幕末明治

江戸時代の侍がニューヨークでアイドルになっていた 【万延元年遣米使節団】 ③ ~アメリカ10代女子からモテモテ

幕末、長年鎖国を続けていた江戸幕府は外国からの圧力の影響で、不平等条約として有名な日米修好通商条約を締結することとなった。

条約を結ぶために、77人の侍たちが選ばれ「万延元年遣米使節団」としてアメリカへ向かった。

前回までは、具体的に選ばれた人材や、航海の苦労、ハワイを経てついにアメリカに到着し大歓迎を受け、ワシントンにてブキャナン大統領に謁見して条約を結んだところまで紹介した。

今回は最終章として、ニューヨークで大人気となり、帰路に至ったサムライたちのエピソードを紹介する。

もう一つの目的

画像 : 小栗忠順

実は使節団No.3の目付・小栗忠順(おぐりただまさ)の本来の目的は、使節団に不正がないかの監察だった。

さらに小栗は、非公式ではあるが別の重要な役目を担っていたのである。

日米修好通商条約で定めた通貨の交換比率は、アメリカにとても有利なものになっていた。
小栗は「通貨の交換比率の交渉」という大変な重責を担って渡米していたのである。

当時、アメリカでは金貨1枚に対して銀貨15枚という交換比率であったが、日本に対しては銀貨15枚を持って行くと金の小判3枚と交換できるという比率になっていた。
アメリカの金貨に対して、日本の小判の価値は3分の1の価値しかなかったのである。(※後述するが実際にはそれ以下の扱いだった

既に日本の金は大量に海外に流出し、日本の経済は混乱が生じていた。
小栗は、不平等な交換比率の是正という大事な使命を背負っていたのである。

4月20日、使節団一行はフィラデルフィアに到着し、小栗はフィラデルフィア造幣局を訪問した。

そして、日本の小判とアメリカの金貨の金の含有率の測定を依頼したが、アメリカ側の返答は「時間を要するのでできない」であった。
それでも小栗は1歩も引かずに説得を続けた。

するとアメリカ側もやっと測定を承諾し、日米合同で実験を行ったが、アメリカ側を驚かせたのは小栗が取り出した「天秤ばかり」だった。
アメリカでは鉄で作られている部分が象牙でできており、計ると一分の狂いもない精密さであった。

アメリカの技師たちが含有量を額に汗して計算している傍らで、サムライたちはアバカズ(そろばん)をちょっとはじいて一瞬で計算し、その答えが正確無比であることにアメリカの技師たちは仰天したという。

小判 イメージ画像

その結果、日本の小判の金含有量は5.14gでアメリカの金貨は1.5gだった。日本の小判はアメリカの金貨の3分の1の価値どころか、逆に金の含有量が3倍以上であることが分かったのである。

だが、この時は残念ながら交換比率の改正には至らなかった。しかしこの小栗の交渉に関しては多くのアメリカの新聞が絶賛の記事を掲載している。

このことは明治維新後の不平等条約改正の布石となったのである。

なお小栗はワシントン海軍工廠を見学した際に金属加工技術に驚愕し、記念にネジを持ち帰っている。

驚きのニュース

フィラデルフィア滞在中の使節団に驚きのニュースが舞い込んた。

なんとアメリカの新聞に「日本の将軍が暗殺された」という記事が載ったのである。

使節団一行はこの知らせに狼狽するが、このニュースは後に誤報であることが分かった。
殺害されたのは将軍ではなく大老の井伊直弼であり、「桜田門外の変」のことであった。

情報は正確ではなかったが、当時のアメリカの新聞には遠い日本のニュースまで載っていたのである。

4月27日、サムライ使節団はフィラデルフィアを出発し、アメリカ最後の訪問地・ニューヨークに向かった。

サムライ、アイドルに

画像 : 万延元年遣米使節団メンバー photographed on their trip to America in 1860.

4月27日、サムライ使節団はフィラデルフィアを出発し、その日のうちにニューヨークに到着した。

アメリカ最大の街であるニューヨークの歓迎の規模は、これまでとは比べ物にならないほど盛大なものだった。
使節団一行に敬意を表し、マンハッタンブロードウェイで歓迎パレードが催されたのである。

そこでは日米両国の国旗が各所で振られ、なんと観客は50万人にも及んだという。
しかも使節団一行の警備の数は6,400人以上だったというから、使節団一行にとってはまるで異世界だったに違いない。

そんな熱狂的な歓迎の中、こんな黄色い歓声が響いていた。

「トミー!」「トミーはどこ?」「あれがトミー?」

この声にハンカチを振って投げキッスをしていたのが、通詞見習いの17歳・立石斧次郎(長野桂次郎)だった。

どうやらノリがよく軽薄な性格だったようである。

画像 : 遣米使節・立石斧次郎時代の長野桂次郎。米国では「満月のようにふっくらとした丸顔の陽気で闊達な少年」と描写された

立石斧次郎は、通詞見習いの1人として叔父の立石得十郎の養子となり使節団に参加した少年だったが、幼名が「為八」で得十郎が「」と呼んでいたことから、ポーハタン号の乗組員たちから「トミー」と呼ばれるようになっていた。

トミーこと為八は、航海中にポーハタン号の牧師や乗組員たちと積極的に話し、英語を覚えることに努めていた。
米国滞在中には使節団のスポークスマンを務めるようになり、それが評判となって各地の新聞がイラスト付きで「トミー」として報道したのである。

そしてなんと「トミー」はアメリカの10代の女性たちの間で、アイドル的人気を集めるようになる。
彼がもらった名刺は荷物入れ一杯になるほどで、香水がふりかけられたラブレターも相当の数があったという。

画像 : 米国婦人に囲まれるトミーこと立石斧次郎(長野桂次郎)。「ご婦人がたのペット」と書かれた

更に「トミー」は8,000人が招かれたニューヨーク市主催の舞踏会で、ある曲の楽譜をプレゼントされた。
それは「トミー」のために作曲された「トミーポルカ」という曲で、当時アメリカで流行のダンス楽曲「ポルカ」のリズムで作曲されたものだった。

トミーポルカ」は舞踏会で演奏された後に発売され、なんと全米で大ヒットした。

「トミー」はある意味、日本史上初のワールドワイドなアイドルと言えるだろう。

トミーポルカを再現した演奏↓

そんな熱狂的な歓迎ムードの中、使節団一行はニューヨーク市長との会見や市内の視察などを行った。
その間もニューヨーク市内では、使節団一行に関する演劇が上演され、しかも土産物まで売られていたという。

ニューヨークの夜の街では「JAPANESE(日本人)」と名付けられたカクテルが人気を博した。
1860年の初夏、ニューヨークは日本ブームに包まれたのである。

この時、ニューヨーク市が計上した歓迎予算は3万ドル(約9,000万円)だったが、実際にかかった費用は12万5,000ドル(約3億7,500万円)だったという。

帰国

その後5月12日、ニューヨークを出港した使節団はアメリカ最新式のナイアガラ号に乗り込み、アフリカのルアンダを経由して希望峰周りで、インド洋に入り、バタビア、香港を経由し、9月27日に日本の品川沖の江戸築地操練所に帰着し翌日に下船した。

記録係だった玉蟲は、その日記の最後に

千万里にも及ぶ航海からようやく帰国した訳であるから、皆の喜びは限りがない。(中略)嗚呼、この度の航海は我が国始まって以来未曽有のことであり、(中略)わずか9か月で地球を一周したことは『万国なお稀なり』と言われる

と記している。

おわりに

サムライ使節団一行は200年以上も続いた鎖国政策後に、初めてその目でその肌で、外国の文化や文明を体感した。
そして交流していく中で「外国人は野蛮な敵である」という単純な考え方では、今後やっていけないということも十分に認識しははずである。

条約自体は不平等なものであったが、民衆レベルでは大歓迎された旅であったのだ。

彼らは幕末において相当先鋭的な知見を得たことであろう。

この旅は、日本が西洋の列強と肩を並べようとする重要な意識改革の第1歩であったと言っても過言ではない。

ニューヨーク市立博物館では、2010年に遣米使節150周年を記念して「サムライ・イン・ニューヨーク展」が開催されている。

「サムライ・イン・ニューヨーク展」の詳細が詳しく載っているサイト
http://tozenzi.cside.com/aroundw-newyork.html

関連記事 :
江戸時代の77人の侍がアメリカへ 【万延元年遣米使節団】 ① ~誰が行ったのか
江戸時代の77人の侍がハワイからワシントンへ 【万延元年遣米使節団】 ② ~アメリカで大歓迎

 

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