安土桃山時代

豊臣秀長について調べてみた【豊臣政権を支えたナンバー2】

豊臣秀吉の片腕、豊臣秀長

血縁関係というものは時に残酷で時に頼もしくもある。
特に戦国時代は後継者争いや思想や立場の違いから血縁者同士の争いが絶えなかった。

しかし、血で血を洗う歴史である戦国時代にお互い助け合って功を立て続けた者たちもいた。
それは豊臣兄弟である。

今回は豊臣兄弟の中で、兄であり天下人でもある豊臣秀吉を支え続けた弟の豊臣秀長(とよとみひでなが)の生涯を追ってみたいと思う。

農民の日々から一転して武士になる

豊臣秀長

※豊臣秀長(羽柴秀長)豊臣秀吉の弟。

秀長は天文9年(1540)に尾張国(現在の名古屋)で産まれる。異父兄に秀吉がいるが、秀長が幼少期のころに出て行ったしまったため面識はあまりない。
秀吉との再会は秀長が20代前半の永禄7年(1564)、秀吉とねねが結婚したころでこの時に秀吉に仕えている。秀吉とは10数年ぶりの再会だったのにも関わらず、2人は仲睦まじかった。

しかし、秀長は当初武士になる気は一切なかったようで農業に励む生活に満足しており、夢は村年寄り(庄屋や名主を補佐した役人)になることだった。そのため、秀吉からの誘いを一度断ったが説得され、武士になることを決めている。

兄と共に織田信長に仕える

※織田信長 wikiより

秀吉に仕えた時は織田信長が斎藤龍興(さいとうたつおき)のいる美濃を攻めている最中(中濃攻略戦)であり、秀長は合戦に参加していた秀吉の代わりに城の留守役を務めている。また、秀長の初陣はこの鵜沼城攻めの時と言われている。

その後の秀長は天正元年(1573)に秀吉が小谷城の戦いで浅井氏を滅亡させると、その功績から長浜城主となると城代を務めた。この頃は織田軍が一向一揆衆と合戦が多くなり、越前一揆を抑えていた秀吉の代わりに長浜一向一揆衆との合戦に参加しており、秀吉からは頼りにされていた。

また、性格も温厚で尚且つ知恵も回ることから、誰に仕えても長続きせず生涯に7度も主君を変えた藤堂高虎(とうどうたかとら)を上手に扱い、秀長自身が亡くなるまでの約15年間、右腕として起用することができている。

徐々に頭角を現す

※明智光秀 wikiより

天正5年(1577)に秀吉が中国攻めの指揮官になると、秀長は山陰道と但馬(たじま)国の平定に参戦した。そして、但馬国にある竹田城を斎村政広が攻略し城主となると、秀長は城代に任命された。

その後も但馬国の平定に明け暮れ、ついに天正8年(1580)に但馬国を平定することに成功している。

天正10年(1582)、中国攻めも大詰めに差し掛かった備中高松城の戦いの最中、信長が明智光秀により本能寺で自害する事態となった(本能寺の変)。

そのことを知らされた秀吉は中国大返しを敢行し、光秀と山崎で対した(山崎の戦い)。秀長も秀吉に従い、「天下分け目の天王山」と呼ばれている天王山の守備にあたった。

天下人の補佐役として

※豊臣秀吉 wikiより

山崎の戦いを制し信長の後継者となった秀吉の補佐として、秀長は天正11年(1583)賤ヶ岳の戦い、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いに参戦し、小牧・長久手の戦いでは秀吉の代わりとして織田信雄(おだのぶかつ)と停戦交渉に臨んでいる。

また、翌年の天正13年(1585)の紀州征伐では秀吉の副将に任命され、紀州征伐に大きく貢献した。

続く四国征伐では病気の秀吉の代理として総大将に任命され、四国に向かった。しかし、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の抵抗が激しく苦戦を強いられ、心配した秀吉から援軍の書状が送られたがそれを断っている。合同軍の毛利氏と宇喜多氏と共に元親を降伏させた秀長はその功績から但馬国の他に大和国を加増され100万石を所有することになった。

また、大和国周辺は寺社勢力が強く治めにくい土地であったが、特に問題を起こすことなく治め内政面でも敏腕な才能を発揮した。

この頃から過労が祟ったのか体調を崩しがちになり、療養に出かけることが多くなっている。

天正14年(1586)には大友宗麟(おおともそうりん)が島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)に押され救援を求めて秀吉に会い、その時に秀長に相談していたことから豊臣政権下での大名統制を任されていたことがわかる。その後の九州征伐では秀長は日向方面の総大将として出陣し、島津軍の夜襲を攻略し撤退させた(根白坂の戦い)。

天下統一も間近となる天正18年(1590)には秀長の病状が悪化し、小田原征伐には参戦していなかった。その後も病状は悪化し続け天正19年(1591)に52歳で病死した。天下統一されて一年も経たない頃だった。

最後に

最後まで秀吉のナンバー2であり続けた秀長。

もし秀長が秀吉より長生きしていたら、その発言力と信頼関係により秀吉を諌め、文禄・慶長の役は起きなかったかもしれない。そんな豊臣政権のご意見番と呼ばれてもおかしくない人物を早々に失ってしまった豊臣政権は、その後徐々に崩壊していくことになる。

まさに縁の下の力持ちのような存在で秀吉と多くの大名との関係を支え、調整役を務めた万能型な武士であった。

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檜

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小学校の頃から歴史が好きで気がつけば大学で日本史を専攻にするくらい好きになってました。戦国時代~江戸時代が一番好きでその時代中心となりますが、他の時代も書きたいと思っています。

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