幕末明治

江戸時代の77人の侍がアメリカへ 【万延元年遣米使節団】 ① ~誰が行ったのか

万延元年遣米使節団とは

【万延元年遣米使節団】

画像 : ワシントン海軍工廠での使節団:正使・新見正興(中央)、副使・村垣範正(左から3人目)、監察・小栗忠順(右から2人目)、勘定方組頭・森田清行(前列右端)、外国奉行頭支配組頭・成瀬正典(前列左から2人目)、外国奉行支配両番格調役・塚原昌義(前列左端)

万延元年遣米使節団(まんえんがんねんけんべいしせつだん)とは、江戸幕府が日米修好通商条約の批准書交換のために、万延元年(1860年)に派遣した77名から成る使節団のことである。

嘉永7年(1854年)の開国後、最初の公式訪問団であり、日本人として2番目の世界一周をした使節団でもある。

今回はその使節団の正使・新見正興の従者であった仙台藩士の玉蟲左太夫の日記を中心に、サムライがアメリカに行った約9か月にも及ぶ旅について3回わたって解説する。

なぜ幕府はアメリカに使節団を派遣したのか?

嘉永6年(1853年)6月3日、黒船で浦賀に来航したアメリカ海軍提督・ペリーが日本に開国を迫った。

【万延元年遣米使節団】

画像 : ペリー

その翌年の嘉永7年(1854年)、江戸幕府は日米和親条約を締結し、下田と箱館(函館)を開港する。
そして安政7年・万延元年(1860年)、幕府は77名の使節団をアメリカに派遣することになる。

何故、幕府はアメリカに使節団を派遣することにしたのだろうか?

安政3年(1856年)7月、初代駐日総領事・ハリスが下田に着任し、日本とアメリカの通商条約の締結を計画した。ハリスは強硬な交渉を行ったが幕府は消極的態度に終始した。

【万延元年遣米使節団】

画像 : タウンゼント・ハリス

ここでのハリスの交渉は簡単に言えば脅しである。当時、清と戦争していたイギリスとフランスが日本にも攻め込んでくると説き、それを防ぐにはアメリカと通商条約を結ぶしかないと脅したのである。

結局幕府はイギリス・フランス艦隊が襲来する前に一刻も早くアメリカと条約を締結すべきと判断し、安政5年(1858年)に不平等条約として有名な日米修好通商条約を締結、新たに長崎・兵庫・横浜・新潟の4港が開かれて自由貿易を始めることになった。

この条約の第14条には「本条約は(中略)ワシントン市において批准書を交換するものとする」とある。
つまり幕府はこの条約に対する確認・同意を示す批准書を交換するために、アメリカに使節団を送ることとなったのである。

誰がアメリカへ行ったのか?

安政6年(1859年)9月、幕府は正使として外国奉行及び神奈川奉行の新見正興(しんみまさおき)、副使として外国奉行及び箱館奉行だった村垣範正(むらがきのりまさ)、使節団の監視役である目付には詰警備役で外国人との交渉経験があった小栗忠順(おぐりただまさ)を任命した。

【万延元年遣米使節団】

画像 : 万延元年遣米使節。左から村垣範正、新見正興、小栗忠順(1860年)

この3人の他に、役人17人、従者51人、賄方6人の計77人がアメリカに行くことになった。

正使・新見正興の従者となったのが、観察眼や記述に定評があった仙台藩士・玉蟲左太夫(たまむしさだゆう)当時38歳であった。

【万延元年遣米使節団】

画像 : 玉虫左太夫の肖像写真

彼は記録係として、約9か月にも及ぶ使節団の旅の詳細を全8巻の日記「航米日録」に書き残した。

玉蟲が書き始めたのは出航の4日前、そこには「船の中とあっては何が起こるか分からない。しかも我が国から遠く離れた外国で言葉も通じないし、どうやったら政治や物事を深く探れることやら困ったことだ」と不安を綴っている。

未知の異国への不安を胸に、玉蟲ら使節団が乗り込んだのは、アメリカの軍艦・ポーハタン号だった。

その時の様子を「停泊しているポーハタン号に乗り移る。艦上ではアメリカ行きの人々が前後左右に雑踏し、行季荷物を確かめていたので足の踏み場もない、船の中の狭いことといったらどうしようもない」と綴っている。

船にはアメリカ人が312人、使節団を合わせると400人近くが乗船していた。
部屋は船尾の左右に臨時のものが設けられていたが、大きなものでも6畳間相当、小さいものだと2畳間ほどしかなかった。
玉蟲の部屋は4畳半ほどで、それを4つに区切り7人に割り当てられたため、とても狭く足を伸ばすことはできなかったという。

実はこの時、アメリカに渡った日本人は使節団だけではなかった。

幕府はポーハタン号が事故に遭ったり、使節団が病気になるなど万が一の際に代わりとなれるように、使節団の護衛という名目で日本の軍艦・咸臨丸を派遣した。
咸臨丸の司令官には軍艦奉行の木村芥舟(きむらかいしゅう)を任命され、木村は乗組仕官の多くを海軍伝習所出身者で固めた。

軍艦操練所教授の勝麟太郎(後の勝海舟)を艦長に、通訳にはジョン万次郎こと中浜万次郎を選任、木村の従者となった中津藩士の福沢諭吉など総勢96人が乗船することになった。

画像 : 咸臨丸の乗員。右から福沢諭吉、岡田井蔵(教授方手伝)、肥田浜五郎(教授方)、小永井五八郎(勤番下役)、浜口興右衛門(教授方)、根津欽次郎(教授方手伝)

こうして開国後、初の公式使節団としてアメリカに行くことになった77人だが、使節団の人数が多い上に持参する道具類などが大量にあったため、ポーハタン号だけでは積み込めず、護衛艦の咸臨丸にも荷物を運ばせていた。

荷物には、将軍からアメリカ大統領や政府高官への贈り物として、書簡、屏風、馬具、漆器類などがあった。

渡米準備金は、江戸城の御金蔵や幕府御用達の三井家の金蔵などから集めた金6万両(現在の約60億円)、その他に使節には幕府から拝借金3,000両(現在の約3億円)を持参して行った。その重さは1t以上もあったという。

海外への長旅には日本食も大量に必要で、ポーハタン号の量は不明だが、咸臨丸だけで米が75石(約11t)、醤油7斗5升、味噌6樽などが積み込まれたという。
食糧以外にも灯油、ろうそく、半紙、炭、薪、たわし、木綿、草履、提灯、火鉢、茶碗などといった日用雑貨も積み込まれた。

こうして江戸時代の77人のサムライは、アメリカへ向かったのである。

次回は、過酷な航海やハワイに寄った話、そしてついにアメリカに到着し蒸気機関車に乗ってワシントンに向かったエピソードを紹介する。

関連記事 : 江戸時代の77人の侍がハワイからワシントンへ 【万延元年遣米使節団】 ② ~アメリカで大歓迎

 

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日本史が得意です。

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2022年 9月 21日

    万延元年(1660年)に派遣した77名から成る使節団のことである。はぁ?!

    0
    1
    • アバター
      • 草の実堂編集部
      • 2022年 9月 21日

      修正させていただきました。
      ありがとうございます。

      1
      0
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