今から1000年ほど昔のこと。
平安の都に1人の男がいた。名を安倍清明という。幼くして賀茂保憲の弟子となり、陰陽道を究めた清明はその名声を讃えられ、その逸話は今でも伝えられている。
しかし、清明の影に隠れ、ほとんど表に名が出てこなかった陰陽師もいた。その1人が道摩法師(どうまほうし)こと、蘆屋道満(あしやどうまん)である。
この男、どのような人物だったのであろうか?
非官人の陰陽師
安倍清明が宮中に取り立てられ、陰陽寮・主計寮といった官僚を歴任したのに対し、蘆屋道満は非官人、つまりはフリーランスの陰陽師であった。とはいえ、清明は朝廷に仕えたというよりも、請われてその職を受けたとも言われており、朝廷派でも民間信仰派でもなく中立的な立場の陰陽師だった。
清明が陰陽寮に所属するようになったのは40歳と遅く、出世などにはあまり興味がなかったためである。
一方の道満は、晴明に勝るとも劣らないほどの呪術力を持つとされ、安倍晴明が藤原道長お抱えの陰陽師であったのに対し、道満は藤原顕光お抱えの陰陽師であった。しかし、それも仕事のひとつであり、清明との絡み以外はほとんどその人物像が見えてこない。
一説には、諸国を巡りながら陰陽師として仕事を行い、上京した際に起きた出来事が今も伝えられているという。
蘆屋道満 の出自
※加古川市
播磨国岸村(現兵庫県加古川市西神吉町岸)の出身とされる。
道満に代表される播磨陰陽師は、播磨国広峰辺りを本拠とし、先祖は大陸からの渡来人と考えられ、朝廷陰陽師への対抗心があったともいわれる。そのなかでも道満は播磨を代表する陰陽師として名が知られていた。
播磨は隣の備前と並んで陰陽師の本場である。「播磨では僧侶でも陰陽師の格好をしなければ、話もできない」といった伝承もあるくらい朝廷の陰陽寮にも優秀な人材を輩出してきた土地でもあった。そのことから、清明と同じく、幼い頃から陰陽道に触れ、その才能を開花させたというのは間違いない。
しかし、資料によると、道満は天徳二年(958)生まれ、清明は延喜二十一年(921)生まれなので、道満のほうが37歳も若く、フィクションで描かれるような同年代のライバルというほどのことはなかったようだ。
少し蘆屋道満のことについてわかったような気がします。ありがとうございました。