平安時代

源頼朝はなぜ義経を追放したのか調べてみた

源頼朝
※源頼朝

1192年、日本で初の幕府が鎌倉に開かれた。それは武家による朝廷からの独立を意味しており、新たな政治形態の始まりでもあった。幕府を開くまでには源義経の戦功も大きかったが、最終的に義経は鎌倉を追放されてしまう。

それを命じたのは実の兄であり、征夷大将軍でもある源頼朝(みなもとのよりとも)
(久安3年4月8日(1147年5月9日)-建久10年1月13日(1199年2月9日)であった。

頼朝、義経兄弟の間にはどのような確執が生まれ、義経は追放されてしまったのだろうか?

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平治の乱


※蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市四日町)

平治元年12月(1160年1月)、二条天皇親政派と後白河院政派の争いにより、都の政局は流動的であった。

頼朝の父・義朝は12月9日、後白河上皇の近臣である藤原信頼が首謀者となった平治の乱に加わり三条殿焼き討ちを決行した。13歳の頼朝も参戦するが敗れている。義朝に従う8騎は本拠の東国を目指すが、頼朝は途中で一行とはぐれ、平頼盛の家人・平宗清に捕らえられてしまった。

父・義朝は謀殺され、バラバラになった兄弟たちも命を落とした。当然、頼朝も処刑されるところだったが、どうにか死刑は減ぜられて伊豆に流刑となった。頼朝は3月11日に伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)へと流されたのである。

法的には流人でしかない頼朝は、狩野川の中洲を出ることはできず、外部からの訪問者も、できる限り遠慮しなければならなかった。頼朝は地元の豪族・北条時政らの監視を受けつつ、14歳から34歳になるまでの20年間、この地で読経三昧の生活を過ごした。

関東平定


※伊豆・関東地方の地図

頼朝に転機が訪れたのは治承4年(1180年)のことであった。

後白河法皇の皇子である以仁王が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発したのである。これにより、頼朝も挙兵を決意すると、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある各豪族に挙兵の協力を呼びかけた。

伊豆を制圧した頼朝は、相模国(神奈川県)に進行するが、現在の小田原市石橋山の戦いで敗北し、真鶴岬から船で安房国(千葉県南部)へ脱出する。治承4年(1180年)8月29日、現地で勢力を持つ豪族を次々と従えて、目指す鎌倉に入ったのは10月6日のことであった。

鎌倉を目指す平家軍を富士川の戦いで破り、一応の関東平定を果たす。異母弟・源義経が頼朝のもとに参じたのはこの頃のことである。

養和元年(1181年)7月頃、頼朝は「後白河法皇に朝廷に対する謀反の心はなく、平氏と和睦しても構わない」という趣旨の書状を送るが、平清盛の後継者である平宗盛は清盛の遺言を理由にそれを拒否する。さらには、寿永2年(1183年)春、以仁王の令旨を受けて挙兵していた源義仲が頼朝の敵となり、源範頼(みなもとののりより/頼朝の異母弟で、義経の異母兄)と義経は数万騎を率いて京に向かい、義仲は粟津の戦いで討たれた。

このような争いが続く中、遂に範頼と義経は、平氏を追討すべく京を発つ。

壇ノ浦の戦い


※壇ノ浦

一ノ谷の戦いでは、義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲する。平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった。上洛の際、名前も知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって歴史上の表舞台に登場することとなる。

その後、範頼は鎌倉に戻り、義経だけが京に残る。対する平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、讃岐国屋島と長門国彦島(山口県下関市)に拠点を置いていた。

鎌倉政権は頼朝の弟・範頼に3万騎を率いさせて山陽道を進軍して九州に渡り平氏軍の背後を遮断する作戦を実行する。義経の参戦もあって、範頼軍はどうにか九州に渡り、平氏軍の背後の遮断に成功したのであった。

源氏の海軍大将として参戦した義経は、海上で敵に狙われるも、ゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。

こうした逸話を残し、源氏の勝利で戦いは終わる。平家は滅亡したのだった。

義経追放


※源義経

文治元年(1185年)4月、平氏追討で侍所所司として京都へ帰還していた義経の補佐を務めた梶原景時から、義経を弾劾した書状が届く。そこには「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」という義経の専横な態度への苦言が記されていた。さらに、景時の書状の他にも、範頼の管轄への越権行為、配下の東国武士達への勝手な処罰など義経の専横を訴える報告が入り、5月、御家人達に義経に従ってはならないという命が出される。

これには、1184年(元暦元年)に後白河法皇が義朝に断りを入れずに、義経を左衛門尉検非違使という役につけたことへの怒りもあった。

鎌倉と京都、距離は離れていても義経の出過ぎた立ち振る舞いが、頼朝には感じ取れていたのだ。義経は頼朝の怒りを解こうと、鎌倉の近くの腰越(鎌倉市腰越)までいって手紙を頼朝のもとへ送るが、頼朝は義経が鎌倉へ入ることさえ許されず、義経はしかたなく京都へ引き返すことになる。

これにより両者の決別が決定的となった。

最後に

義経に非がなかったとはいえない。しかし、街道も整備されていない時代のことである。鎌倉と京都、離れた場所にいて、頼朝の指示が正確に伝えられたとも思えない。しかも、頼朝は義経と直接話しもせずに追放したのだ。
仮にも一軍を任せたのであれば、その才能を信じて事実のみを追求する姿勢が頼朝には欠けていた。

これは時代故のコミュニケーション不足が起した悲劇であった。

(源義経については「源義経が逆落としをしたのは本当なのか」「武蔵坊弁慶は実在したのかどうか調べてみた」を

平家については「平宗盛は本当に無能だったのか調べてみた」「平家が壇ノ浦で滅びたというのは本当なのか調べてみた」を

平家物語については「「平家物語」を語る琵琶法師はもういないのか調べてみた」をそれぞれ参照)

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