平安時代

武蔵坊弁慶は実在したのかどうか調べてみた

武蔵坊弁慶
出典 wiki 歌川国芳作

源義経の相棒といえば武蔵坊弁慶と決まっている。だが、当の義経についてのイメージの多くが伝説に依拠した部分も多いという。ならば、この弁慶の存在自体も虚構なのではないかという疑念が湧く。果たして、武蔵坊弁慶は実在の人物であったかのかどうか、調査を行った。

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1「平家物語」の記述

まずは「平家物語」の記述から確認しよう。

武蔵坊弁慶の名が「平家物語」の標準的テキストである「覚一本」に初めて登場するのは、巻九「三草勢揃」である。

搦手の大将軍は九郎御曹司義経、同じく伴ふ人々、安田三郎義定・大内太郎維義・村上判官代基国・田代冠者信綱、侍大将には土肥次郎実平・子息弥太郎遠平・三浦介義澄・子息平六義村〜(中略)〜江田源三・熊井太郎・武蔵房弁慶を先として、都合其勢一万余騎、

一の谷の合戦に向かう義経勢の中のひとりとして名前が確認できる。

また行動をともなった一人物として描かれるのは巻九「老馬」が最初である。

山路に日暮れぬれば、みなおりゐて陣をとる。武蔵房弁慶、老翁を一人具して参りたり。

この地の道案内のできる老人を探して出して連れて来るという役割を担っている。

ただしこの部分は「平家物語」の最古態を残すといわれている「延慶本」では弁慶は登場せず、義経の陣の前を通りかかった五十歳ほどの男を「枝ノ源三」(えだのげんぞう)に呼び止めさせるという記述になっている。

その後、「覚一本」では「屋島合戦」や「壇ノ浦合戦」においても、武蔵坊弁慶の名こそは見られるが、「大勢のうちの一人」という扱いに過ぎず、これといった活躍は記されていない。

 

巻十二「土佐房被斬」においてようやく、

同九月廿九日土佐房都へついたりけれども、次日まで判官殿へも参らず。昌俊がのぼりたるよし聞き給ひ、武蔵房弁慶をもてめされければ、やがて連れて参りたり。

と、頼朝から義経を殺すために送られてきた刺客である土佐房昌俊を、義経の命で、義経の前に連れて来る場面に弁慶は登場する。(ちなみにこの「土佐房被斬」には、義経の愛妾であった「」も登場するが、俗にいわれる「静御前」という表記にはなっていない。)

 

もちろん土佐房との戦いに弁慶も参加するが、その描写も、

さる程に、伊勢三郎義盛、奥州佐藤四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵房弁慶などいふ一人当千の兵共、やがてつづいて攻め戦ふ。

とある程度で、あくまで「大勢の中の一人」に過ぎない。

 

「平家物語」における弁慶は「軍勢の中のひとり」の扱いであり、役割を与えられとしても「呼び出し係(パシリ?)」程度のものに過ぎないのである。

とはいえ、「平家物語」が歴史的事実に立脚して作成された物語である以上、ここに名が記されている限りは、「武蔵坊弁慶という人物の実在が、ある程度保証される」とはいえるだろう。

 

2「義経記」の記述

実は現代の日本人の描く弁慶のイメージの多くは「義経記」の記述に依拠したものである。

「義経記」は源義経の一代記の形は取りながらも、「義経の幼少期」と「平家滅亡後兄の源頼朝に追われて自殺するまでの逸話」が中心的内容となっていて、「平家物語」で描かれていない時代の義経の物語を補完するような構造となっている。

 

この「義経記」の中に、義経と弁慶が五条大橋で出会う場面の原型がみられる。

六月十七日、弁慶五条の天神に参り、夜とともに祈念しけるは、「今夜の御利生に、弁慶によからん太刀与へ給へ」と祈誓して、夜更くれば、天神の御前に出でて、南へ向いて行きければ、人の家の築地の際に佇みて、天神へ参りの人の中に、よき太刀持ちたる人をぞ待ちかけたる。暁方になりて、堀川を下りに来ければ、面白き笛の音のこそ聞こえけれ。弁慶はこれを聞きて、「面白や。只今さ夜更けて天神へ参る人の吹く笛にこそ。法師やらん、男やらん、あはれよからん太刀を持てかし、取らん」と思ひ、笛の音の近づきければ差し屈みて見れば、若き人の白き直垂に胸板白くしたる腹巻に、黄金作りの太刀の心も及ばぬを佩かれたり。

「義経記」では五条大橋ではなく、五条天神となっているが、まさにこれは五条大橋での戦いの原型である。なお、決戦場所を五条大橋とする作品に、御伽草子「弁慶物語」がある。

御曹司(=義経)「いざや連れ立ちゆかん」とて清水を下向して、五条の橋の真ん中を勝負境に定めたり。

また世にいう「立ち往生」についても「義経記」で見ることができる。仁王立ちになっている弁慶が既に息絶えていたことが、馬に当たって倒れてしまうことで判明する場面である。

武蔵坊は敵打ち払ひて、長刀を逆さまに杖に突き敵の方を睨みて、仁王立ちにぞ立ちたりける、偏へに力士のごとくなり。(中略)ある者の言ひけるは「剛の者は立ちながら死ぬる事のあるぞ、殿ばら当たりて見給へ」と申しければ、我も当たらじ我も当たらじとする所に、ある若武者の馬にて、辺りを馳せければ、疾くより死にたる者なれば、馬に当たりて転びけり。

さらに「如意の渡り」の場面。これは、「渡し守に同行の者が義経であると見破られそうになり、弁慶が扇で義経を殴り倒す」という場面である。

(渡し守)「正しくあの客僧こそ判官殿にておはしけれ」と指してぞ申しける。その時弁慶、「あれは白山より連れたる御坊なり。年若きにより人怪しめ申す無念さよ。これより白山へ戻り候へ」とて、船より引き下ろし、扇にて散々にこき伏せたり。

これこそが、のちに謡曲「安宅」、歌舞伎「勧進帳」の原型となる場面である。関所ではなく、渡し舟に乗る場面で、弁慶が義経を打つのが原型であった。

なお、富樫介という者と、弁慶が対面する場面が、この渡し船の場面の少し前に存在するが、「義経記」では、弁慶は一人で富樫介のもとに乗り込む。いわゆる勧進帳を読み上げる場面はまだ存在していない。

現代の我々のイメージする弁慶像の多くが、「義経記」に依拠していることが、おわかりいただけたかと思う。

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