平安時代

『今昔物語集』が伝える平良文と源宛の一騎討ち

昔から「金持ち喧嘩せず」などと言う通り、実力がある者ほどつまらぬことで諍いは起こさず、周囲もまたそのように扱うため平和に過ごせるものですが、時には口の悪い手合いが

「本当は負けるのが怖いから、余裕があるように装っているだけだろう」

と喧嘩を唆すこともあるものです。

最初は誰も取り合いませんが、世界には「ウソも百回言い通せばマコトになる」なんてことわざもあり、次第に周囲もその風聞を信じ込んでしまうことが多々あります。

現代なら「人の噂も七十五日」と放っておけばいいでしょうが、往時の武士たちにとって自分の威信は生きていく上で欠くべからざる資産であり、それを損なわれることはまさに死活問題でした。

つまらぬ喧嘩は避けたいが、かかる火の粉は払わにゃならぬ……今回はそんな退くに引けなくなった二人の英雄が、つまらぬ風聞によって演じることとなった一騎討ちのエピソードを『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』より紹介したいと思います。

坂東の地に英雄二人

今は昔(※)、坂東(ばんどう。関東)の地に平良文(たいらの よしふみ)、源宛(みなもとの あつる。源充とも)という名高い武士がおりました。

(※)正確な年代は不明ながら、平良文が仁和2年(886年)生~天暦6年(952年)没に対して、源宛が承平3年(933年)生~天暦7年(953年)没であるため、源宛が一騎討に応じる元服(成人。13~15歳)以後、天暦4年(950年)前後のことと推測。

坂東平氏の祖・平良文(イメージ)

平良文は第50代・桓武天皇の曾孫に当たる桓武平氏の一人で、坂東に下向して賊徒を平らげ、相模国・武蔵国・下総国など各地に所領を有する大豪族。陸奥守・鎮守府将軍として奥州(東北地方)で起こった蝦夷の叛乱を鎮定するなど、武勇に優れた名将として知られます。

村岡の地(※)を本拠地としていたことから「村岡五郎(むらおかの ごろう。村岳、邑岡とも)」の二つ名で呼ばれていました。

(※)平良文は武蔵国熊谷郷村岡(埼玉県熊谷市)、下総国結城郡村岡(茨城県下妻市)、相模国鎌倉郡村岡(神奈川県藤沢市)など坂東各地に館を構え、どの村岡が二つ名の由来になったのかは諸説あるものの、大勢力を築いていたことは間違いないでしょう。

一方の源宛は第52代・嵯峨天皇の玄孫(やしゃご。孫の孫)に当たる嵯峨源氏の一人、武蔵国の箕田村(みだ。現:埼玉県鴻巣市)に住んでいたため、箕田源次(みだの げんじ。源二とも)と呼ばれていました。

当時、平良文は還暦(60歳)前後に対して、源宛はまだ元服(成人)して間もない10代半ば。親子どころか祖父と孫ほども年齢が離れていたものの、互いにその実力をリスペクトしていたのですが、やがて二人の仲を裂こうと目論む者が現れます。

喧嘩を煽り立てる者たち

「何?源次が我を『過去の栄光にすがりつく老いぼれめ、我が弓には敵(かな)うまい』などと?」

心なき中言(なかごと。誹謗中傷、ここでは二人の仲を裂くための流言)を聞かされ、不愉快な思いをした良文ですが、そこは流石に歴戦の勇士。

「あれほど立派な若武者が、そのようにつまらぬ挑発をする(兵-つわものノ道ヲ挑ケル)こともあるまい。捨て置け」

と相手にしません。一方の源宛もその噂を否定し、そのまま事態も収束していくかと思いきや、何度も噂が立つ内に、周囲がそれを信じ始めてしまいます。

「本当は負けるのが怖いくせに、人格者ぶって戦いを避けているのだ」

「二人とも坂東に並びなき勇者と言われているが、本当はどっちが強いのだろう」

「戦わせてみればハッキリするのに、それをしないのはとんだ卑怯者と言わざるを得まい」

……などなど。人間、いつの時代もゴシップや無益な争いが大好きなもので、平良文と源宛の対決を煽り立てました。

「歴戦の老勇士と新進気鋭の若武者、坂東の覇権を握るのはどっちだ!?」

「老兵は黙って去るべし……世代交代を望む声も」

「若造のくせに十年早い!不敵な挑戦を鼻で嗤う老骨の余裕」

無責任な連中が好き勝手に囃し立て、心ない声をこれ以上放置しては沽券にかかわる……仕方なく平良文は源宛に決戦を申し入れます。

挑戦を受けて立つ源宛(イメージ)

「……やむを得ませんな」

かくして日時はいついつ、場所はどこそこ(※)、平良文と源宛はそれぞれ500~600ばかりの軍勢を率いて対峙したのでした。

(※)『今昔物語集』では「其契(そのちぎり)ノ日」「可然ラム(しかるべからん)広キ野」などと日時と場所が伏せられていますが、これは無用の野次馬を防ぐためだったのでしょう。

(※)恐らく、両者の生没年から時は天暦4年(950年)前後、場所は源宛の地元である武蔵国、現在の鴻巣市と熊谷市の間を流れる荒川(あらかわ)のほとりであったと推測されます。

大将同士の一騎討ち

「……源次よ、よぅ逃げ出さずに参ったのぅ。迷子にはならなんだか」

「ははは……村岡殿こそ、ご老体に障りましょう」

「けっ、吐(ぬ)かしおるわい」

決戦場に対峙した両軍は、さっそく楯を突き立てて陣地を固め、挨拶代わりの矢戦(やいくさ。矢の射合い)に及ぼうとしましたが、それを制して平良文が申し出ました。

「此度の勝負、郎党にいくら矢を射させたところで、力量の証明にはならぬ。よって、我とそなたの弓比べ(一騎討ち)とせぬか」

「承知した……然らば者ども、手を出すでないぞ」

平良文と源宛はそれぞれ単騎で陣地より駆け出し、互いに矢の届く距離まで間合いを詰めます。

まずは作法通りに鏑矢(かぶらや。笛のついた儀礼・威嚇用の矢)を射放ち、続いて征矢(そや。実戦用の矢)で狙いを定め、射られた側は太刀を振るってことごとく叩き落とし……を交互に実施。

これだけでも相当の技量を要するもので、両陣営からは歓声が上がりますが、両雄にしてみれば、こんなものはウォーミングアップに過ぎません。

さぁ、いよいよ本番ですが、今回のルールは以下の通り。

一、攻守のターン制をとり、守る側は矢を避ける以外の動作を禁ずる。

一、馬を駆り、一直線上のすれ違い際に矢を放つ。馬の進路を変えたら失格。

「まずはそちから射て参れ」

「いや、古来長幼の序と申しますれば、一矢ご指南願い申す」

「口だけは達者のようじゃ。されば弓の使い方を教えてくりょうぞ!」

弓を引き絞る良文(イメージ)

先攻は平良文。ギリギリと弓を引き絞り、絶妙な距離で射放った矢はまっすぐ源宛の身体中心を狙いますが、源宛は片脚を大きく上げて落馬したようなパフォーマンスを演じたかと思ったら、矢をあえて太刀の金具(股寄-ももよせ)に命中させました。

「あー惜しい。間一髪でしたな(棒)」

「まったく、わざとらしい猿芝居を……まぁよい、次はそなたの番じゃ」

馳せ違った両雄は馬首を返し、今度は源宛が射かけるターンです。

「ご老公、あまり震えなさると矢が当たりませぬゆえ、どうかシャンとして下され」

「自分が震えておるからそう見えるだけじゃ。きちんと狙いを定めるんじゃぞ」

減らず口の両雄ですが、こちらも大方の予想通り、源宛が鋭く射出した矢を、平良文は身体をねじって箙(えびら。腰に下げる矢入れ)の革紐(腰宛-こしあて)に突き立てさせました。

ただ矢を避けるだけでも見極めと身のこなしが大変なのに、それをあえて狙ったところに当てさせるというのは、よほどの技量があってのこと。見ていた郎党たちは矢が射放たれる度に一喜一憂していましたが、当人たちは涼しい顔。

「そろそろ、こんなものでよかろう」

充分に実力を見せつけた頃合いを見計らって、平良文が呼びかけました。

雨降って地固まる…両雄の仲直り

「互ニ射ル所ノ箭(矢)皆□ル(外る)箭共ニ非ズ、悉(ことごと)ク最モ中ヲ射ル箭也。然レバ共ニ手品(てじな。技量)ハ皆見ヘヌ。弊(つたな)キ事無シ。而(しか)ルニ、此レ(これ)昔ヨリノ伝ハリ敵(元から怨みのある敵)ニモ非ズ。今ハ此(かく)テ止(やみ)ナム。只挑計(ただいどむばかり)ノ事也。互ニ強(あながち)ニ殺サムト可思キ(おもうべき)ニ非ズ」

【意訳】
互いに(八百長ではなく)本気で矢を射尽くし、お互い技量のほどはよくわかっただろう。元々怨みがある訳でもなく、ただ行きがかりで戦うことになってしまっただけなので、あえて決着をつける必要はあるまい。

これを聞いて、源宛も同意します。

「我モ然(しか)ナム思フ。実(まこと)ニ互ニ手品ハ見ツ。止(やみ)ナム、吉(よ)キ事也。然(さ)ハ引テ返(かえり)ナム」

【意訳】
私もその通りと思う。誠に素晴らしい勝負だった。ここらで止めるのがよい。さぁ引き返そう。

これだけの技量を見せつけられて、なおも「決着をつけろ」と言える者はおらず、また1,000人を超える証人がいる以上、根も葉もない噂もやがて立ち消えていくでしょう。

古来「雨降って地固まる」と言うように、平良文と源宛はここに仲直りを果たし、それぞれ凱旋してよりいっそう名声を高めたのでした。

※参考文献:
小峯和明 校注『今昔物語集 四』岩波書店、1994年11月

角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

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