鳥羽法皇から軽視された青年時代
平清盛をして「日本一の大天狗」と言わしめたとされる後白河法皇は、1127(大治2)年10月18日に、鳥羽天皇の第4皇子・雅仁親王として生まれた。
本来なら皇位継承もままならない立場にあったが、院や後宮の複雑な対立の絡みや、異母弟の近衛天皇の急死により、1155(久寿2)年に29歳で即位した。
なぜ法皇が皇位継承から離れた立場であったかは様々な説がある。ただ、本人も皇位継承とは無縁と思っていたらしく、遊興に明け暮れる生活を送っていた。特に「今様」への執着は常軌を逸しており、昼は1日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かしたともいわれる。そして、ついに喉を壊し、声が出ないどころか、喉が腫れて湯や水を通すのにも困難をきたしたことが数度あったと伝わっている。
後白河の即位は、守仁親王、後の二条天皇が即位するまでの中継ぎとして見なされていたようだ。それは、即位式以前の同年9月に鳥羽法皇の主導により、守仁親王の立太子が行われたことにもよく表れている。
若いころから遊興に耽っていた後白河を、鳥羽法皇は皇位の資格なしとして軽視していたのだ。
鳥羽法皇の崩御で保元・平治の乱が勃発
1156(保元元)年、専制君主・鳥羽法皇が崩御した。
鳥羽院は「天下を政するは、上皇御一人なり」とも評された絶対権力者で、白河法皇と並び院政の最盛期を築いた王者だった。「わたしが世を去ったならば、天下はたちまち乱れるであろう」と語っていたとされ、その言葉通り死後すぐに保元の乱が勃発した。すなわち、政治のバランスが崩れたのである。
この2年後の1158(保元3)年、後白河天皇は守仁親王に譲位した。二条天皇の誕生である。そして後白河は、この時に太上天皇となり、後白河法皇となった。しかし、二条天皇の即位は、朝廷内に後白河の院政派と二条の親政派の対立を生むことになる。さらに、院政内部でも、信西と藤原信頼の間に権力闘争が起こり、朝廷内は複雑な対立の様相を見せるようになった。
そしてこの対立が、1159(平治元)年、平治の乱を引き起こすことになる。
この戦いで、後白河の院政派側近たちは、平清盛により全滅の憂き目にあった。後白河法皇は自力で仁和寺に退避した。ただ、平治の乱により、後白河院政派と二条親政派の対立は小康状態となり、後白河院と二条天皇による「二頭政治」が行われるようになった。しかし、その体制は長くは続かなったのだ。
二条新政派は、院政派の中心人物を解官、後白河の院政を停止した。1165(永万元)年、二条天皇が六条天皇に譲位し、崩御するとその流れは一変する。
母の身分が低い六条に人心が集まらないのを見て取った後白河は、勢力拡大を強力に推し進めると同時に、院政を再開した。
歴史の歯車に翻弄され続けた人生
その後の後白河法皇の人生は、歴史が述べるとおりだ。
平清盛が武家で初めての太政大臣となり、平氏政権を樹立する。後白河は清盛と対立し、清盛の死後は源頼朝ら源氏勢力による平氏打倒を画策する。法皇は、頼朝と源義仲を巧みに操り、源氏内での争いを起こさせ、そのうえで平氏滅亡に成功する。
しかし、それにより源頼朝による鎌倉幕府が成立し、朝廷権力との新たな確執が生じていくことになる。
法皇が生きた平安末期は、院・朝廷・貴族・武士の勢力が入り乱れた時代だった。その中で、34年にわたり「治天の君」として君臨した後白河法皇。幾度となく幽閉の憂き目にあい、院政停止にも追い込まれた。
しかし、その都度、持ち前の権謀術策を用いて復権を果たした。その間、皇族・武士・貴族とあまたの人々が、次から次へ、あたかも手駒を捨てるがごとく利用されて滅んでいった。信西、以仁王、源頼政、安徳天皇、平宗盛をはじめとする平氏一門、源義仲、源義家、源行家など、そうした人物の名を上げればキリがないほどだ。
法皇は、旧来の仏教勢力には厳しい態度で臨んだが、熊野御幸を繰り返し、東大寺大仏殿再興や新熊野神社、熊野若王子神社を創建するなど、神仏を厚く信奉した。
それは、心ならずとも自らの治世の間に、滅亡していった人々への鎮魂の念や法皇自身の心の葛藤がもたらしたものかもしれない。
晩年近くには、「玉体を全うするための処置をとってきたが、もう治世から身を引きたい」と、その心情を吐露している。おそらくは、これが法皇の本心であったろう。
「日本一の大天狗」と称された後白河法皇。しかし、歴史という大きな歯車に翻弄された人生だった。
そんな法皇にとって、神仏は大きな心のよりどころであったに違いない。
※参考文献
高野晃彰編・京あゆみ研究会著『京都ぶらり歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ、2022年2月
高野晃彰編・京都歴史文化研究会著『京都札所めぐり』メイツユニバーサルコンテンツ、2020年4月
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