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硫黄島の戦いについてわかりやすく解説 「10倍以上の米軍を苦しめた死闘」

硫黄島の概要

硫黄島の戦いについてわかりやすく解説

画像 : 硫黄島遠景(2007年) wiki c Karakara~jawiki

この島は東京23区から南方におよそ1200kmの場所に位置する島で、島内の最高峰には「摺鉢山(標高170m」があり、硫黄島は周囲の島々と合わせて硫黄列島(火山列島)と呼ばれる列島を形成している。

活火山であり、地熱が高く、島のいたるところから噴気があり、噴出する火山性ガス(二酸化硫黄など)により独特な臭いが島内に立ち込めている。

これが硫黄島の名称の由来になっている。

現在は海上自衛隊・航空自衛隊の基地が設置されており、旧島民の慰霊碑参拝は例外として認められているが原則として民間人の立ち入りは禁止されている。

硫黄島の戦いに至るまでの戦況

硫黄島の戦いまでの戦況を時間順に追っていくと以下となっている。

・1941年12月8日 日本軍、アメリカ領真珠湾(ハワイ)・イギリス領マレー半島への奇襲攻撃
これによりアメリカ・イギリスが日本に対して宣戦布告

・1942年1月    日本軍、フィリピンの首都マニラを占領
・1942年2月    日本軍 シンガポール占領
・1942年4月18日   アメリカ軍が日本本土を初空襲
・1942年6月    ミッドウェー海戦勃発、これにより日本は大敗北を喫して正規空母4隻を損失

~~~ここからアメリカ軍の本格的な反抗作戦が始まり日本軍の戦況は悪化していく~~~

・1942年8月    アメリカ軍、太平洋上の島・ガダルカナル島に上陸
・1943年2月    日本軍、ガダルカナル島から撤退
・1943年9月    日本軍が「絶対国防圏」を決定
・1943年10月   学徒出陣が始まる
・1944年6月    マリアナ沖海戦勃発
・1944年7月    サイパン島を米軍が奪取、これにより日本本土全土が米軍爆撃機の攻撃範囲となる
・1944年10月   レイテ沖海戦勃発 神風特攻隊が初出陣
・1944年11月   東京への空襲が始まる
・1945年2月    アメリカ軍、硫黄島に上陸

硫黄島の戦いでの両陣営の戦力

硫黄島の戦いにおける、日本軍とアメリカ軍の戦力差は圧倒的であった。

日本軍⇒2万人弱
アメリカ軍 ⇒上陸部隊11万と1千人弱、支援部隊含めた合計は約25万人
航空母艦16隻、艦載機1千2百機、戦艦8隻、巡洋艦15隻、駆逐艦77隻

アメリカ軍の支援部隊を含めると、日本軍は10倍以上の相手と戦ったこととなる。さらにアメリカ軍には多くの戦艦や航空機があり、最初から玉砕覚悟の戦いであった。

硫黄島の戦いでの戦闘の経過

硫黄島の戦いについてわかりやすく解説

画像 : 海兵隊戦争記念碑にもなった、摺鉢山に星条旗を掲げる瞬間、従軍カメラマンジョー・ローゼンタール撮影『硫黄島の星条旗』

1944年7月、まず初めにアメリカ軍は上陸前の準備段階として約70日間の連続爆撃を行い日本軍の陣地を潰そうとしたが、日本軍は地下に要塞を築いておりダメージは少なかった。

そして1945年の2月19日、アメリカ海軍は艦船450隻を使用して島に対して艦砲射撃を開始した。これが上陸前の最後の事前準備となった。

同日、ついにアメリカ軍が島に上陸してくるが、日本軍は水際での攻撃は行わなかった。
日本軍の狙いはアメリカ軍を島内に侵入させ、事前に築いていた地下要塞や穴から一斉に攻撃をするというものだった。

この狙いにアメリカ軍はまんまとハマってしまい、上陸から4日目にして死者は600人以上となった(これは過少報告されたものだとされている)。
この被害の大きさに、全米から非難が殺到したという。

上陸から23日目、日本軍の砦であった摺鉢山に星条旗が掲げられた。

2月24日、飛行場をめぐって白兵戦が発生する。日本軍はアメリカ軍の撃退に一時成功したが、27日になると戦力を増強したアメリカ軍が再び攻勢をかけてきて飛行場は占領されてしまった。

この時点での死傷者は「アメリカ軍:約8千人 日本軍:約1万人」と推定されている。

日本軍の戦術はすでにゲリラ戦に近いものとなっていた。手榴弾を手にして敵の元へ体当たりを行ったり、死体に隠れて敵が過ぎ去ってから後ろから手榴弾を投げつけたりしていた。

3月24日、日本軍は最後の攻撃「万歳突撃」を敢行し、組織的な抵抗を終えた。
しかし残存兵はゲリラとなり地下にこもり続け、終戦後も国を守る一心で抵抗を続けた者もいた。

最終的には日本は戦死者17,845~19,900人。アメリカは戦死者6,821人、戦傷19,217人となっている。
日本軍で捕虜となった者は最終的に1千人程度である。

硫黄島を最期まで守り抜いた男 栗林忠道

硫黄島の戦いについてわかりやすく解説

画像 : 栗林忠道陸軍大将。写真は陸軍騎兵大佐時代のもの。

上記のような熾烈な戦いを行った日本軍であったが、その指揮官には「栗林忠道」という男がいた。

彼は硫黄島の守備を任せられた当時、中将という立場であったのにも関わらず、自分だけ快適な環境でいることを拒み、部下とともに塹壕を掘ったり、現場に出て仕事をすることも多かったことから、部下からの信頼も厚かった。

そんな彼は敵上陸軍の撃退は不可能と考えていたため、水際攻撃をせず、地下陣地を構築しての長期の持久戦を計画した。

結局占領はされてしまったものの、計画が功をなしてアメリカ軍に大きな痛手を負わせることに成功した。
後にこの戦いを「勝者なき戦い」と評すアメリカ軍幹部までいたのである。

アメリカ海兵隊公式戦史には

「栗林忠道中将は、アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」

と、記されている。

さいごに

1971年に作成されたアメリカ軍海兵隊の公式報告書においても、この戦いにおけるアメリカ軍は厳しい評価をされており、むしろアメリカの方が敗者意識を持っている。

数学的な解析(ランチェスターの法則)においても、日本軍は5倍近くの交換比で善戦したデータが算出されている。

硫黄島の戦いは第二次世界大戦において、沖縄戦同様にアメリカが最も苦しんだ戦いとなった。どの時代の兵士も好き好んで戦争を行ったわけではない。双方の戦死者を追悼し、今も栄誉を称えたい。

 

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