鎌倉殿の13人

和田合戦までカウントダウン?畠山重忠の乱・牧氏の変から(比較的)平和だった8年間を追う【鎌倉殿の13人】

元久2年(1205年)6月22日、無実の罪によって粛清された畠山重忠(演:中川大志)。

怒りに燃える北条義時(演:小栗旬)は父・北条時政(演:坂東彌十郎)の暗愚を糾弾し、やがて謀叛のかどで追放します(牧氏の変)。

それからおよそ8年間、建暦3年(1213年)5月2~3日に和田義盛(演:横田栄司)が挙兵・滅亡する「和田合戦」が勃発するまで、鎌倉はしばらく戦乱のない日々が続きました。

今回は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』より、この黄金の8年間にどんなことが起こったのかを紹介。面白そうなエピソードをピックアップしていきたいと思います。

果たして、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ではいくつ取り上げられるでしょうか。

元久2年(1205年)

畠山重忠の乱・牧氏の変から

宇都宮頼綱入道。北条時政の娘婿であったため、義時に目をつけられた。歌川貞秀『英雄百首』

8月7~19日
北坂東の雄・宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)に謀叛発覚。小山朝政(演:中村敦)の弁護や頼綱の出家・謝罪により、辛うじて戦乱は防がれました。

9月2日
内藤兵衛尉朝親(ないとう ひょうゑのじょうともちか)が京都から『新古今和歌集』を持参。源実朝(演:柿澤勇人)の和歌も掲載されており、さぞ喜んだことでしょう。

9月20日
山内須藤経俊(演:山口馬木也)が「自分の息子が平賀朝雅(演:山中崇)を討ったので、その褒美として伊勢・伊賀両国の守護職に復帰したい」と訴え、却下されました。

11月20日
「人にあげたものを『やっぱり返せ』と訴えてはならない(悔い返しの禁)」ことを決定。清原図書允清定(きよはら ずしょのじょうきよさだ)がこれを布告します。

12月2日
尼御台・政子(演:小池栄子)の取り計らいで、善哉(演:長尾翼)が鶴岡八幡宮別当・阿闍梨尊暁(あじゃり そんぎょう)に弟子入りしました。

元久3年(1206年。4月27日より建永元年)

畠山重忠の乱・牧氏の変から

御所での相撲大会(イメージ)

1月27日
「かつて源頼朝(演:大泉洋)から恩賞として拝領した土地について、よほどの大罪でなければ没収しない」ことを決定。二階堂行村(にかいどう ゆきむら。二階堂行政の子)がこれを布告しました。

3月12~13日
鷹匠の桜井五郎斎頼(さくらい ごろうなりより)が鵙(もず。百舌鳥)による狩りを実朝に披露。みごとに成功して実朝は感激、恩賞に太刀を与えます。

6月16日
善哉が政子の元を訪れ、着袴の儀(初めて袴を穿く儀式。民間の七五三)を執り行いました。

6月21日
御所の南庭で相撲大会が開催され、以下の取り組みで熱戦が繰り広げられます(左が勝者、ただし二番は引分け)。
一番 高井太郎(たかい たろう。三浦党) 三池大蔵三郎(みいけ おおくらさぶろう。鎮西住人)
二番 波多野五郎義景(はたの ごろうよしかげ) 大野藤八(おおの とうはち)
三番 広瀬四郎助弘(ひろせ しろうすけひろ。義時の家臣) 石井次郎(いわい じろう。和田一族)
当日は矢羽や染め革、砂金などの豪華景品が勝敗にこだわらず振る舞われました。太っ腹ですね。

10月10日
政子の計らいにより、善哉が実朝の猶子となりました。相続権はない養子のような存在で、手元に置くことで誰かに担がれるのを防ぐ狙いがあったのでしょう。

10月24日
義時と比奈(演:堀田真由)の間に生まれた次男(チャンバラをしていたちびっ子たちの兄)が13歳で元服、北条次郎朝時(じろうともとき)と名乗りました。

11月18日
夏ごろから休暇をもらって地元に帰った東平太重胤(とう へいたしげたね)がいつまで経っても帰って来ず、実朝の怒りを買ってしまいます。

12月23日
実朝の怒りを恐れて謹慎していた東重胤が義時に泣きついたところ、義時は「和歌を贈ってはどうか」とアドバイス。
これが功を奏して実朝が機嫌を直し、赦された重胤は義時に深く恩義を感じるのでした。

建永2年(1207年。10月25日より承元元年)

畠山重忠の乱・牧氏の変から

力を合わせて鎌倉殿を支える時房たち(イメージ)

2月20日
北条時房(演:瀬戸康史)が14日付で武蔵守に任じられました。実朝より「政務については、亡き大内義信(おおうち よしのぶ。平賀朝雅の父)入道の例を手本とするように」と命じられます。

6月2日
天野民部入道蓮景(あまの みんぶにゅうどうれんぎょう。天野遠景)が頼朝挙兵以来11の手柄を並べ立て、恩賞を懇願しました。

8月17日
鶴岡八幡宮の放生会に参列をサボる御家人が続出。問いただすとそれぞれ喪中だとか体調不良だとか。
そんな中、吾妻四郎助光(あずま しろうすけみつ)は「新調した鎧がネズミにかじられてしまって、具合が悪かったから」と言い訳。
すると「武士は質素倹約が第一であり、晴れの場には先祖伝来の鎧を着てこそ名誉というもの」と不覚悟を責められ、出勤停止となってしまいました。

9月24日
中原親能(演:川島潤哉)が京都から戻り、近江国の住人・柏木五郎家次(かしわぎ ごろういえつぐ)を連行してきます。
この家次は平氏の残党で、建仁3年(1203年)に比叡山の僧兵らをそそのかして謀叛を起こしました。敗れて逃亡を続けていたのを9月5日にようやく生け捕ったということです(尋問の末、10月2日付で厳罰に)。

12月3日
御所に舞い込んできた青鷺(アオサギ)を射るよう命じられ、約3か月半ぶりに吾妻助光が呼び出されました。
助光はみごと青鷺を生け捕り、再び召し出されることに。よかったですね。

承元2年(1208年)

畠山重忠の乱・牧氏の変から

炎上する問注所(イメージ)

1月16日
問注所として使われていた三善康信(演:小林隆)の館が火事で焼失。将軍家の手紙や裁判記録、日記など代々蓄えてきた文書がすべて灰になってしまい、康信はがっかりしてしまいました。

2月3日
実朝が疱瘡(天然痘)にかかってしまいます。余熱を含み断続的に約2ヶ月苦しんだあと、顔には痘痕(あばた)が出来てしまったとか。
それを気に病んで3年間、鶴岡八幡宮への参拝を止めたと言います。17歳という多感な時期に、とても気の毒でなりません。

6月16日
5月からずっと一度も雨が降らなかったため、鶴岡八幡宮の僧侶らに命じて江ノ島で雨ごいをさせたところ、翌17日の午前4:00ごろに雨が降り出しました。効果てきめんですね。

7月19日
実朝・千世(演:加藤小夏)・政子らが永福寺の供養から戻ると、御所の間で騒動が起こっています。
聞けば葛西十郎(かさい じゅうろう)が従僕に殺され、遺族らが大挙しているのだとか。実朝は和田義盛に命じてこれを鎮めさせたのでした。

10月10日
政子が願かけのため、熊野詣でに出発しました。護衛のため、時房が同行します(10月27日に京都入り)。

12月18日
京都にいた中原親能(法名は寂忍)が66歳でなくなりました。

承元3年(1209年)

和田義盛「一生のお願い」は叶うのか(イメージ)菊池容斎筆

5月12日
和田義盛が実朝に対して、内々に上総国司への推挙を頼んできました。
そこで政子に相談したところ「亡き頼朝様が侍の国司任命を禁じる旨を決められましたから、認められません。あなたが新たな法を作られるというなら、女の私が口出しはしませんが」との回答に、実朝はどうにもできなかったそうです。

5月20日
頼朝の法華堂で梶原景時(演:中村獅童)一族を供養する法事を執り行いました。近ごろ御所の中でしばしば不思議な現象が起きたことに加え、夢のお告げがあったからだとか。

5月23日
和田義盛が大江広元(演:栗原英雄)に上総国司を所望する嘆願書を提出しました。そこには頼朝挙兵以来の武功が書き連ねられ、文末に「これが一生最後の願いです」と書き添えられていました。

5月28日
西浜(材木座海岸か。飯島とも)で騒動が発生。聞けば土屋三郎宗遠(つちや さぶろうむねとお。土肥実平の弟)が梶原兵衛太郎家茂(かじわら ひょうゑたろういえもち。)を殺害したと言います。
宗遠は御所へ出頭して和田常盛(わだ つねもり。義盛の長男)に凶器の太刀を提出。そのまま侍所へ召し預けられました。

6月13日
先日の殺人事件について、宗遠が嘆願書を提出します。その文面は「自分は頼朝公の挙兵以来、ずっと忠義を尽くしてきた。一方の梶原家茂は謀叛人・景時の孫である。太刀を差し出したのは謀叛の意思がないことを証明するため。どうか無罪にして欲しい」とのこと。
何となく意味が分かるような分からないような……そこで実朝は「亡き頼朝公の月命日(頼朝は1月13日に亡くなったので、毎月13日)に免じて赦してやろう」と宗遠を釈放したのでした(いいのでしょうか……)。

7月5日
実朝が夢のお告げにより、住吉大社へ和歌20首を奉納しました。また以前に詠んだ和歌30首を、師匠である藤原定家(ふじわらの ていか)に添削してもらうために送ります。

8月13日
京都から藤原定家の返事が届き、和歌について丁寧な添削をしてくれていました。また和歌のテキスト一巻を頂戴し、実朝は大層喜びました。

11月4日
義時が「武士たる者、弓馬の本分を忘れてはなりません」と諫言するため、小御所の東庭でちょっとした弓射大会が催されます。
あまり勝負ごとの好きでない実朝に対して、義時は御家人たちの士気を高めるためにとあえて勝ち負けをハッキリさせたのでした。

11月7日
御所で酒宴が催された際、義時が4日の大会について講評。大江広元と共に「武士が武芸をもって朝廷をお守りしてこそ、この関東は末永く栄えるのだ」と説教。実朝のうんざりした顔が目に浮かぶようです。

11月14日
義時が実朝に対して「自分に仕える郎従の中から、特に功績ある者を御家人に準ずる身分に認めて欲しい」と申し出ますが、却下されます。
「それを認めれば他の者たちも同じように要求し、時代が下れば御家人と区別がつかなくなってしまう」とのことでした。

11月20日
諸国守護たちの職務怠慢によって各地で群盗が蜂起し、年貢も満足に集まらない事態に、実朝が行政改革を提唱します。
「彼らは先祖の功績にあぐらをかいているようだ。この際だから、守護職を交代制にすることで仕事ぶりをチェックしやすくなるだろう」
……しかしどういう訳か、その手の話は前から上がっているものの、決定には至らないのでした。

11月27日
和田義盛がかねてから上総国司を所望している件について、実朝が内々に「もう少し待て」とコメント。これはワンチャン逆転あるかも?と義盛は大喜びしたそうな。

12月11日
美作蔵人朝親(みまさか くろうどともちか)と小鹿嶋橘左衛門尉公業(おがしま きつざゑもんのじょうきんなり)がにわかに合戦の支度を始め、両党の一族縁者が大集合しました。
三浦一族は公業の元へ加勢し、武田・小笠原一族は朝親に味方するべく行ってしまいます。
驚いた実朝が侍所別当の和田義盛に止めさせようとしたところ、なんと「和田殿は三浦一族と共に、小鹿嶋殿へ加勢してしまいました!」とのこと(前にもこんなことがありました)。
「和田の爺は何をしとんじゃ!武州よ、急ぎ止めて参れ!」
ということで北条時房が駆けつけたことで何とか一件落着。どうやら両家の間に起きた女性トラブルが発端とのこと。

承元4年(1210年)

上総国司となった藤原秀康。義盛の願いは叶うのか(イメージ)

2月29日
和田義盛の館が火事に遇い、そこから南の民家数十軒が焼失してしまいました。

3月22日
のえ(演:菊池凛子。伊賀の方)が熊野詣をするというので、義時が中原仲業(なかはら なかなり)に命じて道中の手配を途上の地頭に割り当てさせます。

5月6日
実朝が大江広元の館へ遊びに行き、義時・時房らと和歌を詠むなど楽しみました。広元は実朝が喜ぶだろうと『古今和歌集』『後選和歌集』『拾遺和歌集』のいわゆる「三大集」をプレゼント。その心遣いに、きっと喜んだことでしょう。

5月14日
畠山重忠の未亡人・ちえ(演:福田愛依。実名不詳)が相続した所領について、改易(没収)してはどうかという意見があったものの、実朝はこれを禁じます。

5月21日
実朝が三浦の三崎(三浦半島先端部)へ出かけ、和田一族はじめみんなと舟遊びや小笠懸などを楽しみました。

6月3日
相模国丸子川(現:神奈川県小田原市酒匂川)で土肥・小早川一族と松田・河村一族が喧嘩。それぞれ戦さ支度をしているとのことで、急ぎ和田義盛と三浦義村を派遣して止めさせました。
「真の英雄は身を慎んで平和を守るのが務めであるのに、近ごろは武力をひけらかして喧嘩ばかり。これは鎌倉に対する不忠であるため、固くこれを禁ずる」旨を厳命します。

6月12日
坊門姫の女官である丹後局(たんごのつぼね)が京都から帰って来ましたが、駿河国宇都山(有度山。現:静岡県静岡市)で山賊に身ぐるみすべて剥がされ、頂きものの財宝などもすべて奪われてしまいました。

7月8日
つつじ(演:北香那。辻殿、善哉の母)が出家しました。

7月20日
京都で上総国司に任じられた藤原秀康(ふじわら ひでやす)が現地に代官を派遣し、横暴の限りを尽くしていると訴えが鎌倉に届きます。
先例を無視して罪なき民を斬り殺し……しかし秀康は後鳥羽上皇(演:尾上松也)の側近なので、まずは朝廷に相談するよう命じました。

11月24日
21日に駿河国にある馬鳴大明神(現:静岡県静岡市)が「酉歳(とりどし)に戦さが起こる」とお告げ。ちょうど同じ日、実朝も合戦の夢を見たと言います。
次の酉年は癸酉(みずのとのとり)、もう3年後に迫っています。そのようなことがないよう、実朝は太刀を奉納しました。これで戦さが防げたらいいのですが……。

承元5年(1211年。3月9日より建暦元年)

頼朝公の死を悼んだ鴨長明(イメージ)

閏1月7日
火災が発生、北条時房の館から南側30数件が焼失してしまったと言います。

4月13~21日
義時が4月16日に行われる三嶋大社の祭礼に参列するため伊豆へ出かけました。

7月4日~11月20日
この期間、実朝が『貞観政要』の講義を受けたとあります。講師は誰か書かれていませんが、もし泰時だったら面白いですね。

9月15日
善哉が出家して、公暁(こうぎょう/くぎょう)と改名。22日修行のため上洛します。実朝は5人の護衛をつけましたが、これは色んな意味で心配だったのでしょう。

10月13日
菊大夫長明(きくだゆう ながあきら。鴨長明)入道が実朝と謁見。その後に頼朝法華堂へ参拝しました。
その時に詠んだ和歌がこちら。

草も木も 靡きし秋の 霜消して 空しき苔を 払う山風
(かつてすべてをなびかせた、嵐のごとき頼朝公の権勢も、もはや秋霜のように消え去った。今ではむなしく苔をなでるばかりだ)

12月20日
和田義盛が上総国司の件を諦め、広元に「そういう訳で、嘆願書をお返し下され」と伝えました。
それを取り次がれた実朝は「せっかく何とかしようと働きかけているのだから、私を信じてもう少し待っていて欲しかった」とがっかりしたそうです。
その時、実朝の発した「……偏是奉輕上計之所致也(ひとえにこれ、じょうけいをかろんじたてまつるのいたすところなり≒きっと義盛は、もう私の力量ではどうにも出来ないと見切ってしまったのだ)」というセリフ。
義時はこれを「和田殿は鎌倉殿を軽んじている」と解釈(曲解?)し、次第に義盛への挑発を始めたのかも知れません。

建暦2年(1212年)

武士たる者、弓馬こそ誇りの基(もとい)。

1月19日
実朝が鶴岡八幡宮に参拝した時、御調度懸(ごちょうどがけ。将軍の弓矢持ち)について辞退する者が多いことについて御家人たちに説教をします。
「調度懸は、かつて頼朝公が20筋の矢で20人の敵を射止める百発百中の名手を選んで命じられた、誇りある役目だ。そもそも弓矢は武士の本分であるのに、これを持つことを卑しんで辞退するなど、見当違いも甚だしい。そういう不届者は今後、御家人と認めない!」
こういうことは義時が言いそうですが、実朝にも武門の棟梁たる自覚が芽生えてきたのかも知れません。

2月1日
明け方、実朝は側近の和田朝盛(とももり。義盛の孫)を呼んで梅花の枝を渡します。
「これを『ふさわしい者』の元へお届けせよ。決して私が贈ったと言ってはいけないよ」
「畏まりました」
「お前のセンスで適当に持って行け」と言われて、朝盛が届けてきたのは塩谷兵衛尉朝業(えんや ひょうゑのじょうともなり)。実朝のいわば“和歌友”です。
さっそく朝業から一首の和歌が贈られました。

うれしさも 匂いも袖に 余りけり
我が為折れる 梅の初花

【意訳】この嬉しさと梅の香りを独り占めしたいけど、あふれすぎて抱きしめ切れません。だって、畏れ多くもあなたが私のために梅の花を贈ってくれたんですから……。

もう恋人同士かよ!とツッコミ待ち状態。尊すぎますね。

2月28日
かつて相模川に架けられた橋が壊れているので、三浦義村が修繕を提案しました。義時と広本、そして三善康信が集まって議題にかけます。
これはかつて稲毛重成(演:村上誠基)が造った橋で、その供養に際して頼朝公が落馬して亡くなり、重成自身も粛清されている。
不吉だから今さら直す必要もないんじゃないか……そう決まりそうだったところ、実朝は言いました。
「何を言っているんだ。頼朝公は武家の頂点に立って20年、すでに寿命が来ていたのだし、稲毛めは畠山を裏切った不義の天罰だ。橋とはまったく関係ない。天下万民の公益に資する事業なのだから、早く修繕せよ」
その真っ直ぐな政治姿勢が、人々から慕われたであろうことを感じさせます。

5月7日
義時の次男・北条朝時が女性トラブルで義時に勘当され、駿河国富士郡(静岡県富士宮市)で謹慎させられます。
朝時は御台所・千世に仕える官女(佐渡守親康の娘)にほれ込んで艶書(つやがき。ラブレター)を送ったもののフラれてしまいました。
逆上した朝時は夜這いをかけて彼女を半ば拉致同然に連れ出したことが発覚したのです。やはり血は争えないのでしょうか。

6月7日
侍所で宿直していた伊達四郎(だて しろう)と荻生右馬允(おぎゅう うまのじょう)が刃傷沙汰を起こし、双方の郎従に死者2名負傷者2名の被害を出しました。喧嘩の原因は枕相論……つまり「宿直の際、どこで仮眠をとるか」で揉めたそうです。
佐々木五郎義清(ささき ごろうよしきよ。佐々木秀義の子)が彼らを捕らえて和田義盛に突き出します。
翌日に伊達は佐渡国(現:新潟県佐渡島)、荻生は日向国(現:宮崎県)へそれぞれ遠流に処されました。

7月2日
実朝が先月の刃傷沙汰で穢れてしまったため、侍所の建て替えを命じます。中には「何もそこまでしなくても……」という意見があったものの、実朝はこれを認めず千葉介成胤(ちばすのけ なりたね。常胤の孫)を奉行に建て替えさせたのでした。

8月22日
実朝は、相模国の片岡社(現:神奈川県平塚市の片岡神社)と前取社(現:同市の前鳥神社)について、将軍家のご祈祷を担当する神社に指定しました。

12月28日
午後8:00ごろ、鎌倉じゅうが大騒ぎとなり、これは謀叛の予兆ではないかと人々は噂しあったということです。

そしてついに建暦3年(1213年)……

以上、元久2年(1205年)後半から建暦2年(1212年)の足取りをたどってきました。

この他にもピックアップし切れていないエピソードはたくさんありますが、果たしてこの内いくつが大河ドラマで描かれるでしょうか。

実朝と義盛の絆。ずっと一緒であって欲しかった(イメージ)

争いが絶えない鎌倉で、若き実朝にとって心の支えとなったであろう和田義盛との絆が、義時によって断たれてしまう和田合戦。

それまで劇中ではたっぷりと二人の信頼関係が育まれ、(悲劇的な結末を予想する)視聴者のメンタルをゴリゴリ削っていく展開が予想されます。

また、駆け足で紹介してきた他にも興味深いエピソードがたくさんあったので、こちらの方もそれぞれ改めて紹介していきたいところです。

……それにしても、実朝のみならず多くの視聴者にとって「癒し枠」として活躍してきた義盛の退場は、今から残念でなりませんね。

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月

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角田晶生(つのだ あきお)

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