える一方で、それをどこまで制御できるかという難題も常に抱えていたのである。
参考文献
鈴木眞哉『刀と首取り 戦国合戦異説』平凡社新書、2000年『雍州府志』『軍礼抄』他
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部
























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